第41話 凍て返らす刃
どうしてもBノ三以降の回路でつまずく。
ブナはうなっていた。
魔力を込めすぎると回路が消失し、魔力を減らすと進まない。力加減に加え、同時にここで術式を左右両方向に広げていかなくてはいけない。そこに意識を向けると力加減を間違ってしまう。
昨日やっとの思いでAノ四十九を出来るようになったのに、その次にまた難解にぶつかる。これでやっと四分の一だ。ここまで出来るようになるまでに二週間かかった。
ブナは残された回路を見ながら途方にくれる。
鍵の開け閉めの術がこんなに難しいなんて。
『一応、難易度は下げたんだが、あまり下げ過ぎると防犯の意味がないだろう?』
ブナはヨウムの言葉を思い出していた。
『今のブナにはまだ少し難しい所もあるだろうが、時間をかけてゆっくりやったらいい。出来るようになったら今度はひたすらそれを繰り返して身体に染み込ませれば、無意識でも数秒で鍵の開け閉めが出来るようになるから』
「ぜんぜん少しじゃない……」
そこで一気に集中力が切れて、後ろにひっくり返るように床に寝そべり天井を仰ぐ。
目がチクチクする……。
集中しすぎて疲れた目を閉じ、ようやく意識を他に広げる。
台所でグツグツと鍋の音がする。
いい匂い。
ようやく自分がお腹を減らしていることを感じる。
遠くで雨音が聞こえる。
いつのまにか雨が降っていたのか……。
途端、ブナは慌てて部屋を飛び出して、大きな足音をたてて階段を勢いよく登っていく。
干しっぱなしだったはずの洗濯物は、跡形もなくなっていた。
しまった。
ブナの背中に冷たいものが走る。
そういえば、夕飯も作り終えてなかったはずだ。
どっと嫌な汗をかき始める。
台所を目指して階段を勢いよく降りる。
「おかえりなさい」
料理をしているよく知る後ろ姿に緊張しながら声をかける。
「ただいま」
手を止めて振り返るヨウムは部屋着を着ているので、風呂上がりだと分かる。
そうだ……。お風呂も沸かしてなかったんだ。
洗濯機が動いている音が聞こえる。
冷や汗はどんどん増していく。
ああ。またやってしまった。
失敗した。
また迷惑をかけた。
「ブナ。階段は静かに上り下りするように。慌てている時でも気をつけて……。まあ、難しいか」
淡々としているヨウムの感情は読めない。
「……すみません。ごめんなさい」
気持ちがどんどん落ちていく。
「うん」
ヨウムは火を消し、ブナの目の前まで来て止まる。
ブナはどんどん緊張し、呼吸が浅くなる。
「ブナは何について謝っているんだ?」
どくりと心臓が跳ねる。全身が冷たくなる。
「全部です」
ヨウムは静かにブナの続きの言葉を待っている。彼は曖昧な説明の仕方を好まない。
「えっと……。洗濯物を取り込んで畳むのを忘れました。ご飯を作り忘れました。お風呂も沸かしてませんでした。それで、ヨウム先生にお手間をおかけしました」
「うん。何度も言っているが、別にブナの仕事だと決まっているわけではないから、そこまで気負う必要はない」
ヨウムの感情の読めない表情に冷や汗が止まらなくなる。ブナは首がすぼみ、猫背になり身体が小さくなる。
「洗濯物は私のせいで二度手間になりました。雨が降る前に取り込めば乾いてたのに」
「うーん」
ヨウムは口元に手を置き考える。言葉を選んでいるのだろう。
「まあ、そうであれば助かったが、都合よく、上手くいくことばかりではないし、できないこともある。
しょうがないのではないか? そしたらまた洗えばいい」
ブナは首を振る。
そんなことは納得できない。
どうあっても自分がやれば良かったのだ。
「でも……。ヨウム先生はきっとがっかりしました」
「……まあ、確かに雨が降った時、安心していた。ブナが取り込んでくれるだろうと。
なんなら実は傘を持ってなくて、濡れて帰ってきたので、お風呂も沸いてるとありがたいと思っていた」
ヨウムは軽く笑っている。微塵も怒ってはいないのが分かる。
ブナは湿った拳を握りしめる。
「ごめんなさい」
「ブナは別に悪いことはしていない。
洗濯物が取り込まれ、畳まれている。
温かい風呂とスープが出来上がっていると、勝手に期待していたのは私の問題だ。
むしろいつもこなしてくれていることに感謝しているんだ」
「でも……。私は……やりたかった。
せっかく、喜んでもらえたのに。がっかりされたのは嫌です。
それに、いつも出来てないです。よく、忘れます。すごくよく、忘れます。
役に立てないのは、力になれないのは……悔しいです」
本や標本に夢中になり過ぎて、風呂を沸かすこと、料理の加熱を忘れるのは割とよくあることだった。
「そうか」
ヨウムはまたしばらく考えてから話す。
「別に私はブナが家事をしなくても、食事は出すし、勉強もマナーも教えるが……。
それでも役に立ちたい理由はなぜだろうか。
好きな勉強だけして昼寝して過ごしていてもいいんだが?」
ヨウムがそう言うなら、そうやって過ごしても本当に怒られないだろうと、ブナは思う。
でも、そうじゃない。
怒られるとか、ご飯が食べられないとか、そういうことを避けたいから仕事をしているのではない。
今までならそうだった。でも今は違う。
ブナは自分の中にぼんやりと眠っていた気持ちを一つずつ言葉に出す。
「それでも……役に立ちたいんです。
力になれたら、私が、私が嬉しいんです。
今までたくさん助けてもらいました。
私も、次は、助けられる人に、なりたいんです。
だから、失敗ばかりの自分が情けないです。とても残念で嫌になります」
力説したわりに、口先だけで出来ていないことを実感し、ブナはまた気持ちが落ちる。
「うん。そうか。それはとても素晴らしい思いだな」
ヨウムは目を細めているが、ブナの表情は益々曇る。
ヨウムはブナの心境を見透かしているかのように問う。
「それで、失敗とは、具体的に何のことだ? ブナの掃除は丁寧だし、作る料理も美味しいが」
「でも、やることを忘れてしまっては意味がありません」
「なるほど。忘れてしまうのが悔しいのか。なぜ忘れてしまうのだろう?」
「本とか、標本とか……やり始めると全てを忘れてしまいます。
毎回、ちゃんと時間を確認しようと思ってるのに……その気持ちすら忘れてしまいます。
夕方に学校の鐘が鳴ったらやめると決めているのに、気づくと外が真っ暗になってたりします。
鐘の音にも気が付けないんです。
気をつけてるのに……。できない」
冷たく鋭い声が、頭に響く。
『どうしていつも同じ失敗するのよっ。
一度言って、できないのはあんたが無能だからでしょっ』
『やる気が足りないのよ、反省してない証拠よっ』
『いい加減にしなさいよ、何回目だと思ってんの、本当、使えないんだからっ』
『なんで生まれてきたのよっ』
母の、怒りの言葉。恨みの言葉。拒絶の言葉。
「私の……やる気と反省が足りてません。
私は……無能なんです」
ブナは確かめるように、反芻するように呟く。
自分の吐き出した言葉が刃物のように胸に突き刺さる。
一拍、音のない時間が流れる。
「ブナ、すまないが、話が長くなりそうだからとりあえず座ろう」
そう言うヨウムは瞼が殆ど閉じられており、何を考えているかはブナには読み取れなかった。




