第42話 四月の雪間
ブナはすっかり背中を丸め、縮こまって座っていた。
ヨウムはやがて静かに口を開いた。
「まず、ブナが言った『やる気と反省が足りない』という言葉だが……
やる気と反省をこれ以上増やしても、出来ないものは出来ないと思うが」
ヨウムの歯に衣着せぬ容赦ない言いぶりに、ブナは目の前がどんどん、暗くなる。
この人にも、無能だと評価されていたのか。
そう思うと、足元が大きくぐらついてくる。
椅子に座っていなかったら、倒れていたかもしれない。
「やっぱり、私が無能だから……」
「ブナ、その無能というのは誰の言葉だ?
なぜそんな世迷言を信じているんだ?」
ヨウムは珍しく力強い口調で問う。
「昔から、母に……そう言われてきました。私は物覚えが悪くて、実際、失敗ばかりだったので、いつも怒られていました」
「母親に怒られたということは、七歳に満たない子どもだったんだろ。子どもが失敗するなんて当たり前だ」
ヨウムは力強く首を振る。
「怒られて萎縮すれば余計に失敗を繰り返したりもする。
まともな説明がなければ上手くなんて出来ないし、空腹だったり、不調だったり、不安があったりすれば、いい能力なんて発揮できない。
そういった君側の状況を慮ることもしない、そんな不当な評価をまともに受けてはいけない」
「でも、今、ヨウム先生も、私には頑張っても出来ないと……」
言った……じゃないか。
肺が震える。息が擦り切れる。
「やる気と反省を増やしても出来ないと言ったんだ」
言っている意味が分からない。
それが無能だということなのではないのか。
「やる気と反省なら十二分にあるし、しただろう?」
ブナは俯いたまま答えられない。
それでも足りないから出来ていないんだ
内なる批判の声が呪いのように心の中でこだまする。
「ブナは集中すると、私の声も、時間の経過も、空腹にも、目の前の崖にも気づかない。それなのに窓の外の雨音や鐘の音なんて気づけないだろ」
「……すみません」
「ブナ。それは謝ることじゃない。
そういう特質なだけで、君の努力が足りないというわけじゃない。
ましてや無能の証明になどなりえない」
ヨウムは小さく首を振る。
「それは、君のすばらしい才能の一つであって、決して、出来ていないことではない。
実際、その並外れた集中力のおかげで、君は一年足らずで良く学び、飛躍的に成長し、ものすごく力を付けた」
ヨウムの言う、才能という表現にブナは思考が追いつかない。
ただただ沈黙を返す。
しばらくして再びヨウムが言葉を続ける。
「次に、じゃあどうするかだが。……ブナは何とかしたいんだろ?」
ブナは小刻みに頷く。
「何とか……なおせますか?」
藁にも縋る思いだった。
「さあ、どうだろうか。簡単になおせるものではないんじゃないか?」
ブナの頭は真っ白になる。
「どうにも……ならないから、諦めろ……と」
「飛躍しすぎだな。伝えたことと結論までが、かけ離れている。少し落ち着いて考えよう。
もう一度言うが、君のその気質は、君が君らしくあるための才能だ。そこはありがたく受け入れよう」
「でも……困っています。
受け入れられないっ。変えなきゃいけないんです」
困っているものが才能だと言われても、ブナには受け入れられなかった。
受け入れずに、そのものを変えてしまいたかった。
「ブナはちゃんと明かりをつけるようになった。なぜだろうか」
「え?……少し早いのですが、十五時半くらいから標本をやるので……その前に先に明かりをつけてしまうことにしました」
「掃除、食事の下処理、課題を忘れることがないのはなぜだ」
「十四時くらいまでに、全て先にやってしまいます」
「今まで、洗濯物を片付けていたのに、今回できなかったのは?」
「いつもは……洗濯物を取り込んで片付けるまで、標本は触らないようにしています。ただ、今日はどうしても鍵の標本を進めたくなってしまって……少しだけ、と手を出してしまいました……」
「うん。ブナ。
君はどれだけ自分に力があるか、自分で知らなくてはいけない」
ヨウムはそっと目を細める。
「君は自分の特質を分かった上で、自分なりに適した工夫を、既にしているじゃないか。
『自分に合った工夫をする』
それは自分の不甲斐なさを呪うことよりずっと大事なことだ」
ブナは小さく首を振る。
「……でも、それでは結局、夕飯とお風呂の問題が解決しません。
それは……困ります。何とかしたいんです」
ヨウムの言葉は優しい。
ブナなりに、ヨウムが何を伝えたいかも少し分かった。
それでも納得できない。
できないままの無力な自分なんて受け入れたくない。
「それでも、私はもっとできるようになりたい。何とか……なりませんか」
ブナは声を絞り出し、必死に懇願した。
ヨウムは椅子から立ってブナの頭を柔らかく撫でる。
そのまま彼の部屋に行き、何やら不思議な動いていない時計と、新しい標本を持ってきた。
「いい判断だ」
「え」
「問題を解決したいが、いい方法が自分では見つからない。それならば周りにきけばいい。
必要なことを、適切な人にきく。大事なことだ」
聞いただけなのに、認められる。
ブナには経験のない変な感覚だった。
この人は……
自分が大事だと考えることを、面倒くさがらずに、とても丁寧に伝えようとしてくれる。
母は、足りていない所を指摘するだけだった。出来ていないと怒るだけで、大事なこと、工夫することを教えてはくれなかった。
「この時計は魔導具で、自分に必要な時間を知らせてくれる。ここに魔力を必要な分だけ入れると針が動く。
魔力がなくなって針が止まると、音が鳴る。結構うるさいから、流石に分かると思う。
私はその音が苦手で使わないんだ」
ヨウムは苦笑する。
「まあ、細かい魔力の調節は必要になるが回路自体は単純だから、調節だけ慣れれば、何分、何秒と細かい時間まで正確に鳴らせるようになる。それと、こっちがそれぞれ凍結と解凍の標本だ」
「凍結と解凍……」
「この回路を組み込めば風呂を時間指定で沸かせられるようになる。
先ず風呂を沸かす術式を凍結させる。解凍の魔術式によって解凍時間を調節する。凍結された術式は解凍された後に発動する」
そしてヨウムは詳しい理論を説明し出した。
「――と、いうわけだ。
時計も凍結解凍の標本も、鍵に比べて簡単だから先に覚えてしまうといい。そうすれば、気にせず鍵に集中できるな。
この家にある魔術で一番難易度が高くて細かいのが鍵なんだ」
ヨウムは慈しむような瞳のまま、何てこともなかったように朗らかに笑う。
ブナは、その広大な笑声に包まれ、つい先刻まで身を苛んでいた自身の沈鬱が、途端に稚拙なもののように感じはじめる。
落ち込んでいた自分が……小さく思える。
実際、この人にとっては、私の失態なんて何てこともないことだったのだろう。
ブナは、ヨウムが自分とは視座や観点が違い、自分よりもずっと遥か遠くを見ているのだと感じた。
なんで……この人は、こうなんだろう。
そんな問いが、頭に浮かぶ。
心にのしかかっていた巨大な氷塊が、ほんの少し溶けて、水になったようだった。




