第27話 凍空
「うーん。問題が増えたな」
日に日に細部まで鏡のように輝くほど清掃され、塵一つなく磨き上げられ、美しくなる家の中を見渡しながらヨウムは独りごつ。
もともとヨウムはまめに掃除をしていたし、きれいに暮らしてきた方だ。
それでも今は窓硝子も壁も床も家具も一点の曇りもなく丁寧に拭き清められており、生活の気配を感じさせないほどだ。
一ヶ月前あたりから、ブナはますます仕事をし、ますます勉強に精を出していた。
身長はもう百五十センチほどあり、ヨウムと同じくらいにまで並んだ。
背も高くなり、身体も強くなったからか、家の高いところから低いところまで、毎日細かく掃除をしている。
夜は遅くまで勉強し、朝は早くから家事をする。
「何をそんなに必死に頑張っているのか……」
もともと本人の希望を聴き取りながら作成した一日のスケジュールも、無理があると思われるほど忙しかった。
途中で音を上げるだろうとヨウムは予想していた。しかし、今ではさらに厳しいスケジュールを自分で手直しし、きっちりこなしているのだ。
自分の感じたことを書くようにと渡したノートも、その頃から持ってこなくなった。
ノートは使い込まれているので、活用はしているのだろう。
「良い子すぎるっていうのは大問題だな」
ヨウムは静かに深くため息をついた。
*
家の至る所を掃除し切って、ブナ自身も気になる所がなくなった時だった。
「随分と良く働くな。
家が未だかつてないほどきれいだ。
光が良く入るし、よく反射するから驚くほど明るく感じる」
ヨウムは淡々と言った。
表情を顔に表さないヨウムは、相変わらず何を考えているのか推察するのが難しい。
ブナは意を決して聞いてみた。
「私がいなくなったら困りますか?」
なぜか震えだす両手を背中の後ろに回して隠す。
「困らないな」
ヨウムはブナを見つめてゆっくりと返す。
「まったく困らない」
ブナは自分の作っている笑顔が引き攣るのを感じる。
「困らない?」
ヨウムの言葉を返す。思いの外、小さい声になってしまい、しくじったと焦る。瞬きすら忘れてしまう。
「もともと私はこの家に一人で住んでいた。
家事は自分で一通りできる。だから、困らない。
そもそも、家事はブナの義務ではない。同じ家で暮らすものとして、協力して欲しいとは伝えたが、君の仕事というわけではない……」
ブナにはもはやヨウムの声は途中で聞こえなくなっていた。
気付くと自分の部屋の扉の鍵を閉め、布団に倒れ込んでいた。
あの場からどうやってベッドまで辿り着いたのか思い出すこともできなかった。
ダメだ。
どう頑張っても、もうダメなんだ。
やはり明日の朝、この家を出て行こう。
この恐怖にはもう耐えられない。
逃げよう。
そしてまた身分相応な場所で、昔みたいに心を閉ざして生きればいい。
ブナはそう決意した。
翌朝。
ブナは身体が重く、腹痛で起き上がれなくなった。
*
おかしい。本の並びが違う。
二階の本棚の魔導書の並びを見てヨウムは考える。
この家に越して来た際に、必要なものは一階に、使わないものは二階に片付けた。
そのため二階は洗濯物を干す際に上がる程度だった。ここ数ヶ月は洗濯物はブナがほぼやっていたため、まったく二階に上がることがなかった。
ブナは朝から体調を崩していた。本人は大丈夫だと言っていたが、顔面蒼白で額から脂汗もかいていた。それでもベッドから出ようとするので、「今日の仕事は寝ることだ」と言って強制的に仕事を奪ったのだった。
魔導書は用途別に並べていたため、自分が間違えることはない。
「となると。ブナか」
魔導書の一冊に紙が挟まっているのに気づき、中を確認する。紙にはブナの筆跡があった。
「自分で勉強を進めていたのか」
二階にある魔導書は初心者向けの簡単な本である。
確かに、今のブナなら読めるだろう。専門用語も一から解説がなされているので、魔導学の知識が全くなくても読める本だ。
ブナはヨウムが教える前に自分で魔導学の勉強を始めていたのだ。
本当に大した知識欲だ。
「そろそろ魔術も教えるか」
となると、先ずはこの家の熱源を使えるようになるのが一番だ。
そうすれば自分がいない日中でも、ブナは一人で温かいスープを飲むことができる。
「体調が良くなったら教えてやろう」
ヨウムは挟まれていた紙を見ながら穏やかに微笑んだ。
*
「何か食べられるか」
ヨウムがブナに確認する。
「何もいりません」
そう応えるブナの顔色は変わらず悪い。もともと肌が白いため蒼白く見えた。
「ごめんなさい。学校の仕事、お休みさせてしまいました」
「ああ、問題ない。たまに休講になるくらいの方が学生も喜ぶ」
「ごめんなさい」とだけもう一度謝り、ブナは布団を頭から被って丸く縮こまった。
果物なら食べられるだろうか。
そう考えて、ヨウムが食料棚を開けたところ、玄関の呼び鈴が鳴った。
「こんにちは」
栗色の髪の女性は、年齢よりも可愛らしい声でおっとりと、笑顔で挨拶をする。
「マーサさん。こんにちは。本日はどのようなご用件で?」
ヨウムは扉を支え、中に案内しながら尋ねる。
「あら。聞いていなかった? ブナさんに呼ばれて来たのだけれど」
マーサは懐から魔晶石のカードを取り出して見せる。
ブナの筆跡で、「助けてください」と書いてあった。
字は乱れている。
なぜ自分に助けを求めず、マーサに助けを求めたのか。
ヨウムはさっぱり理由が分からない。
「そうでしたか。わざわざお越しいただきありがとうございます。そのカード、大変に高価なものですよね」
礼を伝えると、それとなく探りを入れてみる。
学園の教員達が連絡用に用いる手帳にも魔晶石が織り込まれているが、本人の魔力を主体として利用する。
しかし、マーサもブナも魔術を使えない。
そのため魔晶石そのものを対の板状にしたカートに直接書き込む。消すことは出来ないため、一回しか使用できない。手帳もそれなりに高いが、カードは比較にならないほど高価な物だ。
いつの間にブナに手渡していたのか。
「あら、いいのよ。お気になさらないで。融通のきくお金は幾らか持たされているの」
マーサは笑顔で応える。
話しながら歩くその姿はとても優雅だ。
「ブナさん。失礼するわね」
マーサはブナの部屋の扉をノックし、部屋の中に入り、そのままヨウムの目の前で扉を閉めた。
仕方がないので、ヨウムは閉められた扉を居間の長椅子に座って見つめていた。
鏡に映る自分の姿を見る。
突然拒まれたのはこの姿のせいだろうか。
ヨウムには、磨き上げられ、綺麗になった部屋の意味も、マーサが訪れた理由も分からない。
ヨウムは目を閉じ、乱れた心を整えるために、深く一呼吸する。
そして、マーサに出す茶菓子を探し始めた。




