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第35話 二月に古ぶ

「しまった。冬だからと油断した」


カビが生えて黒くなったパンを確認し、ヨウムは塵入れ(ごみいれ)用の麻袋に手を伸ばした。


「捨てるんですか?」

「カビてるからな。仕方がない」

「食べたいです」

パンはまだ柔らかいし、ブナには十分美味しそうに思えた。


「ダメだ。お腹を壊すだろう」

少し眉間に皺を寄せてヨウムは応える。


「食べられますよ」

「ダメだ。絶対に食べてはいけない」



今朝方ヨウムとしていた会話をブナは思い出していた。


ヨウムが出かけた後、誘惑に負けて食べたのがよくなかった。

腹が痛いし、吐き気もする。そして怠く、熱っぽい。


洗濯も、掃除も、食事の支度も勉強も、何もかも思うように進まないまま外は暗くなりはじめている。

横になって休みたいが、そろそろヨウムが帰ってくる。

何としてでも、いつもこなしている仕事は終わらせなくてはならない。


ブナは必死だった。


仕事をこなせなければ役立たずだ。

役に立てなくても、あの人は追い出したりしない。

それでも、がっかりされるのは嫌だ。


ましてや原因が例のパンだなんて口が裂けても言えない。ブナはその気持ちだけでなんとか家事をこなした。


夕飯を目の前にして、ブナの体調はいよいよ悪くなってきた。


正直、食べずに寝てしまいたい。

しかし、そんなことをしたら、体調が悪いのがバレてしまう。

体調が悪いのがバレれば理由を問われる。

約束を破り、意地汚くゴミを拾って食べたなど、知られたくない。


浅ましい子だと思われたくない。


ブナは腹痛を堪えて夕飯を流し込むように食べた。


「体調が悪いのか?」

まったく進んでないノートを一目してヨウムが聞いてきた。


「元気です。ただ、本を読んでたら……勉強をするのを忘れてしまって。なので、今からやります」

ブナはヨウムの質問に対し、咄嗟に誤魔化したものの、気まずさで全身からどっと嫌な汗が噴き出る。


ヨウムは口元に手を当てる。

ブナの言動について考えているのが分かる。


嘘がばれたらどうしよう


失望されるに違いない


そう思うとブナの背筋がじわりじわりと凍えていく。


「家事もいつもより雑だろう?」


ヨウムの言葉にブナの顔が強張る。


洗濯物の畳み方だろうか?

食材の切り方だろうか?

それともシンクの後片付けだろうか?


朦朧とした回らない頭で必死に考えるが分からないまま、謝罪の言葉だけが漏れる。


「ブナ、私は責めてるわけじゃない。ただ心配しているだけなんだ。体調が悪いなら無理をせず休んだ方がいい」


ヨウムの声は淡々としているが穏やかだ。

その穏やかな声に、ブナはさらに自分の血の気が引いていくのを感じていた。


心配してくれている……

せっかく心配してくれているのに、理由を知られたらがっかりされる。

絶対に、隠し通さないと……


「昨日夜遅くまで本を読んでしまったので、それで体調が良くないのかも……しれません」

嘘は良くないと分かりつつ、嘘が露呈することに恐怖を感じ、ブナはさらなる嘘を重ねた。


ヨウムは少し眉間に皺を寄せて、思い立ったように立ち上がると、そのまま台所に向かい、塵袋《ごみぶくろ》を開けた。


今朝、捨てられていたパンは無くなっている。


当たり前だ。ブナが食べたのだから。

ブナの身体中から血の気が一気に引く。


ばれた


食べたことも嘘をついたことも、嘘を重ねたことも。全てばれてしまった。


「もしかして、あのパンを食べたのか?」


ブナは何も答えられなかった。頭が真っ白になっていた。ついに全身が小刻みに震え出す。



その後、ヨウムに促されるまま、出された薬を飲み、熱を測り、布団に入った。

ヨウムにされた質問は、何も耳に残らず、何も答えられなかった。


ただ、自分が約束を破り、意地汚く、仕事もろくにこなせず、嘘を重ね、ヨウムの手を煩わせているという事実に恐怖していた。


「ごめんなさ……」


必死に謝った。が、声は震えて弱々しく、ヨウムが聴き取れるようなものではなかった。


呆れられた。

愛想を、尽かされただろう……。

信頼を失ったに違いない。


慈愛に満ちた母神のような人に見限られると思うとブナは戦慄を覚えた。


しばらく静かにブナの様子を見ていたヨウムが代わりに口を開いた。


「人が罪を犯す時、それは大いに環境に起因するものだ。例えば、貧民街などでは強欲という個人の資質によって窃盗を行う者より、経済的な安定を得る手段がないことから、窃盗や詐欺などに手を染める者が多い」

ヨウムは無表情のまま続ける。


「君は棚の中の菓子には手をつけず、塵袋の中のカビが生えたパンを、約束を破って食べただろう? 

棚を開け、君にとって高級品な菓子に手を出すのは敷居が高く難関だった。

一方で捨てられたものに手を伸ばすのは君にとってとても容易で『手頃』だったんだ。普通は塵袋から拾って食べる方が生理的に抵抗があるものだし、棚を開け慣れてる子どもなら棚から菓子をつまみ食いする方が『手頃』だろう」


突然始まったヨウムの話にブナは理解が追いつかない。それでも、見限られたくないので、必死に耳を傾ける。


「人は、確固たる強い意志をもって大罪を企てるよりも、むしろ容易に手が届く、安易な環境によって罪の誘惑に晒される。

人はそれを幸運とさえ錯覚し、いともたやすく魔がさし、罪に手を伸ばしたりする。

そういう面で、罪を犯しやすい『手頃な環境』とは、決して人に与えられた幸運などではなく、かえって悲劇的な不幸とも言えるのかもしれない」


ヨウムの最後のあたりの言葉はブナに言い聞かすというより、思考の呟きのようだった。


「とりあえず、しっかり休みなさい」


理解が追いつかないまま、ヨウムの話は終わった。


だがしかし、安めと言われてもブナが休めるはずはなかった。

ブナは俯いたまま首を大きく振る。血の気は引いたまま、心拍数だけが高くなる。

ヨウムがこの件をどう裁くのか。気が気ではなかった。


見限られたに違いない。

せっかくこの家に居ることができたのに。

せっかく魔法を教えてもらっていたのに。

せっかく自分に対して敬意をもって接してくれていたのに。


それが……全てなかったことになってしまう。


人の信頼を失うことが、

こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。


信頼してる人に見限られることが、

こんなに絶望感を感じることだとは知らなかった。


今までに失態が見つかって酷い体罰を受けることは多々あった。

それでもこんな特殊な恐怖を味わったことはなかった。

それは初めて味わう、手にした僥倖《ぎょうこう》を『失う』という恐怖だった。


ヨウムはブナの心境を察したのか深い呼吸を一つして、再び口を開く。


「君は嘘が下手だ。すぐに動揺するし、今だって世界が終わったような顔をしている。巧みな言い訳もできない。

そんなに居心地が悪くて、押し潰れそうな気持ちになるのなら、悪事を犯すのに向かない。悪いことじゃない。

その生真面目さは君の良さだ。

大切にしていいところだ。だからこそ、気をつけなさい」


声音はいつになく、どこまでも静かだ。


「その生真面目さを、長所として活かすためには、自制心を培い、少しの誘惑に足元をすくわれないように、日々、意識して過ごさなくてはならない。

誰も見てないから、誰にもばれないからと、そういう基準で行動を決めるのではなく、誰かに知られ、少しでも居心地が悪くなるようなことなら、初めからやらないと決断できることが大事だ。

変化する外部要因で行動を決めるのではなく、君の中で不変的な判断基準で行動を選ぶようにしなさい」


ヨウムの話はブナが理解するには少し難しい箴言《しんげん》のように感じる。


「話が長くなってしまった。体調が悪いのにすまなかった。お休み。ゆっくり休んで。何かあればすぐに呼んで」


そういうと、ヨウムは立ち上がり背を向けた。


慌ててヨウムを呼びとめたブナの声は上擦っていた。

前のめりになった身体を支える手も震えた。


出癖の悪い者は信用されない。

そんなものは追い出されると決まっている。

まだブナはヨウムの裁きを聞いていなかった。


ヨウムは察し、ゆっくり首を振る。


「こんなことで君をどこかに追いやるつもりもないし、そもそも私は怒ってなどいないんだ。

ただ、君がよりよく生きるのに、苦い経験は教訓として大切だと思う。今の気持ちを大事にするといい。

君の健やかな成長を願っている」


いつもと変わらない静謐な口調でヨウムは伝えると、ブナの頭を一撫でして、部屋を出て行った。


だいぶ慣れたとはいえ、相変わらずブナには広すぎる部屋。

机の上には冷たい水と白湯と両方が準備してある。


柔らかいベッドの上、清潔な布団に頭からくるまり、その布団の暖かさと、先ほど頭を撫でられたヨウムの手の温かさを感じながら、ブナは声を押し殺して頬を濡らした。


泣きながら必死に謝った。

ヨウムに謝り、天に謝った。


そして祈った。


どうか。

まだ私からこの幸運を取り上げないでください。

まだ、ここに居させて下さい。


ブナはもう、どこにでも流されていいとは思わなくなっていた。


かつてブナは真面目で得したことなど思いつかない。


怒られないために真面目に働くふりができればいい。

バレなければ不真面目でも嘘をついてもいい。

バレなければ幸運。バレたら痛い思いをする。ただそれだけだった。


正直であろう。丁寧であろう。

生真面目さは自分の良さだと言われた。


大事にしよう。


活かせるというなら活かしてみたい。


信頼を失いたくない。もうこんな怖い思いは二度としたくない。

罪を犯しやすい『手頃な環境』にこそ気を引き締めなければならない。


嗚咽を漏らしながら何度も何度もヨウムの言った言葉をブナなりの理解で反芻した。

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