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 六時間目も終わる頃になると、窓から差し込む日差しが肌を刺すように暑かった。

 中庭の木々から蝉時雨が耳に痛いほど響いてくる。こんなふうに夏を満喫するのは久しぶりだなと、海雪は机に頬杖をつきながら思った。

 今日の授業はこれで終わり。いよいよ放課後──決戦の時が始まる。

 とはいえ、朝から今まで直登とはうまくやってこれたつもりだ。つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、友達を交えてちゃんと会話もできたし、お昼も一緒に食べられた。


 七年前の記憶が徐々に戻り、すっかり周囲に馴染んで考え方や感情まで七年前に戻ったかのようだ。

 時間が緩やかに流れているような、至福のひと時。

 今日という日がこのままずっと続けばいいのに──そんなふうにさえ思ってしまう。

 ホームルームが終わり、級友たちは席を立ち各々帰路に着き始めた。


「海雪」

 直登に声をかけられて、海雪は振り返った。


「今日何か用事ある?」

「ううん、ないけど……」

「じゃ、一緒に帰ろうか」

 こんな展開だったかな、と思いながらも腰を上げたその時だった。


「高居先輩いますか」

 低い声に戸口を見ると、丸坊主の下級生らしき男子がドアから顔を覗かせていた。陸上部の後輩のようだ。駆け寄った直登に何事か話している。

 しばらくして、直登がこちらを振り返った。

「悪い海雪。ちょっと部室行ってくるから、教室で待ってて」


 そう言って、直登は後輩とともに教室を出て行ってしまった。引退したとはいえ元部長、後輩にとってはまだまだ頼れる存在なのだろう。

 海雪は苦笑しながらもまた席に着いて、周囲にいた友人と話をしながら待つことにした。

 だが──いつまでたっても直登が戻ってこない。

 教室に残っていた友人たちも一人減り二人減り、気がつけば残されたのは海雪一人になっていた。


 誰もいなくなった教室をゆっくりと見回す。徐々に傾いていく夕日とともに長くなる影を見つめて、海雪は息をついた。

 急に寂しさが募ってくる。教室に、いや七年前のこの時間に一人取り残されたようだ。

 高校生活は確かに楽しいけれど──七年後の現実が少しだけ恋しくなる。

 未来が変われば、二十四歳の自分の記憶は消えてしまうのだろうか。このまま新しい人生を送ることになるのだろうか。

 その時──悠一は?

 海雪は未練を断ち切るように立ち上がり、窓の外を向いた。

 見下ろした中庭の花壇では、ヒマワリや百合などの夏の花々が色とりどりに咲き誇っていた。目にも美しい花々と濃い緑の鮮やかな色が目を突き刺すようだ。


(いいや──私はやり直すんだ。生まれ変わるんだ)


 ここまできて何もしないで終わらせるなんてことはしたくない。きっとこのタイムスリップには意味があるのだ。


「おわっ」

 後ろから急に声がして、海雪は飛び上がらんばかりに驚いた。

「ぎゃっ」

 慌てて振り返ると、担任の北山が同じように驚いた顔で戸口に立っていた。

「せ、先生?」

「長岡か。ビックリした……」


 ビックリしたのは海雪も同じだ。動悸の激しい胸を手で抑えると、小さな痛みが走った。

 北山は背が高く、教室の入り口に頭をぶつけそうだなといつも気にしていたことを思い出す。気持ち頭を軽く下げながら、彼は教室に入ってきた。


「先生どうしたの?」

「ああ、掲示物張り替えとくの忘れてな」


 北山は教室の後ろの掲示板に向かった。画鋲を抜きさししながらプリントを張り替える様子を、海雪は椅子に腰掛けて見つめていた。

 考えてみれば、この当時の北山と七年後の海雪はちょうど同い年ぐらいになる。生徒とは違う、ワイシャツにネクタイ姿の北山の後姿を眺めていると、ふとどうしても尋ねたくなってしまった。


「ね、先生」

「なんだ?」


 北山が振り返った。この頃で教師になってまだ三、四年目くらいのはず。先生というより兄もしくは先輩といった雰囲気だ。


「先生って今彼女いるの?」

「いるよ……って答えたいところだけどな、只今絶賛募集中だ」

「ふーん……でも前にはいたんでしょ?」

「まあ……そりゃあな。って、なんでこんな話してるんだろうな」


 照れくさくなったのか、北山はまた後ろを向いて掲示物を直し始めた。その背中に追い討ちをかけるように、海雪は質問を続ける。


「もし……もしだよ。過去に戻れたら……その人とやり直したいと思う?」


 北山が動きを止めた。何か触れてはいけないものに触れてしまっただろうか──海雪が不安に駆られ始めたその時。


「昔の彼女に未練が全くないって言ったら、嘘になるかもな。やり直せるチャンスがあるなら──って思うときもあるよ」

 北山は振り返りもせずに、しかしながら落ち着いた声でそう言った。

「大人になれば……誰しも一つや二つはやり直したい過去ってもんがあるんじゃないのか」


 北山にもそういう想いがあることを知って「自分だけじゃなかった」と安堵した反面、海雪の胸中には例えようのない複雑な感情も渦巻いていた。シャツの背中を見つめるその表情がわずかに曇る。

 そんな心の機微を感じ取ったのか、北山がこちらを向いた。


「でも──過去があるから今の自分がいるんだ」

 そう語った彼の表情は、澄み渡った青空のように晴れ晴れとしていた。

「あーすればよかった、こーすればよかったって、後になってから思うけどな。それが正しい選択だったかなんて、もっともっと時間が経たないとわからないだろ?」


 微笑みながら海雪を見つめるその瞳は、深く思い悩む生徒に対する教師としての思いやりに満ちあふれていた。その微笑が少し眩しく感じて、思わず目を細めてしまう。


「確かに今は一人だけど、不幸だなんて思わないよ。振り返ってばかりじゃ前には進めない。しっかり胸張って前向いて進んでりゃ、幸せはいつの間にか後ろについてきてるものさ、きっと」


 北山はそう言うと、つかつかと戸口に向かってしまった。心なしか頬が赤いように見えたので、柄にもないことを言ってしまった照れ隠しのポーズだったのかもしれない。

 背中越しに「早く帰れよ」という言葉を海雪にかけて、彼は足早に去って行った。


 励ましてくれた担任に「ありがとう」の一言でも言いたかったのに──言葉がなかなか出てこなかった。

 胸が熱くなって、疼くような痛みさえ感じる。深呼吸しようと大きく息を吸い込むと、中庭で咲き誇る百合の花の香りが鼻腔の奥をつんと刺激した。


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