第56話 八月の虹
「ただいま」
自分の失言の後ろめたさから、ヨウムは気を重くしながら居間に入る。
「お帰りなさい」
ブナは台所からいつも通りの態度で迎える。
ヨウムはつい、ブナの髪に目をやる。
ちょうど後頭部の真ん中でリボンと髪がシンプルに纏められている。贈ったリボンがブナの動きと一緒に揺れているのを見て、安心する。
ヨウムは鞄を部屋の扉の前に置くだけ置くと、すぐに夕飯を準備しているブナの隣に立ち、手伝うこともないのに、無理やり手伝おうとする。
はっきり言って邪魔だろう。
らしからぬ行動を訝しがられ、ブナが注視してくる。
「その……今日の、髪型は、よく似合っていると思う」
女性の外見を褒めるというのがこんなにも緊張するものだと思わなかった。
ヨウムはあっという間に両手にじっとりと汗をかく。
「……昨日と何も変わりませんが」
「昨日は、今日より結び目が低かった。結び目が低いと、普段質素な服ばかりだから少し、野暮ったく見える」
褒めようとしているはずなのにダメ出しをした感じになってしまい、ヨウムの手はどんどん汗ばむ。
「もっと高い位置で纏めていた時は、髪質がさらさらで柔らかいから、下のあたりが崩れてしまって、勿体なかった。
両サイドで結ぶのは、三つ編みにせよ、一本結びにせよ、ブナの知的で爽やかな雰囲気と端麗な顔には全然似合わない……と思った。
……だから、今日のは似合っている、と思う」
褒めているのか、果たして貶しているのか分からない自身の発言に、ヨウムは我ながら残念な気持ちになる。
「すまない。本当に申し訳ないんだが、私は女性の髪型に対して特に興味がないんだ」
「結び目の高さは?」
「好みってわけじゃない。似合うかどうかを見ていて……」
「似合うかどうか」
「本人の魅力が引き出されたり、より素敵に見えるのは大事だと思う」
「なるほど」
ブナは一つ頷いて、また黙々と仕事をする。ヨウムは特段やることもなくブナの横に突っ立っているだけの状態になっている。
しばらく居心地の悪い沈黙が続く――
その後、ブナが静かに笑い始めた。
「ふっ。ふふふ」
「ブナ?」
「あはは。だって、ご、ごめんなさい。
そんなに動揺して戸惑っているヨウム先生なんて初めて見たので、つい。
そう、ですよね。両サイド三つ編みもツインテールも似合わなかったですよね。私もそう思いました」
ブナはゆっくりと穏やかな声で続ける。
「すみません。頂いたリボンがとても嬉しくて、どうにか可愛く身につけてみたかったんです」
そう言って目尻がすっかり緩んで、少し照れながら話すブナは可愛らしかった。
笑われた照れ臭さのおかげか、ヨウムの重かった心はすっかり軽くなっていた。
「機嫌は、直っただろうか」
「機嫌? 別に怒ってなかったですよ?」
ブナは首を傾げる。
「うん。でも拗ねていただろう? 昨日の夜とか、今朝とか」
「拗ねる……」
ブナの眉間に皺が寄り、顔が曇る。
「拗ねるのは……それは相手に対して不遜な態度をとりつつも、でも、相手は自分を見限ったりしないという安心があるから出来る行為です。要するに、甘えです。
そんなの……よくないです」
話しながらブナは顔を青くしている。
「別にいいんじゃないか。それくらい。信頼してもらえている証拠だし。
正直、君は良い子過ぎるから、少しくらい困らせられるくらいで丁度いいんだ」
眉を寄せて複雑な顔をするブナを見ながら、ヨウムはふと思いついたことを口にする。
「ああ、でも似合う似合わないは別として、自分が好きなら、好きな髪型やファッションを楽しんでほしい。
それでやる気が出たり、楽しい気分になったり、満たされるならそれに越したことはない」
そう伝えてはたと気づく。
そうだ。学生たちは皆、似合う似合わないはさておき、髪型を楽しんでいたんだ。
いいじゃないか。それで本人が満足し、やる気を出して、学問にも身が入るなら。
過去の自分はいつも情けなくて恥ずかしい。
そんなことも慮ってやれなかったとは。
「ブナ。ありがとう。君のおかげで私は今まで考えもしなかったことに気づけた」
ヨウムは心から感謝を告げた。
*
ブナにとって拗ねるというのは大罪だった。
言葉での、丁寧に説明する努力を怠り、不平や不満を気の向くまま態度で押し付け、相手が察して救ってくれることを期待した、甘えの形。相手に依存した形ではないか。
助けてもらえることが当たり前だと信じて疑わない子どものすることだ。
見捨てられないと分かってる子どもが出来ることだ。
昔、それが羨ましくて……他の子どもや妹弟を見て、真似をしたこともあった。
だが、自分がそんなことをしても、現状を変えることなどできなかった。ひどいしっぺ返しをくらうだけだ。いいことなんて一つもない。
そう思っていたはずなのに……
なぜ、許されると思ったのか。完全に無意識だった。
可愛いと、思ってもらいたかった。
それで人生で初めて髪型というものに時間をかけてみた。毎朝、今日はどの髪型にしてみようかと雑誌を見ながら浮かれていた。
ヨウムの興味なさそうな態度が無性に寂しくなった。
そして、なぜか一気にやる気が失せたのだ。挨拶もせずに無言で部屋に戻り、雑誌を棚に仕舞い込んで、今朝はヨウムの前で髪を結うことも避けた。
恥ずかしい……。
子どもじみていて恥ずかしい。そして恐ろしい。
これが両親だったなら「なんだその反抗的な態度は」と、リボンごと髪の毛を切られていただろう。次の日にはリボンは換金されてしまう。
そっと後頭部のリボンに触れる。
手触りがとても良い。物の価値があまり分からないブナにでも、きっと良い物だろうと推測できた。
取り上げられないでよかった――
ブナは心底安堵する。
ブナからすると、ヨウムは寛大すぎるように思えた。
なぜあんなに善人でいられるのだろう。
人に施してばかりで、いいように搾取されてしまう。
ブナはそんなことを心配する。
現に、学長にブナを押し付けられている。それなのに、彼はブナに「ありがとう」と礼を言う。
人が良すぎる……。
せめて、自分の存在があの人の迷惑にならないようにしなくては。
そう考えながらブナはベッドに寝転がり天井を仰ぐ。
あんなに動揺して戸惑っているヨウムを見たのは初めてだった。
何でも出来る人だと思っていた。
罰が悪そうに、しどろもどろに話すヨウムを思い出し、また笑みをこぼす。
ごろんと横になり丸まって静かに笑う。
いつも難しい話を流れるように話す人なのに……。
人だったんだ。
地母神の化身だと思ったこともあった。
……あの人も、人だったんだ。
不器用にも懸命な姿を思い出し、ブナは心の底がじんわりと温かくなるのを感じた。不思議と顔がにやけるのを止めることができなかった。
ブナの心はリボンを貰った時とも、ケーキ屋の店主の話を聞いた後とも違う、別の幸福感で満たされた。




