第5話 雪間の会話
その患者に声をかけられたのは突然だった。
二月末。
早朝の空気は、依然として肌を刺すほどに鋭く冷たかったが、陽射しは温かい日だった。
庭先の日当たりのよい場所の樹の枝に積もる雪はだいぶ軽くなった。雪に覆われ、凍てつき、動きを止めているように見えるその奥底では、春を待つ生命の力が静かに息づいていた。
ヨウムは報告書をまとめようと、治療室と化した部屋に入る。
いつでも治療ができるようにと、仕事に必要なものは殆どその部屋の机に移動させていた。
「ここは……医務室、です……か?」
ベッドの方から声がかかる。
初めて聞きとった言葉は思いの外、しっかりしていた。 その様子にヨウムは驚いたが感情を表情に出すことはしない。
瞼を半分閉じ、質問に答える。
「いや。私の自宅の一室だ。気分はどうだろうか? 痛みなどは?」
「大丈夫……です」
大丈夫なわけがない。
実際、患者は身体を起こそうと試みて、少しも動けないでいる。
「無理をしなくていい。
身体はまだ休眠状態にある。意識はあっても思うように動けないはずだ。痛みだってひどいだろう。
私の名前はヨウムという。君の名前は?」
「エバン……です。なので、エバと呼ばれます」
「家族や家は? 分かるだろうか?」
「父……母……妹、弟……います」
「家族がいるのか。それはよかった。住まいは何処に?」
正直、身寄りのない孤児だと思っていたため、ヨウムは心から安堵した。
家族は患者の生存にとても喜ぶだろう。
早く伝えてやりたい。
早く家族の元へ帰してやりたい。
「わえんじ……に、います」
そこまで言うとエバンと名乗った患者は再び引きずられるように眠りについた。
わえんじ
聞かない発音だ。
言葉も抑揚が違っていた。
この大陸の者ではないのか?
ではなぜ、あのミスの中にいた?
家族はどうなった?
新たな疑問が次から次へと湧いてくる。
「とりあえず調べるか」
ヨウムはすぐさま外套に手を通す。
この容態なら三時間のうちに戻ってくれば安心だろう。
「報告書は後でいいか」
そう独りごつと、久しぶりに学園の図書館に向かった。
*
意識の向こう側で、美しい音色を聞いた。
何の楽器か知るはずもない。
ただ、その音色は心地よく、聞いていると、喉が焼けるような息苦しさが紛れた。
眠るのは嫌だ
夢を見たくない
夢の中で何度も灼かれ、何度も死んで、何度も逃げて、何度も殺された。
終わりなく続く夢の中で、微かに流れてくる温かいものを必死に探し続けた。
それにしがみついている時だけ全ての痛みと苦しさから解放された。
目を開けると、そこにはいつも暗い緑青の色があった。
頬や頭に当てられる温もりはとても温かく、いつも、大丈夫だという、静かな響きが聞こえてきた。
感じたことのない、不思議な安堵感を覚えた。
*
ヨウムはひたすら隣の大陸の地図を見ていた。
ワーエンジ……あった。
これだろうか。
少し発音が違うのは翻訳のせいだろう。
隣の大陸の言語事典や簡単な常用語会話の本などもパラパラとめくる。
『エバン』
事典で見つけた単語にヨウムは背筋から冷や汗がどっと噴き出るのを感じた。
違うはずだ。
家族がいると言っていた。
ヨウムは辞書で見かけた単語の意味を必死で頭から追いやった。
その後、何日か患者は瀬で魘されていた。 治療中、目はほんの少し合ったが、話すことはなかった。
どう…確認したらいいんだ。
ヨウムは患者の一刻も早い回復を心から願いながら、確認することに背筋が凍るほどの不安を覚えた。




