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第6話 橅と少女と名前

三月末。

季節外れのドカ雪が降った次の日だった。


「君の回復力には毎回、驚かされる」


部屋に入ると患者はベッドの上で上半身を起こした状態でいた。

ミスの残存量を診ると、とてもじゃないが、まだ起き上がることは難しいはずだ。


「無理をしなくていい。寝ていなさい」


そう言っても「大丈夫……です」と返してくる。仕方がないので、背中を支えて、肩を押すようにし、ベッドに寝かせる。


カーテンを開けると雪で反射した眩しい光が入ってきた。

患者は一瞬目を細めたが、そのまま食い入るように外の景色を眺めていた。


ヨウムは珍しく少し緊張していた。


「君の名前を知りたい」


ここ数週間で覚えた隣の大陸の言葉で尋ねる。


「名前はありません。エバンなので」


患者も隣の大陸の言葉で返してきた。


「親がいるだろう? 親からつけてもらった名前は?」


「ありません。私は生まれた時からエバンなので」


「では、君の言うエバンとはこの意味だろうか?」


辞典を広げて見せる。


「すみません。字、読めません」


「そう……か」


そこまで言うとヨウムは瞼を閉じて、隣の大陸の言葉を喋るのをやめた。

もともと確認のためだけに必要な言葉だけ付け焼き刃で覚えただけで、話せるわけではない。


隣の大陸は貧富の差も激しい。

国自体も貧しく、こちらほど発展はしていない。識字率も低い。


とりあえず、流暢に返答が返ってきたので、患者は隣の大陸の人間なのだろう。


「エバンは、こちらでは奴隷という意味なんだが」


「そう。ドレイ……です」


ヨウムが小さく呟いた言葉に患者は返してきた。

その返答に、ヨウムの鼓動は大きく早くなり、全身からどっと冷たい嫌な汗をかいた。


「なぜ?

親がいると言っていたじゃないか。

何で名前がない? 意味が分からない。

妹と弟もいると、家族がいると言っただろう?」


ヨウムは珍しく早口だった。

片手で顔を覆い、目を閉じた。


「妹、おか。弟、おおさ。です」


名無しの患者は兄弟の名前を聞かれたのだと思い、小さく答えた。


ヨウムの眉間に深い皺が寄る。


何で、兄弟の名前があって、目の前の患者には名前がないのか、ヨウムは理解ができなかった。

ふつふつと苛立つ気持ちを顔を覆いながら必死に抑えていた。

奥歯に力を入れて感情を噛み殺す。冷静であろうと努める。


しばらくしたのち、ヨウムは深く呼吸をして、名無しの患者を見つめ直した。


「名前が必要だ。名前を決めよう」


そう言うと花の図鑑を持ってきて目の前で支えてパラパラとめくって見せてやる。


「こちらの大陸では女性には花の名前をよくつけるんだ。好きな花とかないだろうか」


カモミール。ミント。ローズマリー。セージ。

ヨウムの馴染みがあるのは薬草のため、薬草以外の名が出てこない。


「好きな……はな」


患者は窓の外を見る。


「木、キレイ……。光って……ます。ので、好き、です」


庭には橅《ぶな》の大木が聳《そび》え立つ。


葉が落ちている橅は、幹と枝だけではあるが、雪を被った枝が広がっていく姿は、光に照らされ、白銀に眩しく輝いており、確かに荘厳で美しい。


「ブナか……」


女性につけるにはあまりかわいい名ではないかもしれないが。


「橅は保水性も高く森の生態系にとても重要で、森の母なる木とも言われている。

何より君が気に入ったのならそれがいいだろう」


「ブナ、君の名前はブナだ。

いいか。君はエバンではない」


そう、力強く伝えた。


「ブナ……名前……は」


そう呟くブナの漆黒の顔は相変わらず表情が読めない。


「名前。ブナ……」


覚醒時間が限界になったブナは、か弱く呟きながら深い眠りに入った。


*


ヨウムは珍しく報告書を書くのに難儀していた。


あの人のことだ。すぐばれることではあるんだが……


報告書には今回の覚醒時間、そこから予告される次の覚醒時間の日時、ミスの予測残存量、治療内容、それに対する生体反応といった、いつも通りの報告に加え、ブナという名前と、家族構成。

素性は隣の大陸であろうことと、読み書きは不可能ということだけを添えた。



異変に気づいたのは買い物からの帰り、玄関の扉の取手に手をかざした時だった。


「鍵を壊すとか……。

いくら何でも、やるだろうか。やったのか」


ヨウムは鍵を直すのを後回しにし、買った物を台所に放って、足早にブナの眠る部屋に向かう。


絶対的な魔力量をして力業で玄関の鍵の術式を破壊した本人はベッドの横にある椅子に腰掛けてくつろいでいた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう。勝手に入らせてもらったよ。早く会いたくてね」


「分かりますが、鍵の術式は壊さないでください。学長なら、解いて入れるでしょう?」


「もちろんできるとも。

でもねえ。あんなに細かくて、ちまちました術式をちんたら時間をかけて解くより、魔力を叩き込んで壊した方が早いからね」


「今お茶を淹れます」

ヨウムは諦め、台所へ向かうと、脚立を使い棚の上から上等の紅茶の缶を取り出した。


*


意識の遠くでいつもの音色が聞こえる。


目を開けることはできず、身体も動かないのでブナは耳だけ澄ます。


暗い緑青色の瞳の男が奏でているのだろうと思った。

名はヨウムだと言っていた。この家にはヨウム以外の人の気配を感じない。


いい主人だ。


できれば長く置いてもらえるとありがたい。

こんなに息苦しくないのも、寒くないのも、熱くないのも、痛くないのも久しぶりだ。


昔、家族と暮らしていた頃は身体も軽かった。自由に動いた。


でも、大丈夫だと言われたことはなかった。

名前を与えられることはなかった。エバンなのだからと言われてきた。


ブナは嬉しかった。


妹と弟にあったものが、私にも与えられた。

エバンではないといわれた。


妹と弟と同じになったことがとても嬉しかった。

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