第26話 一雨一度
いつでも逃げていいと言われると、また今度でもいいかと思う。
ブナはノートに書き留めていく。
「何かを見て、何かをして、何かがあって、
思ったこと感じたことを、ただただ書いてみるといい。
うまく書こうとしなくていい。以前にも言ったが、読むものがどう思うかは考えなくていい。
見せてもらえるとサポートがしやすいが、見せなくてもいい。書かなくてもいい。
全て自由だ」
ヨウムはそう言って新しいノートを数冊くれた。
秋の暗い夜空を見ていると昔の自分の黒くて暗い手足を思い出す。
見ていると苦しくて怖い。
温かい布団に包まると、次の朝、全てがなくなっていそうで怖い。
この家の温かいものは、いつか身分不相応だと、取り上げられそうで怖い。
なくなる前にここから逃げれば、なくなるのを見なくていい。
それなら安心できる。それなら怖くない。
ここまで書いてブナは手を止める。
そうか。
そわそわして落ち着かなかったのは、怖かったのか。
今の恵まれた生活が突然無くなってしまいそうで、怖くてたまらなく不安なのか。
だから、自分から離れていって早く安心したいんだ。
ようやく一つの答えが出たことに満足して、ブナは早速ノートをヨウムの元へ持っていく。
いつものように答え合わせをしてもらわないといけない。
ヨウムがノートに目を通す。
「よく書けている。一つずつ気持ちを整理しながら素直に綴っている」
そう言ってノートを返してきた。
ブナは目を見張る。
「赤ペンは? 直さないのですか?」
「ああ。直さない。必要ない」
「字が汚いですよ? 誤字脱字もきっとありますよ?」
「必要ない。とても、よく書けている」
ヨウムは頭を振り、静謐な笑顔を向ける。
ブナはますます意味が分からない。そんなわけがない。
「もともと、添削するためのものではないんだ。
ブナが自分を理解することで、よりよい人生を選択できるように書いているんだ。
不安や疲れがあれば、自然と字は崩れるし、
焦りや悩みがあれば誤字脱字も増えるものだ。このノートはそれでいい」
ヨウムは静かに話を続ける。
「綴る自分の気持ち、思い、感情は全て、どんなものであれ、君自身の資本であり、財産になる。
抱く感情に良いも、悪いもないんだ。
正しく寄り添えば全て君の糧になる。私はそう思っている」
ブナにはヨウムの話が分からない。
分からないが、ただ、そわそわして落ち着かなかった心が、理由に気づいただけで、怖さが少し落ち着いたのを感じていた。
不思議だ。
*
うーん。
ヨウムは悩んでいた。
問題がないのが問題だな。
ブナは頗る順調に勉強を進めている。
驚くほど過密な一日のスケジュールを全てこなし、添削したものはきちんと直し、学び直す。多くの本を読み、専門用語が並んでいなければ、一般の書籍は難なく読めるようになった。
会話も文章もスムーズだ。
掛け算、割り算、分数を覚え、歴史、社会、理科などの分野も勉強している。
体力もついてきたし、至って健康。早寝早起きでよく働く。
必要なことはし、必要のないことはしない。
ヨウムが忙しければ距離を取るし、ヨウムが考えていればむやみに話しかけてこない。
ヨウムが一人になりたい時は自室に戻り静かに過ごしている。
素直で勤勉、努力家で謙虚。
ブナはすごく良い子だ。
都合の、良い子だ。
それが問題だとヨウムは思った。
好きなものを聞けば答えるようになった。
しかし、欲しいものを聞くと、特にない、十分足りていると答える。
欲がない、というよりは、自分の要望、要求を訴えない。
「さて、どうするかな」




