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しばらくして直登は戻ってきた。
「待たせてゴメン。引継ぎがうまくいってなかったみたいでさ、結局オレが全部やることになっちゃって」
「大丈夫だよ」
夕陽を背負った逆光の中で、海雪は笑顔を見せた。
空が茜色に染まり、教室の中に眩しいほどの西日が差し込んで同時に色濃い影をも作り出している。どこか郷愁を誘うこの光景をもう少しだけ味わっていたかった。
「きれいだね」
「え? 何が?」
「夕陽が」
「暑いだけだろ」
そう言いながら、直登は窓際に立つ海雪に並んだ。夕陽を浴びて、浅黒い肌が赤く染められていた。
静まり返った教室の中で、遠くから部活動に精を出す生徒たちの声が微かに響いてくる。
西日で暖められた空気で身体は汗ばんでいたが、時折吹き込む風が淀んだ暑さを吹流してくれてとても心地よかった。
汗で頬に張り付いた髪の毛をかき上げ、窓の外を眺める。横顔に直登の視線を痛いほど感じた。
「なんか今日の海雪、いつもと違う感じがする」
「えっ、そ、そう?」
「なんか大人っぽい」
「……それってあんまり褒め言葉じゃないよ」
七年前はどんな会話を交わしていたのだろうか。もう思い出せないが、その後はとりとめのない話で場を濁した。だが話は自然と明後日から始まる夏休みのことへと移っていく。
「受験勉強進んでる?」
「この間部活引退したばかりだからなぁ。やっと軌道に乗り始めたくらい。海雪は? 夏期講習行くんだろ?」
「うん……」
その努力も水の泡となることを知っているので、歯切れの悪い答えしか返せない。
しばらくの沈黙の後、直登が口を開いた。
「夏休み……どこかに遊びに行こうか」
海雪はビックリして直登の顔を見た。昼間佐緒里から冗談で言われたことが本当になりそうだったからだ。
「いや、あいつらがうるさくてさ。高校最後の夏休みなんだから、一泊旅行でもしてこいって……まったく人の気も知らないでよ」
直登の言う「あいつら」とはいつもつるんでいた友人たちのことだろう。
海雪が佐緒里や幸乃たちからけしかけられていたのと同じく、直登も下卑た悪友たちからいわゆる「ひと夏の経験」をそそのかされていたのである。
当の本人たちは経験どころかキスもまだ、手をつなぐのがやっとという珍しいカップルだったのに、周りはそんな事情を露とも知らなかったわけだ。
直登は苦笑していたが、実際友人たちに囲まれてそんな話が出たときにはいたたまれない気持ちだったのだろう。
「私は……それでもいいよ」
それは、十七歳ではなく二十四歳の海雪の呟きだった。直登の辛さを思えばこそ、少しでも彼の気持ちを楽にしてあげたかった。
「えっ?」
だがその声は、海雪には非難めいて聞こえた。
こちらをまじまじと見つめる直登の顔に、戸惑いの色が浮かんでいるのがありありと見てとれる。自分がそんなことを言うはずがない──といぶかしんでいるのかもしれない。
海雪は背筋が寒くなる思いがした。
「……う、うそうそっ! 今の忘れて!」
慌てて顔の前で手を振る。愛想笑いを浮かべながら必死に弁解するが、こちらを見つめる直登の目には憐れみの色すら浮かぶようだ。思いつめたように眉根を寄せ、口を真一文字に結んでいる。それがまた海雪を焦らせた。
「冗談だよ! 勉強も忙しくなるし、そんなことやってる場合じゃないよね! 私ったら何言ってるんだろ、もう……」
言葉を失って、動揺を隠そうと目を伏せた、その時だった。
「……海雪!」
次の瞬間、海雪は直登の腕の中にいた。
きつく抱きしめられて、胸に耳を当て激しい鼓動の音を聞いている。直登の動きをある程度予想していたはずなのに、実際に抱きしめられると頬が紅潮し胸が高鳴るのをどうにも抑えられない。冷静を取り戻せる心の余裕がまだあることだけが、七年前と違う点だ。
焦り、衝動、混乱、驚き──直登の中で様々な感情が渦を巻いていることを肌で感じられる。
「直登……」
腕の中で顔を上げると、思ったとおりの険しくさえある彼の目がこちらを見下ろしていた。わかっていても、胸がドキリとする。
そう、わかっている。この後直登の顔が近づいてきて……急に怖くなって突き飛ばしてしまったのだ。でも今なら、直登がこの時に抱えていた苦悩や焦燥感が理解できる。
今は怖いことなんて何もない。もし何か一つ怖いことがあるとすれば、それは未来が変わるその瞬間をこの目で見ることだけだ。
(今の私は、あの時とは違う)
海雪はゆっくりと目を閉じた。直登が息を呑むのがわかる。
時間がとても長く感じた。直登の腕の中にいながら、真っ暗闇の中に一人取り残されたような孤独感だ。
『振り返ってばかりじゃ前には進めない』
不意に、先ほどの北山の言葉が脳裏にじんじんと響き渡った。耳を塞ぎたかったが、腕は動かせないし塞いだところでどうにもならない。
『過去があるから、今の自分があるんだ』
その言葉に、打ちのめされた。
(そうだ──私は私なんだ)
悠一の笑顔が、まぶたの裏に浮かび上がって焼きついたように消えない。
面影を消すように目を開けると──海雪は直登の胸に手を当て、ゆっくりと身体を離した。
「……海雪?」
今まさにキスしようとしていた直登は、驚きと困惑が入り混じった複雑な表情でこちらを見ている。拒絶されたと思ったのか、あの時を思い出させる表情だ。
だが海雪は微笑を浮かべて、優しく彼を見つめていた。
「直登……大好きだよ」
そう呟くと、吹き抜ける風のように素早く、彼の頬に唇を寄せた。
直登は大きく目を見開いて、唇の跡を抑えるように頬に手を当てていた。その顔は茹で上がったように真っ赤で、まさか海雪のほうからキスされるとは夢にも思っていなかった様子だ。
海雪は一度息をつくと、寂しげに笑って見せた。
「ごめん直登……私は直登の知ってる私じゃないんだ」
「えっ」
「未来に帰らなきゃ……だからここでお別れだよ」
言ってることの意味がわからない──とでも言いたげな直登の顔。キスの驚きとはまた別の驚きで、海雪の顔を穴が開くほど見つめている。
その視線を避けるように、海雪は目を伏せた。
「七年間……いろんなものをあきらめて、いろんなことに流されて……いっぱい後悔したよ。今日という日をやり直せたらって、直登とずっとうまく続いてたらって何度も考えた」
何かうまくいかないことがあるたびに、その理由を今日という日になすりつけていた──こんなはずじゃなかった、と。
ずっと後ろ向きに生きてきた自分に、引け目すら感じていた。
「けど……過去があるから、今の自分がいるんだよね。後悔したことだってあきらめたことだって、きっと私が私であるために必要なものだったんだよ」
「海雪……何を言って……」
「神様は私に、やり直す機会じゃなくて、過去と決別する機会を与えてくれたんだ──だから今の自分を、目の前の幸せをもっと大事にしなくちゃね。小さな失敗がたくさんあったとしても、歳を取って人生を振り返ったときに『幸せだった』って思えるように……」
海雪は精一杯微笑んで見せた。もしかしたら泣き笑いみたいな変な顔になっていたかも知れない。
それでも直登をまっすぐに見つめて、わけのわからない告白に当惑しきる彼の顔を目にしっかりと焼き付けた。
「さよなら、直登」
海雪は一歩踏み出すと、静かに直登の脇を通り抜けた。教室を横切る足は次第に早くなり、戸口を出る頃には軽く走り出していた。
「海雪、待って!」
直登の声を背中に聞きながら、海雪は廊下を力いっぱい駆け抜けた。風よりも早く、追いすがる未練を断ち切るように。
階段を駆け下り、玄関を飛び出す。視界がぼやけて前がよく見えないが、校門のある方向に向かってとにかく走った。
零れ落ちる涙が、風にさらわれていく。涙をぬぐう時間さえも惜しいような気がして、ただひたすらに足を前に進める。立ち止まりたくなかった。何も考えたくなかった。
行く先に人影が見えたが、かまわずにその脇をすり抜けた。
「長岡!」
ひどく懐かしく感じる声が、海雪を引き止める。足を止め振り返ると、たった今脇をすり抜けたその人物──北山がこちらを向いて驚きの表情を見せていた。
「先生……」
「ど、どうした……その顔」
生徒が泣きながら走っていれば、驚いて引き止めたくもなるだろう。
だが海雪はその質問には答えなかった。代わりにとびきりの笑顔を浮かべて、軽く手を上げた。
「先生、ありがと!」
北山に送る言葉は、別れではなく感謝の言葉のほうがきっとふさわしい。
海雪はまた走り出した。後ろで北山が何か言っていたが、もう振り返らなかった。
一歩、また一歩と校門へ近づいていく。そして身体が門をくぐった瞬間──猛烈なめまいが襲ってきて、視界がぐにゃりと歪んだ。
思わず目を閉じると、一瞬の闇の中で世界がぐるぐると回っていた。過去から未来へ、世界が再構築される──その音を聞いたような気すらした。
しっかりと地に足が着いている。そのことを確認してゆっくりと目を開けると……
海雪は学校の前に立っていた。
手には日傘を持ち、服はノースリーブのワンピース。時間も夕暮れ時ではなく、太陽がその威厳を目いっぱい誇るお昼時。タイムスリップする前と全く同じ状況である。
つまりは、現代に戻ってきたのだ。
海雪は立ち尽くして泣いていた。
頬を伝い、零れ落ちる涙はアスファルトに滴り落ちて、跡も残さずすぐに蒸発する。
いったい何時から泣いていたのか──
あちらの時間では半日ほどでも、こちらの時間にしてはほんの一瞬の出来事。
もしかしたら、あれはタイムスリップなどではなく、この気が狂いそうな暑さが引き起こした白昼夢だったのかもしれない。
それでも、この瞳から流れ落ちる涙が、時を越えた直登との邂逅の証だと海雪は信じたかった。




