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第9話 ブナの芽出し

庭の橅の木に天鵞絨《ビロード》のような銀の毛を纏った(まとった)新芽が出始めた。

橅の芽が出るのは他の樹木より少し遅い。


『それと、ヨウムくん、君は新学期からは、また基礎講座の受け持ちね。授業数は減らさないから。

ブナくんの容態は安定しているし、問題はないでしょう?』


先日そう玄関先で言い残していった上司のおかげで、ヨウムの日常は急に慌ただしくなった。

新学期まであとわずか二週間だ。


もしかしたら授業数は減るかと思っていたんだが……。甘かったな。


去年と変わらない授業数。そこにブナの面倒が加わる。明らかに仕事量が増えるということだ。今までも決して暇ではなかった。


ヨウムは目を閉じて、深い呼吸を一つする。


そして授業の準備とブナの対応に必要なものを頭の中に整理していった。


*


「経費は別で請求します」

「うむ」


「別途、手当も要求します」

「分かっとる、分かっとる」


シーモアはヨウムが提出した新学期からの授業計画とブナの教育に今後必要になる物品の購入承諾書に判を押しながら答える。


「何なら給料も上げてやろうか?」


「ご遠慮いたします。授業内容が変わらないのに給料が上がるのは変でしょう。別途手当をつけていただければ結構です」


ヨウムはシーモアの本気なのか冗談なのか分からない質問に、淡々と答える。


魔力量の少ないヨウムは他の教師よりもはるかに給料が低い。


だが、静かな庭とピアノのある自宅。研究に事欠かないと魔導書、そして必要なだけの魔導具があれば、それ以上を望む理由はなかった。

ヨウムは十分、今の生活に満足していた。


「ブナくんの様子は?」


「治療は日に四回、朝、昼、夕、晩に行うだけで安定しています。

毎朝一時間ほど、継続して意識を保てるようになりました。

身体を動かすのはまだ痛みが伴うようです。

それ以外は眠っていますが、魘される(うなされる)ことはかなり減りました。

一週間か二週間もすれば身体も休眠状態から抜けるでしょう」


ヨウムは報告書通りの返答をする。


*


「動け……そうです」


ブナはそう言うと身体を起こした。

それはヨウムがシーモアに報告した翌朝だった。


ヨウムは呆気に取られる。


魔力量の違いが、こうも回復に影響するのだろうか。

それとも彼女の天性の才能か。生まれ持った生命力の強さなのか。


ブナはベッドに腰掛けた状態から足を床に置き、立ち上がった。同時に床が煤《すす》がついたように真っ黒に汚れる。


「あっ」

ブナは慌てて床にしゃがみ込み、汚れを取ろうと必死に手で擦り始める。

すると今度は手で触れた所も黒く汚れていく。


「あっ。ああ」


「いい。大丈夫だ」

戸惑うブナを制しベッドに戻るよう伝える。


ブナは再びベッドに腰をかける。ベッドは黒くなったりしない。

当たり前だ。家中、保護魔法をかけておいた。

床を除いて……。


ぬかったな。初歩的な所を忘れていた。


「手足は……切り落としますか?」

感情の乗らない声で衝撃的な言葉が飛んできた。


「切り落とさない」


なんて物騒なことを考えるんだ。


ヨウムは呆れつつ、床に移ったミスを術を展開して解いていく。

ブナは目を白黒させながらその様子を見ていた。


「ま……ほう」


「ミスは、普通に掃除しても取れないんだ。こうやって術式を書き、回路を展開して、そこにミスを移して解いていかなくてはならない」


あえてゆっくり解いてみせる。


「もう歩いても大丈夫だ」


そう言われてブナはまたその場で立ち上がる。

真っ黒な自分の足の裏と床を交互に見つめ、パタパタと足踏みする。


「汚れない!」


真っ黒な顔から表情は見えないが声音が喜んでいるようだった。


ヨウムは思わずふと笑ってしまう。


リリーより子供っぽい。



また翌日の朝。


ブナが覚醒する前にと、いつものようにカーテンを開ける。

治療をしようとしてブナを見て、ヨウムは目を疑った。


「顔が……」


ミスは額の上あたりまで抜け、禿げていた頭には短い芒色《すすきいろ》の髪の毛が短くほわほわと生えていた。


顔は今までの凹凸すら分からない光を飲み込んだような漆黒ではなく、顔の形が分かるほどの黒さになっていた。

おかげで目鼻口の輪郭が分かる。


「顔がある」


人ならばいたって当たり前のことをヨウムは口にした。

ヨウムはブナの治療をしながら、状態を診る。


「休眠状態が終わっている……」


ごくゆっくりではあるが身体は生命活動を始めている。


すぐにでも報告するべきだが……


ご機嫌で訪問してくるであろうシーモアのことを懸念した。


正直、今はご遠慮願いたいな。

こっちも準備を早めなくてはならない。


学園は魔導学において比類なき機関だ。

どこにでも売っているような汎用的な教科書などなく、授業に必要なものは過去の教員達が試行錯誤して作ってきた。授業の準備には時間を割かれる。


授業の教科書の見直し、プリント、資料、標本などの準備。


新学期が始まれば、ブナを一人で留守番をさせなくてはならない。

その間、ブナにも適した教材が必要になる。

図書館、本屋、文具店、雑貨店……それから食料店。

やるべきこと、行くべき所に考えを巡らす。


「おはようございます」

覚醒したブナから声をかけられる。


「おはよう。気分はどうだろうか」


「昨日より、身体、軽いです。動いても、痛み、少ないです。働けます」

息苦しさもあまり感じていないようだった。


「働かなくていい。第一、無理はよくない。喉が渇くとか、お腹が空くとか、何かあるだろうか」


「眠いです。起きたのに、もう、眠いです」


「寝ていなさい。その方が早く治る。今までの休眠とは別で、身体が睡眠を必要としているんだ」


今覚醒したばかりのブナは早速、再び眠りについた。


今までは人形のように動かす、死んだように眠っていたブナは、今や、寝返りをうてるほどまでに回復していた。



また翌日の朝。

目を覚ましたブナは眠そうに微睡んでいた。

水を一杯だけ飲み、またすぐに眠った。



また翌日の朝。

ヨウムはお盆に果物を盛り合わせた深めの小皿にフォークを添えブナの前に差し出した。


「お腹が減っていたら食べるといい。果物なら食べやすいと思うんだが」


ブナは目を丸くし、果物の香りをクンクンと嗅ぎ、目を見開く。


「食べて、いいですか?」

「食べられるだけ食べていい」


ブナは顔を皿の近くに持っていき、おもむろに両手で掴んで食べ始めた。

一口食べ、驚いた顔で、持っている果物をしげしげと見つめる。


食べ方が……汚いな。


読み書きを教える前に、教えなくてはいけないことは山ほどありそうだ。


果物を食べつくしたブナは皿の中の果汁も飲み干し、さらには、皿も、自分の手も舐め始めた。


「舐めない」

思わず強めに制し、お盆ごと取り上げる。


「舐めてはいけない。お行儀が悪い」


ヨウムは子どもを諭すよう、静かに伝え直す。

フォークを使わないのも、果汁を飲むのも許容範囲だったが……舐めるのは問題外だ。


「手を洗おう。おいで。ついでに家の中も案内しておこう。

家の中のものは自由に使っていい。鍵をかけてある棚だけは、扱いの難しい魔導具などが入っているので、危険だからきちんと私の許可を取るように」


ブナは目を丸くして、キョロキョロしながらついてくる。


台所、居間、庭、ヨウムの部屋、二階に続く階段、玄関、トイレ、洗面所、風呂。


「畑!」

「庭だな」


「トイレ!? キレイ。住めます」

「住まない」


「ふろ!? おっ、お金持ち」

「わりと普通だ。明日、沸かしてやるから入ったらいい」


ヨウムの言葉にブナは「めっそうもございません」と驚きながら返す。


変な言葉を覚えているな。


「オケと水ある。十分、です」

「清潔であることは何より大事だ。身体を温めるのも健康にいい。毎日入りなさい」

「まい……にち?!」


「これが石鹸」

洗面台で手を洗わせるために手渡す。


「せっ……けん?! 高級品っ」

ブナは両手を揃えて高くし、頭を下げてうやうやしく受け取る。


「普通だ」

「いい……におい! おおお、お高いやつ」


「蛇口はここ」と、水を出してやる。

「ぅおおっわぁ」

ブナは後ろに下がって仰け反った。


反応がいちいちおかしい。


「この部屋がブナの部屋になる。好きに使っていい」

今まで寝ていた部屋に戻る。


「私、一人、ですか?」

「そうだが?」

ヨウムは質問の意図が分からない。


「二十人、住めます」

「住めない。入るわけがない」

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