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第29話 ブナの冬嵐

「明日の昼に出て行くといい」


ヨウムのその言葉にブナは喉が潰れそうになる。

身体中から血の気がさらに引いていき、感覚が鈍磨《どんま》していく。

手足の指先は氷が当てられたように冷える。


勝手に押し寄せてくる涙が溢れないように、ブナは瞬きを増やす。


「今日はもう、家事も勉強もしなくていい。

ただ、ノートは書くように。

明日の昼まで時間があればひたすら書き続けなさい。

あと、要望があれば伝えて欲しい」


そうヨウムが付け足した。


ブナは自室に戻りノートを開いた。


開くと同時に、ノートは大粒の涙でポタポタと滲《にじ》みだす。


ノートにはすでに、ここ数日堂々巡りのように同じことが書き綴られていた。


担当が誰であれ学長は自分を学校に入れるだろう。

勉強が続けられれば、仕事に困らない。お金に困らない。食べるものにも住む場所にも困らない。お金は大事。そのために学校で勉強をするのがなにより大事。

それでも担当が変わるのは怖い。どんな人になるのか分からないから不安。

不安なのは、今に満足しているから。

今がとてもいいから、変わるのが怖い。


毎回そこで止まる。

自分の抱く恐怖の原因は分かった。


でも、だからといって、どうすることもできないではないか。

そうなったらそうなったで、またそこで求められることをやればいいだけだ。


そうやって生きてきた。

昔ほど酷い環境に置かれることはもうないだろう。

ならいいじゃないか。


自分に選べるものではない。

自分に選べる人生などない。

自分は我儘を言ってはいけない。

自分には我儘を受け入れてくれる人などいない。


そう思うと、涙はノートを濡らし続ける。


悔しい


そんな言葉が頭に浮かぶ。

濡れて波打つノートに綴ってみる。


悔しい。悔しい。


何で私だけダメなんだ。


妹と弟は我儘を言っても受け入れられていた。

これは食べたくない、あれが食べたい。あそこに行きたくない、ここに行きたい。これをしたくない、あれがしたい。これは欲しくない、あれが欲しい。


ずるい、ずるい、ずるい


なんで私だけダメなんだ。

私だってずっと叫びたかった。

大声で怒りたかった。

大声で泣き喚きたかった。


ヤダって言いたい


妹と弟がやってたみたいに地団駄踏んで、ヤダヤダってひっくり返って叫びたい。


涙は止まらない。


筆圧が高くなって殴り書きをする。

濡れたノートは簡単に穴が空く。それでも書いた。


悔しい、ずるい、むかつく、むかつく


呼吸は速くなり、短く荒くなる。


こんなに怒りを感じたのはいつぶりだろうか。


一度自覚すると底から溢れるように湧いて出てくる。鉛筆を強く握りしめてひたすらにノートに叩きつけるように書く。


ふざけるな


何が神からの賜物だ。何で私がエバンじゃなきゃいけなかったんだ。どれだけ痛くてどれだけ苦しかったと思ってるんだ。

誰も知らないくせに。知ろうともしなかったくせに。


ふざけるな、ふざけるな


あいつらなんて嫌いだ。父も母も妹も弟も、全員嫌いだ。

第一の主人も第二の主人も、第三の主人も、皆皆大っ嫌いだ。


私がエバンなのを誰も否定しなかった。


大丈夫だと、よく頑張ったと、声などかけてなどくれなかった。

手をとってくれなかった。

抱き寄せてなどくれなかった。

温かいご飯を一緒に食べてはくれなかった。


殴るばかりで、怪我させるばかりで、病気にさせるだけで、あとは放っておいた。


看病などしてくれなかった。

額に冷たいタオルを置いてなどくれなかった。

仕事をしなくていい、休んでいいなんて言ってくれなかった。


いつも貶すばかりで、嘲るばかりで、怒号するばかりだ。

褒めてなど一度もくれなかった。

認めてなど……一度もくれなかった。


嫌いだ、嫌いだ


誰も助けてくれなかった……

どいつもこいつも皆皆、嫌いだ


そこまで書き切ると、ふとまた新しい気持ちを感じる。


疲れた、もう疲れた


こんな人生、もう嫌だ


言われたまま受け入れて、それに従うだけの生きかたなんてもうしたくない。

そんなもの全部、振り払ってやりたい。


自分のしたいようにしたい


嫌だって言いたい


自分のいたい所で生きたい


そう書いた時、ヨウムが言っていた言葉を思い出した。


『ブナの気持ち、思い、感情は全て、どんなものであれ、君自身の資本であり、財産になる。

抱く感情に良いも悪いもないんだ。正しく寄り添えば、すべて君の糧になる』


ノートを書き始めたとき、ヨウムはそんなことを言っていた。

一つずつブナは噛み砕く。


『ブナが自分を理解することで、よりよい人生を選択できるように書いているんだ』


『要望があれば伝えて欲しい』


そう言っていた。

なぜ、自分を理解することが、人生を選択することに繋がるのだろうか。


そもそもヨウムの言う「要望」とは何なのか。

「要望」という単語を辞典を引いて調べてみる。

もちろん、なんとなくの意味は知っている。

ただ、漠然としているものはきちんと調べる習慣が、この家に来て身についた。


――何かを実現してほしい、叶えてほしいと強く望むこと。

ただ漠然と願うのではなく、それを実現して欲しいという意志や行動が伴う。


と、あった。


「意志や行動が伴う……」


私が……叶えて欲しいと、声に出していいのだろうか。

そんな大それたことをしていいのだろうか。


自分の抱く願望は否定されるというのが、自分が生きてきた世界のルールだった。


あの人に拒絶されたら、今ようやく手にしている温かいものが全て壊れてしまう。


そう思って恐怖で苦しくなる。

途切れ途切れの震える呼吸をすると、またヨウムの言葉を思い出す。


『自由でいい。自由でいなさい』


でも、そんな方法なんて私には全く分からない。


ただ、心に「したい」と望みを抱くことと、その望みを叶えるために身を以て行動することは、天と地ほどに違う。


何かを望み、それを手にしようと手を伸ばすことが、これほどまでに深い戦慄を伴うなど、ブナには思いもしなかった。


今までみたいに望まない方がずっと気が楽だ。


私にそんな力なんてない。


そうやって、全てを諦めの淵に沈めようとしたその時、ブナはまたある記憶を呼び起こす。


『ブナ、私は心から君を尊敬する』


あの人は微笑みながら言っていた。

あの言葉と、あの笑顔をなかったことにして欲しくない。


私は、そのように在りたい――


ブナは思い立ったように、ノートを掴んだまま、ヨウムの部屋の扉を慌ただしく開けた。

ノックをすることなど忘れていた。

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