第25話 秋の夜長
「もうすっかりここの生活にも慣れたな」
居間で寛ぎながら絵を描くブナに、ヨウムが声をかける。
少し前までのブナは、自由に好きなことをして寛ぐという時間を過ごすことができなかった。
何かしらの仕事か、課された勉強をするかしか考えられなかった。
ブナにとって自由な時間は、常に漠然とした不安と焦燥が影を落とし、心を落ち着かせるものではなかった。
忙しく仕事と勉強をこなすことで心の均衡を保っていた。
だが今は違っていた。
ブナは初めて、自由な余白時間というものに、心穏やかに過ごすことができた。
「ここは……とても温かいです。ご飯もたくさん食べられるし、お風呂もお布団もあります。勉強も読書もお絵描きもできます」
ブナはひとり思考を巡らすように、窓の外に視線を投げかけた。
外はすでにどっぷりと濃い闇に包まれている。
陽が沈むのが随分と早くなった。
外に広がる深淵な暗さと、窓から滑り込んでくる風の冷たさが、まるで胸の奥をかき乱すように、ざわざわとした漠然とした不安を運ぶ。
「でも……怖いです。
たまに、何かそわそわします。
今がとても幸運なことが分かるのに、逃げたくなるときがあります。
なんでかは、よく……分かりません」
ブナには理由が分からなかった。
それでも、この生活が心地よいものであればあるほど、確かに不安と恐怖に駆られることがあるのだ。
この温もりのある家は、自分の居場所ではないという思考に、ふと襲われる時がある。
この家から出ていこう。
そう思ったことがブナには何度かあった。
喋った後にブナは後悔した。
この人には散々世話になっている。
まるで今の生活に文句を言っているようではないか。
決してそんなことはない。
これは自分の気持ちの問題なのだ。
どう説明したらよいのか分からず、言葉に詰まる。
「そうだな」
しばらくの沈黙の後、ヨウムは居間の戸棚の引き出しから食材などの買い物用として預けられていた財布を取り出し、銀貨を四枚入れた。
「買出し用として銀貨一枚を入れていたが、
五枚に増やしておく」
ヨウムはいつも通り静かに話す。
「家を出て行くときはこの財布を持って行っていい。
服も靴もノートも色鉛筆も、必要なものをカバンに入れて持っていっていい。図書館の本は返さなくてはいけないので、分かるところに置いておくように。
この辺は治安は良いが、それでも夜は避けて、陽が高いうちにしなさい」
ブナはヨウムの表情を窺う。
怒ってはいない。いつもの淡々とした会話だ。
先ほど財布がしまわれた引き出しに視線を向けながら尋ねる。
ブナは困惑していた。
まるで霧の中にいるような、掴みどころのない心持ちだった。
「ヨウム先生は、困らないですか? 私が逃げたら。学長から怒られます」
「困らないな。
まあ、学長は激怒するだろう。クビかもしれない。私は今の仕事と給料と棲家と生活に満足している。
それでも困らない。新しい生活をすればいいだけだ」
ヨウムはいつもの落ち着いた調子で答える。
ブナには分からない。
自分の気持ちも、ヨウムの言っている意図も。
思わず俯く。
居心地が悪く両手を握ったり開いたりする。手の中にはしっとりと汗をかいていた。
「自由でいい。
出ていきたいなら出ていっていい。
庭につながるその窓の鍵は開けておくから、帰ってきたくなったら好きに帰ってきていい。自由でいなさい」
そう言うヨウムの声は穏やかだ。
ブナはそっとヨウムの面持ちを確認する。
ヨウムはいつも通り柔らかく微かに笑っていた。
どうしてだろう。
どうしてこんな表情で、好きにしていいだなんて言うのだろう。
そんな疑問が湧いたが、ブナには皆目見当もつかなかった。
ブナには分からない。
ヨウムの笑顔の理由も、
自分のそこはかとない不安の理由も。
*
よい兆候だ。
ヨウムは思った。
ブナは自分で「逃げたい」と言った。
願望も自我も諦めていた少女が、初めて自分の感情を表現した。
そわそわするから、という曖昧な理由だったが、それでいい。
恐れや不安、疑い、そんな負の感情でもいい。
自らの心の奥底へと目を向け、何らかの感情を確かに掴み取った。
その事実がなにより大事だとヨウムは考えていた。
感情を明確に説明できないのは、自身の内面に対して意識の扉を閉ざして生きてきたからだろう。
感情を感じ取る習慣がなかったから。
自分自身を知らないから。
だから曖昧な霧のような表現しかできない。
理由を深くまで掘り下げることができない。
「ノートを買い足しておくか」




