第18話 八月のケーキと風光る
「今日は学校に行かないですか?」
「夏休みなんだ。長めのお休みだ」
「夏休みはケーキ屋さんに行く日ですか?」
「ケーキと夏休みは関係ないな。ただ、何となく」
「何となく! いいですね。何となく、楽しみです」
ヨウムが使った「何となく」という曖昧な言葉を、ブナは少し驚いた顔をし、繰り返した。
ブナにとっては、初めての街への買い物だ。
石畳の大通りの先には、緑豊かな木々の隙間から学園が見える。夏の眩しい光が石造りの街並みに陰影を生み出し、窓辺を彩る花々が鮮やかに目に飛び込んでくる。
学園通りと言われるこのメインストリートは、市街地から学園の正門まで延びており、普段は多くの人々で賑わっている。今は夏休みのため人通りも少ない。
それでもブナには目新しいものばかりで、街の建物や道端の店々、窓先の花々、行き交う人々にくるくると目線を移していく。少女は瞳を輝かせる。
一歩、歩くごとに余所見をするため、子どもの背丈しかないブナは何度も人にぶつかりそうになる。
「ブナ。そんな歩き方をしていると人とぶつかってしまって危ないし、相手側にも失礼だ。
それに、迷子にならないか心配だ。
……嫌じゃなければ、手を繋いでいてくれないか」
ヨウムは黒い斑点だらけの欅の木の皮のような手を差し出してみる。
肌色の悪い男は夏の日中でも厚手の長袖を着て、腕が見えないようにしている。
手をつなぐなど、学園の女生徒には悲鳴をあげて嫌がられる行為だろう。
ブナは驚いた顔でそっと手を握る。
ブナの手はとても小さく、柔らかでか細い。
子どもの手だ。
「お母さん……」
ブナはぽつりと呟いた。
「……お兄さんだ。どちらかと言うと」
ヨウムは少し眉間に皺を寄せて静かに返した。
目当ての店は学園通りから少し外れたところにある小さな個人店だ。
気位の高い貴族向けの派手なケーキは少ないが、味がよく、焼き菓子などは学園の他の教員にも喜ばれる。味が肥えた学長も気に入っているので、店主の腕は相当良いのだろう。
店の中はすぐ奥が厨房になっており、甘い匂いが充満している。
ヨウムは焼き菓子は嫌いではないが、この焼き菓子が焼ける甘い匂いが、あまり得意ではない。
ショーケースには華美ではないが、季節の果物が添えられた、沢山の種類のケーキが並び華やかだ。
下段には淡い色合いの色とりどりのマカロンが虹色の順に並んでいる。どれも艶があり、形も揃っており丁寧に作られているのがよく分かる。中のフィリングもそれぞれ個性があり、ヨウムも気に入っている。
ブナは色に惹かれたのか、しゃがみ込んでマカロンを覗き込んでいる。
「ケーキと、マカロンを一つずつ好きなのを選んだらいい」
せっかくだから、いくつか選んでも良かったのだが、贅沢を知らないブナに、やたら買い与えるのも避けたい。
お金の使い方も教えていかなくてはならないな。
帰りに食料品を買いながら、買い物の仕組みも教えるか……。
ブナは果物が一番沢山載っているケーキにすると即決した。
マカロンに関してはどの色にしようか真剣に悩んでいる。味の説明も簡単にしたが、想像がつかないようだった。
「レモンイエロー
カナリアイエロー
ライムグリーン
ロビンズエッグブルー
シェルピンク
ベビーブルー
オーキッド……」
ブナはショーケースの前に膝を曲げて座り、マカロンを一つずつ見ながら、ぶつぶつとその色を呟く。
何か、……知らない色があった。
ヨウムはカナリアイエローとレモンイエローの差も、ロビンズエッグブルーとベビーブルーの差も分からない。
そもそもそんなブルーがあったのか。
ヨウムは驚いた。
知らない色の名前にも。
そしてなにより、この国の言葉を覚えたてのブナが、ヨウムの知らないことに詳しかったという事実に対しても。
*
「――これです」
ブナは二階の本棚から大きく重たい本を取り出した。
『ブナは色の名前をどこで覚えたんだ?』
そう尋ねるヨウムの質問への答えがこの色彩図鑑だった。
中には色の名前と色見本、その色にまつわる植物や石、空や海の美しい絵が載っていた。
キラキラしたそれらを見ているだけで彼女は心が躍った。
ブナには読めない詳しい解説も書いてあるが、標本と絵が多いので彼女でも楽しめた。
「図鑑か……」
ヨウムは手を口元に持っていき何やら考えている。
ブナはそれをじっと見つめる。
怒られるわけではなさそうだ。
おそらく勉強のことだ。きっとまた新しい勉強が増える。
人を見て、人のやることを覚え、人の考えていることを推察する。
そんな癖がブナにはついている。
家事を覚えるのが早いと、初めの頃にヨウムに言われた。
ヨウムの生活を見て、どんな時はどのような皿を使うのか、どこから出して、どうやって扱うのか、見て覚える。
ブナが生きる過程で必死に身につけた癖だった。
「この棚にある他の図鑑も見たのか?」
「全部、見ました。
他にも石の本、お天気の本、植物の本、虫の本、動物の本、どれも楽しかったです。
でも、色々の本が一番好きです。
どの色もきれい。名前、覚えたくて、何度も見ました」
この家には本が多い。
殆どの本は字が多くてブナには難しく、読めない。
ただこの本棚にある図鑑だけは別で、毎日、一人で何度も眺めていた。
「これは、かなり見込みがあるな……。
図書館を使わせる方がいいか。今日、本屋にも寄れば良かったか……」
ヨウムは、何やらあれこれ考えながら呟いている。
「ブナ、君は素晴らしい。君は私が与えた絵本や子ども用の図鑑だけでなく、自らの意思で、興味あるものを発見し、手に取り、新しいものを学んだんだ。
自主的に、好奇心から学び、それを知恵にする。
本当に素晴らしいことだ」
ヨウムは口元から手を外すと力強く言葉を発した。
ブナは予想外のことに褒められ、何度も瞬く。
ヨウムはよく褒めてくれる。
ただ、ブナにはなぜ褒められるのか、その理由がよく分からないことが多い。
仕事の出来なら納得できるが、色の名前を覚えたなどという理由で褒められた経験などない。
相手に利のないことをして、なぜ褒められるのか、意味が分からなかった。
ブナはなぜかそわそわと居心地が悪くなり、肩に力が入る。
「色彩図鑑か。どういうところが一番気に入っているんだ?」
「これとか、これとか、これ。空や、花をそのまま本に閉じ込める絵。とてもきれいです」
「ああ、写真か。
専用の魔道具を使うんだが、回路が複雑で貴重なものだから、写真が多く使われた本は珍しいんだ」
ヨウムはブナの頭を手でぐしゃぐしゃと強めに撫で「明日は図書館へ行こう。きっと好きな本が沢山ある」と穏やかな笑顔で言った。
頭の上に置かれたヨウムの温かい手と、ヨウムの笑顔で、そわそわしていた心は落ち着いてくる。
同時に何か胸に温かいものが広がる。
ブナは頭の上のヨウムの手に、自分の両手をそっと重ねる。
ブナの口元から自然と笑顔が零れた。
図書館が何たるかは分からない。
ただ一つ頷いた。
不思議だ。
ぽかぽかと、わくわくが、いっぱいだ。
ブナにとって、その日、夕飯の後に食べる約束をしていたケーキも楽しみだった。




