第16話 虫時雨のやりとり
「君の好きなものはなんだろうか?」
ブナは返答に困り首を傾げた。
この家に来てからというもの有難いものは沢山ある。むしろ生活の全てが有難かった。
だが好きなもの、と聞かれると、それを答えるのはとても難しかった。
すると真っ白なノートをもらった。
「このノートに、今日やったことを文章で書こう。
自分が好きなことも文章で書こう」
そう言ってヨウムはそのノートを使って書き方の説明をし始めた。
「簡単な文章で構わない。先ずは主語と述語。
『わたしは食べる』
目的語や補語を加えられるとより良い文章になる。
『私は朝ごはんにパンを食べた』
やったことだから、基本は過去形になる」
ヨウムは概要を話したあと、相手の理解力に合わせて分かりやすいよう難易度を下げて説明する。
説明と同時にどんどんノートに文章を書いていく。
だれが、どうする。
だれが、いつ、なにを、どうする。
だれが、どこで、なにを、どうした。
ブナにとってヨウムの教える内容はいつも分かりやすいが難しい。
説明された時は理解できるが、実際やってみると分からなくなる。
ヨウムは「それでいい」と言う。
「先ずはやってみるのが大事だ。間違っていれば指摘する。指摘されたものを確認して、また直すのがさらに大事だ」
ヨウムは続ける。
「やったことを書くのは事実を書くだけなので分かりやすいだろう。
好きなもの、好きなことを書くのは、初めは少し考えるかもしれないが、自分を知る上でとても大切だ。
些細なことでいい。簡単なことでいい。
立派に書こうとか、添削するものがどう思うかとかは考えなくていい。やることに意義がある」
ブナは二度頷いた。さっそく取り掛かる。
読み書きができるだけで、仕事の幅が広がる。
それが生きるのに、いかに大切なことかが分かる。だからこそ、この機会がどれだけ幸運なことかも理解していた。
しかしそれ以前に、真っ白いノートに新品の鉛筆、それだけでブナの心は踊った。
字が書けるようになった。
読めるようになった。
その事実が素直に嬉しかった。
*
「すきなもの……
あたたかいスープ、くだもの……」
ブナはせっせとノートに書いていく。
ヨウムはその姿を見て、柔らかく笑う。
「ヨウム先生。私の好きなもの……。名前分からない。知りたい」
「うん。どんなものだ」
ブナは台所に行ってコップに水を注いで見せてくる。
「これ」
「水……だな」
「私知ってる水、臭い、茶色い。味へん。違う水。
おいしい水。名前知りたい」
「水道水……だな」
「すいどうすい! おいしい水! 名前、すいどうすい!」
ブナは満面の笑みでコップの水を掲げて見た。
わたしは すいどうすいが すき。
ノートにはしっかりと、そう書かれていた。ヨウムは思わず苦笑をした。
*
わたしは ゆうがたに え かいたです
わたしは えをかく すきです
わたしは いろいろ えんぴつが すきです
わたしは いろ たくさんある すきです
「添削しがいがあるな」
とりあえず助詞の使い方からか……。
絵本を朗読させるか。
ヨウムはノートを確認し、次の課題を考える。学ばせたいことは山ほどある。
目の前の生徒の理解がどれほどで、何が足りないか、何を優先し、どんな手段でアプローチすれば最大限、理解が深まるか。
ヨウムは常にそんなことを考えながら課題を出していく。
だからこそ生徒からすると常に難しく、常に量が多く、終わりが見えず、気が抜けない。
そして嫌がられる。
「どんな絵を描いたんだ?」
隣で真剣に添削を見ているブナに尋ねる。ブナはパラパラとお絵描き帳をめくる。
「これです」
様々な色で、様々な形が……。
何か……渦巻いている。
「えっと……これは、何を思って描いたんだ?」
「夕方、庭から、声いっぱい聞こえます。いろいろな声、楽しいです。
ので、いろいろな声を……いろいろえんぴつで、描きます」
ヨウムは口元に手をやり、しげしげと絵を見つめる。
夏の夕方。
たしかに、庭の虫は沢山の種類が鳴いている。
賑やかだが煩くはなく、涼しげで風流だと思う。
その景色を描いたのではなく……
「虫の音色そのものを描いたのか。
ブナ、君は天才だろうか。その発想は私にはない。とても自由で柔軟だ」
ヨウムは思わずブナの頭をぐしゃぐしゃと力強く撫でる。
ブナは動物のように肩をすぼめて小さくなった。
「色鉛筆は気に入ったか?」
「はい。いろいろえんぴつ、気に入ります。色がたくさん。とても好きです」
「たくさん、描きたいものを描くといい。その感性を大事にするといい」
ヨウムは目を細める。
ブナが笑顔で答える。
ブナはかなり笑うようになった。
*
マーサは二人のやりとりを見ていた。
居間で絵本を声に出して読むブナ。
文字は覚えたらしいが文章を読むのはたどたどしい。
「背筋が曲がっている。
背中は伸ばす。首は立てる。頭頂を意識する。
目線はもう一つ遠くに。
本の位置はここ。持ち方はこう。足は閉じる。口は呆けない」
奇怪な姿の男はブナが間違って読むと、細かく指摘し、逐一読み直させる。
「あらまあ」
ヨウムは自分より厳しい。
マーサはそう思った。
マーサはシーモア・シーランに認められ、名のあるシーラン家で乳母として、養育係として、シーモアの孫たちの面倒をみてきた経緯がある。今は孫たちも大きくなり、シーラン家の内情もよく知るため、あまり公にはできない今回のような雑務を中心に担っている。
表向きはヨウムのサポートのために訪問。
実のところはブナの成長具合の報告と、ヨウムの指導内容の報告だ。
マーサはブナの部屋の机に積んである、自習帳をぱらぱらとめくる。
「あらまあ」
どのページもかなり事細かに、びっしりと赤字で添削されている。さすがに、驚き呆れる。
「かなり厳しいこと」
かえって勉強嫌いな子にならなければ良いけれど。
マーサは思わず心配になる。
「あらまっ」
棚の一番下にはシーモアが与えたはずの基礎化粧品一式が封も開けられずに、箱の中に収められていた。
マーサはパンパンと手を叩く。大きく響く音にヨウムとブナが振り返る。
「ブナさん。すぐに洗面所に行きましょう」
自分が来た甲斐があったというものだ。
マーサは仕事を見つけた喜びでニコリと満面の笑顔になった。




