第14話 新緑の散歩と自由
「今日は散歩に行こうか」
三時間ほどしっかり覚醒できている。歩いて三十分の範囲なら出かけても問題ないだろう。
ヨウムの家は学園の裏門から歩いて十五分ほどの場所にある。
その奥は丘陵地帯特有の緩やかな傾斜の草原が延々と広がる。
目線を下に向けると、遥か先に、その傾斜を利用したブドウ畑、果樹園、牧草地などが見える。
等間隔に植えられたブドウの木々は、緑の波のような縞模様を描きながら、遠くまで続いており、そのブドウ畑の中腹に、素朴な石造りの家々が集まった集落が点在しているのが見える。
さらに先の湖畔には、深い緑の牧草地が広がり、牛、羊、馬などが、放牧され草を食む姿が小さく確認できる。
誰かが遠くで地に根を下ろし、生きて生活している。
その当たり前の事実と温もりを感じるこの風景をヨウムは気に入っている。
一方で、視線を上げれば、なだらかな起伏の草原には小道が延びており、その先は川に突き当たる。
川を渡れば森に繋がり、その奥には青空を突き刺すように雄大な山々がそびえ立っている。
山の上部は岩肌が露出し、その姿は神々しい迫力があり、その荘厳さはいつも畏敬の念を感じさせる。
ヨウムは休日、ブナを連れ、川を目指すことにした。
「そうだ。リリーの時もそうだった」
そもそも子どもというのは歩幅が狭い。
何より、ありとあらゆることで、興味を惹かれて立ち止まる。
よって、大人が十分かけて進む道を三十分かけて歩いたりする。
ブナの興味も子どものそれと同じだった。
草木が揺れれば眺めて止まり、虫が飛べば追いかけて、捕まえようとする。
花の蕾があれば摘んで一枚ずつむしり、枝や石があれば一通り拾い集める。
「食べないっ。口に入れない」
ブナは困ったことに、手当たり次第なんでも、口に入れようとした。
ツツジの花の蜜、草苺の実、ひよこ草の葉、草についた朝露。この辺りはまだマシだった。
「蟻は……というか、虫はやめてくれ」
「キノコもだめだ」
「汚れているものはよくない」
「溜まった水なんて腹を壊す」
「土なんて食べるな」
ブナはすでに、座った状態で顔だけ地面にくっつけ、まさに口を大きく開けていた。
ヨウムはブナの襟元をつかみ、ブナを地面から引っぺがす。
家から散歩に出かけて三十分。
家はまだ大きく見える所にある。
ヨウムは諦めてシートを広げる。
「朝ご飯にしよう」
ブナはサンドイッチを頬張りながら、足をパタパタと揺らす。
空を眺め、鳥を目で追いかけ、花の匂いを嗅ぎ、草木が揺れる音を聴いている。
「とても、楽しいです」
そう言うブナは、楽しくて笑っているというより、終始、目を見開き何度も瞬きをし、驚いた表情をしていた。
その顔は風景を楽しむというよりは、すべての刺激に感動し、同時に一気に押し寄せてきた外の景色の情報量の多さに戸惑っているようでもあった。
「週末はなるべく散歩をするようにしよう」
ヨウムは小さく笑いながら伝えた。
*
ブナは熱にうなされながら昼間の外出のことを思い出していた。
自由だった
止まるなと怒鳴られなかった。
余所見をするなと叩かれなかった。
列に戻れと蹴られなかった。
美味しそうな花の蜜や草や実を食べても、どこへ行っても、いつ立ち止まっても、何を見ても、何に触れても、怒られなかった。
美しかった
感じるすべてのものが煌めいていた
熱と一緒に今日見た美しい物が頭の中をぐるぐると回る。身体全体がほてり、全身が痛くて、怠くて重く感じた。身体はしんどいはずなのに、辛いとは思わなかった。
不思議な気分だった。
「休眠が終わって間もないのに無理をしたから、身体が免疫を活発化させている。その反動で熱が出たんだろう」
ヨウムが額に置かれたタオルを冷たいものに変えながら説明した。
「すまなかった。家の近くだからと油断してしまった」
そう言って水枕を頭の下に入れ、ストローと蓋がついた冷たい飲み物をよこしてくる。
ほんのり甘くてほんのりしょっぱい飲み物は身体に染み込んでいくようだった。
ヨウムは頭を撫でながら「果物は食べられるか」と聞いてくる。
この家で出される果物は、とても美味しく、今まで食べたことのないものだった。
しかし、さすがに今は食べる元気がない。
美味しいものを食べ損ねる。
それはブナにとって何よりも残念なことのはずなのに、なぜか今は執着や未練を感じなかった。
見たことある景色だ
知っている
妹や弟が熱を出したとき……母がこうやって優しく看病していた。
二番目の主人のお嬢さんの体調が悪いとき……主人と奥様がいつも心配そうに、つきっきりで看病していた。
自分が体調が悪い時、水は側に置いてあったが、あとは一人で硬い床に、薄い衣をかけて丸くなって寝ていた。
「私はここで作業しているから、何かあれば遠慮なく、すぐ言って」
ヨウムはベットの横の机に何冊かの本を持ってくると、静謐な態度でまた頭をゆっくり撫でた。
触れられた手はとても温かかった。
ブナは喉がグッと締め付けられるような感覚を覚える。
胸がつまる
涙が出そうだ
それがなぜなのか理由は分からない。
涙を堪えるためにブナはそっと目を閉じた。




