第30話 庭火と煤払
ヨウムは自室の机で書き物をしていた。
魔導書が何冊も所狭しと机に開かれてある。
「どうした?」
突然の無作法な来訪にも、ヨウムはいつも通り淡々としている。
「あの、要望がっ」
それに対して、闖入してきた側のブナの方が手も足も声も震えていた。
「聴こう」
ヨウムは持っていたペンを置き、身体ごとブナに向き直る。
「あの、私は、えっと」
走ってきたわけでもないのに呼吸が荒くなる。
やっぱりなんでもないです、と言って退きたくなる。
だが、言うと決めたのだ。
ぐっと腹に力を込めてブナはヨウムの目を見据えて一言ずつ言葉を紡いでいく。
「私は、どこにも行きたくないです。ここに、いたいです。担当は……変えて、欲しくない、です」
伝えているうちに、涙が溢れてきそうになるのを、唇をキュッと左右に引き結び、押し留める。
だが、声は上擦り、身体の奥底から込み上げるものは抑えきれず、嗚咽交じりになる。
「私は、ヨウム先生から、もっと、学びたい、です。だからっ、ここに、居たい!」
ブナは要望を言い切った。
身体の震えが止まらない。寒気すら感じる。
恐る恐るヨウムの顔を窺う。
ヨウムの暗い緑青色の瞳は穏やかだった。
ブナは昔どこかで見た礼拝堂に並んでいた木彫りの母神像を思い出した。
不思議と身体から震えが止まっていくのを感じる。
「ブナ、私は君を誇りに思う。よく、言葉にして伝えてくれた。
ありがとう。
今まで、誰かに期待することを望めず、諦めることで心を保ち、生きてきた君が、自分の要望を人に伝えるのには、随分とエネルギーを使うことだったと思う。
勇気も精神力も必要だっただろう。
すまなかった。私の不用意な一言で君をずっと不安にさせていた」
ブナは自分の想像もできないことが起こっていて、声が出ない。
ただ首を振る。理解が追いつかない。
我が儘を言ったら褒められた。感謝された。なぜか謝られた。
「担当の件は安心していい。ブナが一人立ちできる力を蓄えるまでは、ちゃんと面倒を見るつもりだ。私でよければ」
「一人立ち……」
ブナにはピンとこない言葉だ。
「そうだな。とりあえずは私の助けが必要なく、学園で通用するくらいの知識とマナーと社会ルールと機転が身につけられれば大丈夫だ。中等部からは寮があるから、住む場所も困らない」
ブナは頷く。
「そしたら、学校の中等部に入るまでの間は、ヨウム先生の下で学びたいです」
「はは。残念ながら中等部に入ると、今度は基礎講座で私の授業を受けなくてはならない」
ブナはまた頷く。
「それなら学校も楽しみです」
ブナの心はもう不思議と重たくなかった。
手足は未だに少し震えるが、自然と笑みが溢れる。
握っていたノートをヨウムに渡す。
震えるノートをヨウムはそっと両手で受けとめる。そして、穏やかに目を細めた。
ヨウムはノートをパラパラとめくって中を確認して、一つ、苦笑いをする。
「呪いのノートみたいだな」
一面、悔しい、悔しいと羅列して書き殴られている。
別の一面では、ずるい、ずるいと羅列してあり、
また別の一面では、ふざけるな、ふざけるなと羅列してあり、
また別の一面では、キライ、キライと羅列し、
また別の一面では、イヤダ、イヤダと羅列してある。
ヨウムはブナの瞳を捉えて柔らかく微笑む。
「ちゃんと怒りのエネルギーを勇気に変えたんだな」
ヨウムは目を細めながら満足げに続ける。
「これからも、君を不当に扱うものに甘んじてはいけない。理不尽を押し付けてくるものには嫌だと言っていい。今日はよく頑張った」
ブナは不思議な気分を味わう。
心に何か温かいものが灯る。
「このノートはどうする? とっておきたいなら、とっておいてもいいが」
ブナは首を振る。
「いらないです」
今までの恨み辛みを書き殴ったノートだ。もう手元にも残しておきたくもない。
「そうか。燃やすか?」
「燃やします!」
庭に出てみると、風はないが、空気そのものが冷たく頬を刺した。
冬の夜の凍てつく闇に、白い息が消えていく。
「これを手にはめて」
ヨウムがグローブを渡してくる。指の部分だけ切れている。
ブナは両手にはめ、ぐっぱと手を閉じたり広げたりして眺める。
なんだろうか。
「手をいいだろうか」
ヨウムはブナにノートを持たせ、その手を挟むような形でヨウムの手を重ねてそっと包む。
「私の魔力は分かるだろ? 今から術式を広げるから、追える範囲で、ついてきて」
「え?」
ついて行くとは何に。どうやって。
ブナは突然言われて狼狽える。
「大丈夫。ゆっくりやる。やれば分かる。実際ブナはミスを患っていた時、無意識で何度もやっている」
そう言ってヨウムは術式を宙に書き始めた。
分かる。
ブナは直感的にそう思った。確かに何度もやった覚えがあった。
ヨウムが書く術式の意味は分からない。どこに回路が展開されるのも分からない。それでも、ゆっくり流れるヨウムの魔力を捕まえて、後から追う。
例えるなら、知らない入り組んだ街をヨウムがブナの歩幅に合わせて、ゆっくり先に道案内して歩く。それを後からついて行く。いざ、やってみるとそれくらいブナには簡単なことだった。
手の中が温かくなったことを感じた刹那、ごおっと激しい音を立てて火柱が上がる。
慌ててブナは手を引っ込める。突然の光景にブナは息を呑み、瞠目する。
ヨウムは残された、赤く燃え盛るノートを手にしたまま、大きく上がった火柱を収めていく。
熱くないのだろうか。
顔色からは慌てている様子も熱がっている様子もない。
綺麗だ――
ブナはパチパチと火の粉をあげて燃える緋い炎に見入っていた。
暗い夜空に舞い散る火の粉も、熱を帯び揺らめく深紅の炎の波も、
その炎の上に刻まれていく眩しい術式も、煌めくヨウムの魔力も。
炎を静かに見つめ微笑んでいるヨウムの横顔も……
どれも美しかった。
恨み辛みを綴ったノートが燃えて灰燼として消えていくように、ブナの胸の中に巣食っていた苦痛に満ちた感情も、一緒に煙となって夜空に消え失せていくようだった。
ただ目の前に広がる美しいものだけを残して――
「母神様」
ブナは思わず両手を合わせてヨウムを拝み、そっと呟いた。
しばらくの沈黙の後「母神?」とヨウムが聞き返してくる。
「はい。似ています。ヨウム先生に」
たちまちヨウムの眉間に皺が寄る。
「ダメだ。なんて物騒なことを言うんだ」
ヨウムは目を見開いて言う。見開かれたヨウムの双眸は目力があり過ぎて、ブナは少したじろぐ。
「ダメですか」
「その発言は世の宗教家を敵に回す。だから、もう、二度と言わないように」
ヨウムは頭を振った。
「……はい」
ヨウムの手からほどなく何もなくなったころ、ヨウムは口元に手を置き、何やら考え始めた。
「魔力が多いというのはこういうことか……。
魔織布がこれでは弱いか。特注だな。いや、しかし、とすると、これはいけるんじゃないか。失敗したとしても本人の魔力なら魔力酔いも起こさない。後遺症に悩まされることもない」
ヨウムは次から次へと一人で何やら呟く。
おそらく、自分もいずれ関わることだと思い、ブナはじっとその様子を見ていた。
はたと、ヨウムの暗い緑青色の瞳と目が合う。
「ああ。すまない。冷えるから中へ入ろう」
ヨウムに促され家の中に入った。
「――手足の痕を確認させてくれないか」
そう言われて長椅子に腰掛け、手首と足首を見せる。
枷の痕は薄っすら灰色の帯が残っている程度だ。
「うん。やはりこれならいけそうだな」
ヨウムは一人で納得する。
「ブナ、今、消そう。先ほどのように手をかざして。私の魔力を追う。最後まできちんと追ってくる。大丈夫だ。できなくても何も問題は起きない」
ブナは二度小刻みに頷く。
さっきは驚いて途中で投げてしまったが、今度はきちんと、ヨウムの魔力を追いかける。
ヨウムの術式の展開はゆっくりで、ブナに合わせているのが分かる。
ブナの手首や足首から煤のようなものがざわざわと蠢きはじめ、やがてそれらは黒い霧が晴れるようにブナから離れて消えていく。
「キレイに……なりました」
ブナの手足は、すっかり肌の色が戻っていた。
「本当に……何も無くなりました」
解放された――
過去、自分を縛っていた何もかもから解放された。そんな気持ちになった。
穏やかな顔をしたヨウムを見て、心の奥底から何かが湧き起こる。
ブナは反射でヨウムの前で両手を合わせて、丁寧にそっと小さな言葉を発する。
「母神様……。ありがとうございます」
「やめなさい。手を合わせない。
宗教家から怒りを買うような発言は本当にやめよう」
ブナは半目になり、口をへの字に曲げる。
ヨウムも半目になり、ブナを見返す。
「ブナは……私の姿が、醜いとか、悍ましいとか思わないのか?」
「思いません」
ブナはなぜそんな質問をされるのかさえ分からない。
「私はヨウム先生が好きです。尊い、敬い。そういう気持ちでいっぱいです」
ブナにとって、今日は長い一日だった。
不安の中でマーサを呼び、
絶望感の中でノートを書き、
嗚煙を漏らしながら水底に沈めていた暗く重たい情念を訴えた。
それなのに、今の自分は憑き物が落ちたように気持ちが晴れやかだ。
綺麗になった手足は自由の象徴のような感じさえした。
「奇跡です」
両手を掲げて眺めて言う。
こういうのをきっと奇跡というんだ。
ブナはそう確信した。まるで魂の救済のようだった。それでいて深い安堵の念を抱いた。
ブナは衝動的にヨウムに抱き着き、その胸に沈み込み項垂れた。
しまった。
思わず勢いで、不敬なことをしてしまった。怒られるかもしれない。
そう覚悟をしたところで、ヨウムの温かい手がブナの頭にのせられる。
ヨウムは怒りもせず、突き飛ばしもせず、拒むこともなく、ただそっと、何も言わずに、背中と頭を柔らかく撫でた。
ヨウムの温もりを感じるほど、ブナは自身の全身の力が抜け落ち、心が鎮まり穏やかになるのを確かに感じていた。
「ヨウム先生が大好きです」
ブナには今の気持ちをうまく表現する術もなく、一番単純な言葉でもう一度伝えた。
「まあ、魔術を教える上で、信頼関係は大事だな」
ヨウムの顔は見えなかったが、苦笑いしているであろうことが声の調子から伝わってきた。




