第23話 秋澄む二人
朝晩の風が涼しくなった。
風はそこはかとなく秋を運んでくる。
「キャンプ日和だな」
ヨウムは珍しく軽快に言う。
暑さの余韻が残る市街地に比べ、高原や森を吹き抜ける風は、すでに秋の気配を携えていた。
「キャンプ?」
「自然の中で食事して眠ったりするんだ。私は外で過ごす時間が結構好きなんだ」
ブナが力強く一つ頷く。
「分かりました! 野営です。得意です」
相互に認識の違いがありそうだと思いつつ、ヨウムは準備を始めた。
*
「意外だった。君が……本当に野営が得意だったとは……」
ブナはヨウムに言われるまでもなく、石を除き、枯れ枝や枯れ草、樹皮を集め、適度に風が流れる所に寝床の基礎を作り、マッチ一本であっという間に火をつけた。
「魚を焼きましょう」
そう言って、先ほどブナ自身が川に入り、岩陰から素手で捕まえてきた魚を慣れた手付きで枝に刺し、焼いていく。
魚は……確かに食べられる種類だった。
大丈夫だ。
塩も振って揉んでいた。
ヨウムはそっと、大きな葉の上に置いてある木の実を見た。
だが木の実というには少し大きく、柔らかい。
「あれは……本当に食べられるのだろうか」
ブナが自ら木に登って取ってきたものだ。ヨウムが良く知る木の実ではない。
「本当に生で食べるのか。加熱を……したほうがいいんじゃないか?
危険な……色合いをしている。毒が……ありそうな姿だ」
ヨウムが弱々しく確認する。
「大丈夫です。ものすごく美味しいです!」
ブナはすでに嬉しそうに頬張っている。そして、満面の笑みでヨウムに手渡して勧めてくる。
ヨウムは食べないわけにはいかなくなった。
「なんというか……。独特の触感だ」
言われるほど美味しくはないな。
表情に出ないよう、半目になり、黙々と食べる。
夏の雲が遠のき、空には青く澄み渡った高い空が広がっている。空気は透明度を増し、遠くの山々の稜線がくっきりと見える。
木々の葉はまだ青々としているが、足元では野の花が秋の色をまとい始め、季節の移ろいが感じられた。
ヨウムは口の中の種をブナに倣って皮の上に出し、そのまま焚火の中に放り込んだ。火がバチバチと音を立てて爆ぜる。
「ふっ……ふ、はは。あはははは」
ヨウムは笑いが堪えられなくなり、声を立てて唐突に笑い出した。
あまりにもおかしくなってきて、片手で顔を覆い、片手で腹を抱えて笑った。
驚いて固まったブナがじっとヨウムを見つめる。
「ああ。すまない。ふっ。いや、おかしくなってしまったんだ。
私が知らないことだらけで。できないことばかりで」
ヨウムは笑いながら話す。
「この毒々しい見た目のアケビが少し甘いとか、私は知らなかったし、川魚を素手で捕るコツなんて知らない。自然の中で過ごすのが好きだと言いながら、食べ物は家から持ってきてしまう。
ブナは私の知らないことを知っていて、私のできないことができる。
それがとても楽しくて、嬉しかったんだ」
至極当たり前のことだ。
人によって生きてきた文化や背景が違うのだから。
当たり前のことなのに忘れていた。
ヨウムはブナを患者として見てきた。
恵まれぬ生い立ちを持つ不幸な子どもと決めつけていた。
守り、教え諭し、手を引いて育ててやらねばならないと考えていた。
違った……
ブナは一人の個人だ。
個人として彼女が生き抜く過程で身につけた知恵と知識が確かにそこにある。
数が数えられない。読み書きができない。時計が読めない。買い物ができない。生活マナーが身についていない。食べ物の種類も食べ方も知らない。
しかし、掃除は丁寧だった。家事は手際が良かった。料理の下処理はヨウムより上手かった。
強制され、怒鳴られながら、必死で覚え、身につけたのだろう。その背景をかえって不憫だと憐れんだりもした。
だが、それらはどれも、ブナが生きる中で必死に身につけた、紛れもない立派な技術だった。
彼女の生きてきた確かな証だ。
その厳然たる事実に、突如としてようやく気が付いた。
なんて傲慢で視界の狭い浅慮だったのだろう。
守り、教えて、育ててやる……。
職務として上司に言われた仕事では確かにあるのだが、つまりは自分が与える側だと思っていた節があった。
死んだリリーに重ねていた節があった。
与えてやり、助け、導かねばならないと、一方的に勝手に、自分自身に義務付けていた節があった。
「自分の浅はかな考えが恥ずかしい」
ヨウムは情けなく静かに笑って、頬に当たる冷涼な風を感じた。
ブナの起こした火が美しく揺れている。
草木が揺れる優しい香りと音がする。
遠くで鳥が鳴いているのが聞こえる。
ブナが獲った魚は美味しかった。
風はどこまでも澄んでいる。
ヨウムの中で張り詰め、固まっていた何かが、溶けて流れて循環していくようだった。
「温室育ちで申し訳ないんだが、持ってきたコーヒーを淹れてもいいだろうか」
「うぐっ」
淹れたコーヒーに口をつけたブナが渋い顔をする。
「水道水のほうが美味しいです」
「そうか」
ヨウムはまた声を立てて朗々と笑う。
*
ブナは楽しかった。
こんなに自由で楽しい野営は初めてだ。
魚を獲った時のヨウムの驚いた顔が嬉しかった。
次は鳥か兎を獲って驚かせてやりたい。
鹿が獲れたら最高だ。
「なぜ、ブナはそんなに野営が上手いんだ?」
ヨウムが聞いてきた。
「父と一緒に、他にも何人かで、山に入って仕事していました。親方が、取ってこいというのを、たくさん取ってくるとお金に変わります。出来高制。
動物、木の実、花、草、色々取りました。それで野営もありました」
ヨウムが持ってきたサンドイッチを頬張りながらブナは答える。
「口に入っている時には喋らない」とヨウムにさらりと指摘される。
「風が冷たくなってきたな。暗くなる前には帰るぞ」
「え。野営は? 寝ずの番は?」
「今日はもともと日帰りの予定だった。食料も昼の分しかないし、寝袋もない」
「せっかく寝床作ったのに?」
「昼寝をしたらいいんじゃないか」
ヨウムはブナが葉や草で作った寝床の上にシートを広げ、その上に寝そべった。
「ああ。いいじゃないか。とてもふかふかだ」
そしてまた何が楽しかったのか、声を立てて笑い始めた。
「ブナ、私は心から君を尊敬する」
そう伝えられた。
ヨウムはよく笑う人だとブナは思っていた。
ただ、それは優しい、穏やかな、微かな笑いだった。
ブナはヨウムが声を立てて笑う姿を、今日、はじめて見た。
父と仕事をしていた時の父の笑顔を思い出す。
ブナが捕った獲物を見てほくそ笑む。獲物が手に入った。希少なものを手にした。金子が増える。
そんな欲深い笑顔だった。
母の笑顔を思い出す。
怒っては叩く、水をかける、物を投げる。それでブナが怪我をすると冷笑う。
ブナをバカにし、蔑み、不幸をあざ笑う笑顔だった。
ヨウムは横になったまま空を仰ぎながら爽やかに微笑んでいる。
この人の笑顔は美しい。
この人はとても美しい人だ。
暗く冷え切っていた胸の奥に、太陽の光が差し込んだような感覚だった。
じんわりと温められた血が心臓から体の隅々に向かい巡り始めるような、そんな感覚だった。
その不思議な感覚を抱いたまま、ブナはサンドイッチを頬張る。
持っていたサンドイッチを食べきり、別のサンドイッチにも手を伸ばす。
「本当に……よく食べるな」
「ダメ……ですか」
流石に食べすぎだろうか。窘められるだろうか。
「いや。もともとブナのために多めに作ったから好きに食べるといい」
そう美しく微笑むヨウムの醸し出す空気感にブナは安心する。
「いただきます」
ブナは遠慮せず、ありがたく頂くことにした。




