第57話 八月の蛍と翌年二月の雪
「こっちはあっという間に夏が終わってしまうんですね」
涼しくなった夕方の風を頬に受け、ブナは名残惜しそうに言う。
冷えた空気には、肌にまとわりつく昼間の湿気はもうない。
積乱雲が夕日に焼かれ、巨大な茜色の塔のようにそびえ立っている。
「秋も好きですが、もっと夏を楽しみたかったです。
ここの夏は涼しいし、風が爽やかだし、緑が深くて、花の色が鮮やかで、空が青くて、蛍がきれいで、雷も俄雨も多くて楽しくて好きです」
ヨウムは焚き火に薪をくべながら耳を傾ける。
「雷も雨も好きなのか」
「雷は綺麗ですし、雨は音と匂いが好きです。夏の雨の後はよく虹も出ます」
「なるほど」
確かにブナは天候など気にせず毎日散歩に出かける。
どこからか白粉花の甘い良い香りがする。
茅蜩のうら寂しい澄んだ鳴き声が樹々の中に響く。
ブナの声も、焚き火の揺らめきも、風で運ばれる花の香りも、虫の音も、ヨウムに平穏を運んだ。
穏やかだ。
「蛍、見れるといいな」
ブナは蛍をいたく気に入った。秋が来る前にもう一度見ようという話になり、簡易テントと寝袋を二つずつ持って、蛍が活動するのを待つことにしたのだった。
「ヨウム先生が力持ちなのも魔法ですか?」
「そうだな」
「ヨウム先生がやたら走り込みが早いのも魔法ですか?」
「そうだな」
「何でもできますね」
ブナは羨ましそうに、そして興味津々に尋ねる。
「ブナも学園で勉強すればできるようになる」
正直、呼吸を基にした身体強化は難しい技で、誰もが習得できるものではない。
学生のうちで習得できるものは極わずかだろう。
それでもブナが望むなら可能だとヨウムは思う。
勉学に関し努力を惜しまない子だ。
「早く、しっかりした魔術を学びたいなら……学長が言うように、来年の春に中等部に入学するという方法もあるが?」
ブナは首を振る。
「まずは初等部に入りたいです」
初等部は魔術よりも普通教育が主になる。ヨウムは日頃から、普通教育が何より大事だとブナに言い聞かせて教えている。
「初等部は私も賛成だが、ブナはなぜ中等部ではないんだ?」
「中等部からは寮に移ります。でも、ヨウム先生の担当は中等部だけなんですよね?」
「そうだな。私は魔力が少ないので高等部は持たないから」
ブナは一つ頷く。
「一年でも長く、ヨウム先生から多くのことを学びたいんです」
「そう……か」
随分と懐かれたものだ。
ヨウムは慣れないことに居心地の悪さを感じる。
冷たいくらいの夕方の風が丁度いい。
そう思いながら、パチパチと音を立てて舞い散る火の粉を眺めた。
*
それから半年後
窓の外では雪がちらつき始め、講堂は深々と冷えていた。
ブナはその双眸に怒りの炎を宿していた。
絶望に近い怒りだった。
目の前に広がる光景が受け入れられない。
納得ができない。
なぜ、なぜ、なぜあの人が枷をされているのだ。
ブレンナとライが落ち着けと、ブナを二人がかりで力尽くとめる。
自分の枷の跡をきれいに取り除き、自由が何たるかを教えてくれた人だ。
許せない。許せない。
これが自分のしでかしたことの結果なのか。
「すみません。私の管理不行き届きでした」
ヨウムは現状を容認し、静かな表情で謝罪をしている。
私の担当を押し付けられたばっかりに。
私が言いつけを守らなかったばっかりに。
私の代わりに両の手足に枷をされ、圧倒的な魔力で押さえつけられている……。
「ヨウム先生ならあれくらい解けるでしょう!?」
ブナは身体を揺らして、怒り散らしながらブレンナに喰ってかかる。
「できないのよ。あの二人とは絶対的に魔力の量が違うの。
それに、できてもヨウム君はやらないわよ。そしたらブナちゃんまで査問になっちゃうでしょ。
ヨウム君はあれでいいと思ってんの、だから、ね。お願いだから落ち着いて……」
いいわけがない。いいわけがない。いいわけがないんだ。
魔力量が違うなら、なんとかすればいい……
ブナは自分の中に煮え滾る怒りと、絶望で燃え盛る魔力の塊を、その激昂のまま、できる限り大きく育てる。
どろりとどす黒く膨れ上がった塊を力一杯、投げつけ、爆発させた。




