第4話 目覚めと冬籠り
ヨウムは居間のピアノに手を置いた。
「ピアノを弾くと声が聴き取れなくなりそうで心配なんだよな」
学園に行かなくなって一ヶ月ほど経つ。
ヨウムの毎日は変わらない。
患者は相変わらず油断できない状況にあり、注意を怠ることはできない。
そのため、長く家を空けることも、熟睡することもできない。
治療をするか、その傍らで患者の報告書を書くか、魔導書を読むか、己の研究を進めるかだった。
初めの頃は、学長自ら、やれ、学期末試験の採点をしろだの、成績評価をしろだの、訪れていたが、学園が冬季休校に入ってからはそれもなくなった。
「変わり映えのない報告書に飽きたんだろうな」
それでも、ヨウムは満たされていた。
ありがたかった。
ミスの中で生きてくれていた。
「今度は……助けられる」
握りしめた拳に汗が滲み、思わず力が入るのを感じる。
「うー。うー」
魘されている。
澱が溜まりはじめている。ミスの蝕みに抗っているのだろう。
ヨウムはいつものようにベッドの傍に置いた椅子に座り、ミスを解き、魔力を注ぐ。
それと同時に、見慣れぬ黒い眼球と、その白眼が突然ヨウムの暗い緑青色の瞳を捉えた。
光を吸い込んだような真っ黒な顔は輪郭も凹凸も分からない。その白眼だけが異様に白く浮き出て見えるその姿は奇怪だった。
ほんの一瞬の出来事だった。
「今、たしかに目が合った」
さすがにヨウムもその奇怪さにどきりとしたが、すぐにそれは胸の高鳴りに変わった。
瀬に入り始めた。
意識が、戻り始めた。
*
目が合ってから一ヶ月。
その後も幾度か目が合うことがあった。
患者の回復は目覚ましかった。
魔力を注いでやると、すぐに魔力を捉えてくる。
おかげで回路を深くまで展開しやすく、ミスの排出量も格段と増えた。
「君は私の魔力が分かるんだな」
ヨウムの魔力量は決して多くない。
患者の膨大な魔力とミスの蝕みの中でヨウムの僅かな魔力を見つけるのは困難なはずだ。
患者の頭をそっと撫でる。
年齢は分からないものの、五歳児程度しかない小さな身体のせいで、どうしても死んだ妹を思い出す。
当時、どうしても救いたかった生命。
しかし、どうしても救えなかった生命。
死んだように眠っていることが多かった患者は唸る時間が増えた。
「確実に瀬に入ったな」
瀬にいるからより魘される。
逆にミスの深淵に落ちているときは反応できない。
瀬までくれば、ミスの深淵に呑まれ、蝕みが進行することは格段に減る。
完治まで時間はかかるが、命の危険が迫ることはもうないだろう。
「春までかかると思っていたのに……君の生命力は本当にすごいな」
そう話しかけると突然、白目が二つ、漆黒の中に現れる。
目が合った。
それと同時にヨウムは勢いよく手首を掴まれた。
相手は苦しげな、短く荒い呼吸をしている。
漆黒の顔からはまったく表情が読めない。
「大丈夫だ。もう大丈夫だから。よく頑張った」
ヨウムは驚いたが、掴まれた手とは逆の手で相手の頬に触れ、子どもを落ち着かせるように静かに話しかける。
凝視している漆黒の瞳と白目は数回瞬きをした。
「あ……う……」
言葉にならない唸り声を出し、また何かに引きずられるように眠りについた。
掴まれたヨウムの手首はミスの影響で煤がついたように真っ黒になっていた。
それを魔術で取り払いながら部屋を見渡す。
「そろそろ目覚めるな。これは……今のうちに家全体に保護魔法をかけておいた方が良さそうだ」




