第10話 四月の朝焼け
「いい匂い」
また翌日の朝、ブナは起きざまに言った。
顔は真っ黒というより薄墨色になっていた。
瞳の色が印象的だった。
目の瞳はもう黒くなく、赤みを帯びた淡いオレンジ色のような金色のような色をしていた。
――朝焼けの色だ。
ヨウムは人出が少ない、薄暗い早朝の時間に走るのを日課にしている。
ブナの瞳は、その帰り道、太陽が昇る少し前に見えるあの美しくて眩しい燃えるような空の色をしていた。
「スープを作っている。温かい野菜スープなら、ブナも負担なく食べられるかと思って」
「温かい……スープ。温かい、食べたことないです」
今までの暮らしぶりからすると、冷えた食事しかしてこなかったのは容易に想像できる。
「あと、風呂も沸いているから入っていい」
「おお、おふろ……」
浴槽を眺めるブナに一通り使い方を説明し、あることに気づく。
しまった。着替え……か。
*
「おはようございます」
目の前の男は無愛想に挨拶をしながら玄関を開ける。
「うむ。おはよう」
シーモアは笑顔で答える。
そして案内もされていないのにズカズカと遠慮なく家の中に入っていく。
「こんな早朝にどうしてご訪問を?」
時計の針はちょうど七時を告げている。
「いやなに、ここ数日、君はアカデミーの図書館と教員室に毎日顔を出していただろう」
「授業の準備がありますから」
「その割に、報告書が一度も出ていない。
だからね、何か楽しいことがあると思ってね」
シーモアは持っていた大量の荷物をリビングのテーブルの上に置きながら話す。
ヨウムは首を振って、自室から茶封筒を持ってきた。
「忙しくてお渡しそびれていました」と白々しく言い、手渡す。
シーモアはさらりと中の書類に目を通す。
『休眠終了。生命活動反応あり』
そう、しっかりと書かれていた。
「ヨウム君の見立てよりもブナ君の回復が毎回早い理由は?」
ヨウムが予測を外すのは珍しい。
その理由も報告書に書いてあるのだろうが、読むより説明させた方が早い。
「考えにくいのですが……」
ヨウムは眉間に皺を寄せ、口元を手で覆いながら説明する。
「当初、ブナの、魔力受容利用率を七十パーセントほどで計算していたのですが……。
私の魔力量は少なく、捉えにくいでしょうから七十パーセントでも十分高い値ではあります。しかし……それが九十パーセントを超えていたのではないかと」
「ほうほう。魔術の魔の字も知らない、まったく知識のない娘が、君の魔力を九十パーセント以上も受容し、使ったと! それは確かに考えにくい。それで、本人は?」
ブナの部屋のベッドは空っぽだった。
「今。風呂に入っています」
「すみません」
後ろから声がかかる。
「ズボン、大きくて、着れないです」
シーモアはブナの変化に驚いた。
ブナはしっかりした足取りで立っている。額まで地肌色になり、顔から首元までは淡墨色になっている。
何より赤みを帯びた黄金色の瞳が印象的だ。
「なるほど……確かに九十パーセント以上か」
考えにくいが、結果がものを言っていた。
「素晴らしい」
期待以上のブナの資質にシーモアは殊更気分がよくなる。
これはいよいよ本物だ。
シーモアは逸る鼓動を抑え、いつも通りの笑顔を湛える。
ヨウムの身長はとても低いが腹が出ている。
ブナは十四歳ではあるが、患いのために五歳児程度の身体の大きさだ。
ヨウムの服は膝下までだらりとかかり、真っ黒な足が見えている。
立ち方はガニ股で路地裏の孤児にしか見えない。
「ほう。君に年頃のお嬢さんに自分の男物のブカブカの洋服を着せる趣味があったとは」
シーモアはあえて自分の気分の良さを隠すために冗談を言う。
「いや、別にそういうつもりじゃ。服の用意を忘れていてっ」
自分のしでかしたことを悟り、予想通りにヨウムは動揺する。
「ほれ、ブナ君の着替えだ。百センチから百六十センチの服、ズボン、下着類一通り一式揃えてある」
と、持ってきた荷物を差し出す。
「質素なものしかないから、あとは買い足してもらいなさい」
そう説明し、百センチの衣服のセットをブナに手渡し着替えるよう促す。
「あったなら、先に言ってくださいよ」と、珍しく理不尽なことをヨウムが言った。
「他にもある」
その他の荷物もにこにこと笑顔でヨウムに手渡してやる。
机の上にはヨウムがブナのために準備したであろう、筆記用具、色鉛筆、お絵かき帳、クレヨン、折り紙、粘土、シール、のり、ハサミ、積み木、パズルなどが置いてある。
そして、ヨウム自身が読むつもりであろう、
『子どもの情緒と成長』、『小児の発達と社会性』、『勉強のできる子の生活習慣』、『親が意識するべき言葉かけ』、『自立できる子を育てるために』などの本が積み重なっている。
「君は子どもでも育てる気かな?」
「ブナは実年齢よりだいぶ幼いですから」
そう言いながらヨウムは荷物を確認している。
「スリッパ? 膝掛け?」
「女性は足元が冷えたりするからな」
「化粧水……。しかもこんなに大量に?」
「朝用、夜用、化粧水に乳液、美容液。フェイス用にボディ用、髪用もある。女性は色々ケアが必要だろう」
呆気に取られたヨウムは顔をしかめる。
「はっ……。歯ブラシっ」
忘れていたのだろう、片手で顔を覆っている。
「教材ばかりあんなに準備して、そこに考えが至らないとは。君が付き合った女性を家に招くくらいの経験があれね、簡単に気づくと思うんだけど」
ヨウムは女性用の下着や生理用品まで見つけてしまい、慌てて奥底にしまい直している。
「あるわけないでしょ。こんな姿で。
やはり私に女性を預かるなんて無理ですよ。どなたかに担当を変えてください」
ヨウムは動揺しながら珍しく大きな声を出す。
シーモアはやれやれとそっぽを向き、ヨウムが準備した『点と線の繋ぎ遊び』という子ども向けの自習帳を手にする。
文字を覚えさせる前に、筆記に慣れさせるために使うつもりなのだろう。
アカデミーの教員達は皆、至極優秀だが、己の技術と知識に自負があり、プライドも高い。高度な授業ならやりたがるが、読み書きもできず、品位もない小娘の面倒など誰も見たがらない。
「君は男としてはダメダメだが、教師としては優秀だ」
*
「私は、ここを、追い出される、ですか?」
ちょうど良いサイズの子ども服に着替えたブナがヨウムに不安げに聞いてきた。
ヨウムはブナの前にしゃがみ、子どもを安心させるように、手を取り目を見て言う。
「追い出さない。すまない。私の発言で心配させてしまった。
君がちゃんと一人で生きていける力を身に付けるまで、一番良い方法で私はサポートするし、学長もそのつもりだから安心してくれていい」
嘘ではない。
一番良い方法が、担当を変えることなら、それはそうすべきだ。
学長の中ではブナを学園に入れることは決定事項になっている。学園で学べれば、その後仕事に困ることはない。
ブナは小さく一つ頷く。
「さて、ちょっといいかな?」
シーモアはずいと横から手を伸ばしてきて、ブナの額に指を押し付け魔力を流し、術を展開した。
「ブナ君や。君はヨウム君が治療のために君の中に流していた魔力と、今、私が君の中に流している魔力の違いが分かるかな」
ブナは一度、ヨウムの方を確認する。
「はい。分かります。お二人の魔力は違います。
ヨウム先生の魔力は……冬の日のお日様のようで、学長の魔力はもっと力強い……滝のような感じです」
今、シーモアが展開しているのは先日も使った言の葉の魔術だ。
「うむ。魔力は人固有の形をしているからな。ではなぜブナ君はヨウム君の魔力が分かる? 彼の魔力は細く捉えにくいだろう?
君の中にある自身の膨大な魔力と、それ以上のミスの澱の中では気付くのは難しいと思うのだが?」
「よく分かりません。ただ、いつも必死でした。ヨウム先生の魔力?……に、しがみつくとができれば、身体が楽になりました。だから、いつも必死で探していました」
「なるほど」
シーモアは術式を閉じた。
ブナは台所の鍋を見つめている。
ただ必死になれば、本人の膨大な魔力とミスが渦巻く中で、あんなに確実に私の魔力が見つけられるものだろうか。
ヨウムは不思議だったが、ブナの経過を見る限り、そうなのだろう。
シーモアもその結論しかないようで、ヨウムを見て頷く。
「ああ、ブナ君。お近付きの印に土産を持ってきたのだ。紅茶だ。妻のお気に入りの一品だ」
シーモアが無造作に紙袋から取り出したそれは一流紅茶店の茶葉の缶だった。
よりによって、良い産地の良い農園の、もっとも採取するのに良いとされる夏摘みの茶葉であることが、パッケージから分かる。相当高価なものだ。
ヨウムがさすがに断ろうとする。それよりも先にブナが口を開いた。
「紅茶……身分不相応、です」
「ほう。難しい言葉を知っておる」
「三番目の主人、いつも言います。学長、偉い人。お金持ち。奥様が好きは……私の、身分不相応……」
「なるほど。三番目の主人か。気分屋で恐くて、手下の多い主人だったか?」
シーモアがブナを鋭く見返す。
「学長、ブナに紅茶の味は分かりません。良いものですから、奥様とお楽しみください」
ヨウムは二人の間に静かに割り入って、丁寧に紙袋に戻してシーモアに預ける。
ブナは半分目を閉じて、欠伸をしだし、目を擦り始めた。もう眠たいのだ。
「ブナはもう寝なさい」
「温かい……スープ」
「また作るから、とりあえず今日はもう寝なさい」
ブナは最後まで鍋を見つめながら残念そうに部屋に戻った。
*
「ヨウム君は明後日の中等部入学祝いのパーティーはどうする?」
ヨウムが差し出したお茶を飲みながらシーモアが形式的に聞いてくる。
「去年と同じく欠席ということにして下さい。
伝統ある天下の魔術古語魔導学園に入学できて舞い上がっている学生達の中に、あえて晒す姿ではありませんから」
「まあ。我が校の学生達は品の良い温室育ちのものが多いからな。君の姿を見たら、その日のうちに倒れるものが続出し、クレームが飛んでくるだろうな」
この国では貴族の法的特権はすでに失われている。
貴族がどれほど名門であっても、市井の市民がどれほど貧しくても、政治的な力は平等になった。
表面的には。
だが長年の名声と人脈は消えず、今も名家として社会的な敬意を集めており「貴族家」として特別な地位が保たれている。
だからこそ余計に、彼らは貴族という文化がなくならないように、より高潔に貴族らしく振舞っている。
「さて、そろそろお暇するよ。では、ブナ君のことは任せたよ。十六歳には中等部に入学できるといいの」
ヨウムは首を横に振る。
「十七歳での入学を目指します。わずか三年で学園に入学できるほどの品位と知識を身につけさせるには……少し、難がありそうです」
「そうか。まあ、孫たちの世話係も任せたマーサを一度、どこかで来させよう」
「よろしくお願いします」




