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七年ぶりに肌で感じる高校生活は、空気からして違うような気がした。
教室の開け放たれた窓から流れ込む風は爽やかで、多少暑くは感じるけれども心地よいくらいだ。市役所のガンガンに冷えたクーラーの風よりはずっといい。湿気を含んだ風に運ばれる夏の香りを胸いっぱいに吸い込むと、胸のスカーフが震えるように揺れた。
授業の内容はほとんど忘れてしまってただ聞き流しているだけだが、この教室で机の前に座り、シャープペンを握ってノートをとる──というただそれだけの行為がひどく新鮮に感じられる。職場でパソコンに向かい続ける毎日とは大違いだ。
休み時間ともなれば友達が集まり、他愛もない話に花を咲かせる。いずれも気心の知れた同い年の友達ばかり、職場のように先輩を気にして敬語を使うこともなければ、大口を開けて笑おうが気にすることはない。
少し離れたところには直登たち男子のグループがいて、そちらはそちらでくだらない話で盛り上がっているようだ。
直登と、互いの視線を気にしながら教室では距離を置いて接している──そんなくすぐったい関係に思わず忍び笑いがこぼれてしまう。
「海雪、何一人で笑ってんのよ」
「えっ、何でもないよ」
横にいた佐緒里につつかれて、慌てて頬を押さえる。
「高居くんといいことでもあったの?」
「何でもないってば」
海雪が直登と付き合っていることはクラス全員が知るところではあるが、学校の中で堂々と馴れ合えるほど海雪の神経は太くなかった──少なくとも七年前は。
集団だったら楽しく冗談だって言い合えたのに、一対一になると途端に周りの目を意識してしまって、視線すら合わせるのが難しい。
今だったら──もう少しうまく付き合えると思うんだけど。
佐緒里がまだ何か言いたそうにニヤニヤしていたので、海雪は話題を変えることにした。
「ね、夏休みどうするの?」
「何言ってんの、海雪。受験勉強に決まってるじゃん」
輪の中の一人、ぽっちゃりめで色白な千賀子が呆れたように答えた。
「塾で夏期講習三昧の夏だよ。海雪も行くんでしょ?」
そう言われれば確かに。
部活動を引退した高三の夏は、大学受験に向けた戦争の始まりの時期でもある。遊びにうつつを抜かしている場合ではないのだ。かく言う海雪も七年前は夏期講習に明け暮れ、受験勉強に没頭した夏だった。
「あたしなんかこの間の模試の結果悪くて、親にバイトやめろって言われちゃってさ」
そう愚痴るのは幸乃だ。ショートカットでボーイッシュな彼女はそういうわりにあっけらかんと笑っている。佐緒里も深刻そうな顔で口を開いた。
「うちだってすべり止め受けさせる余裕ないから、落ちたら就職ってプレッシャーすごいの。やんなっちゃうよねー」
受験への不安を口々に募らせる友人たち。だが海雪は彼女たちの行く末を知っている。
千賀子は国立大に合格し、今はメーカー勤務で華々しいキャリア生活を送っている。幸乃は結局大学受験をあきらめ、専門学校を卒業して美容師になった。佐緒里は無事現役合格をして今は銀行で窓口に座っている。彼女たちがこの頃に抱いていた夢と仔細は異なるかもしれないが、それでも彼女たちは七年後の今を精一杯生きている。
海雪にだって、夢はあった。
教師になること──教育学部に、直登と同じ大学に進学したい。
そう思って一生懸命に勉強してきた。けれど、訪れた秋に別れを告げられて、ショックで何も手につかなくなってしまった。当然のごとく受験に失敗し、滑り止めに受けていた近場の短大に行く羽目となってしまったわけだ。
何が何でも教師を目指すなら教職課程を取るという手もあったのだが、直登と別れてしまったことで将来のことなどどうでもよくなっていた。流されるままに怠惰な短大生活を送って、卒業後は親に勧められるままに市役所の臨時職員となり、そして本職員として採用され今に至っている。
七年後が、夢が叶わなかった未来が不幸だとは思わないけど──
(未来が変われば、夢も叶うのかな?)
失恋し、努力することをやめ、楽なほうに流れ流された結果今の自分がある。たくさんの後悔とあきらめを積み重ねた未来は「精一杯生きている」とは言い難いものかもしれない。
今日ここで未来を変えれば、一生懸命に努力して受験に失敗しなければ、もしかしたら後悔もあきらめもすることのない、素晴らしい人生に変わるかもしれないのだ。
(そうだよ──直登と別れずに済み、さらには夢も叶えた文句なしの未来じゃない)
未来を変えることに躊躇がないと言えば嘘になる。時折悠一の優しい笑顔が脳裏をよぎるのがその証拠だ。
だが七年前に戻ってきて、人生最大の後悔をやり直せるチャンスが目の前に迫っているのだ。何もしないわけにはいかない。
(今日この日に戻ってきたのには、ちゃんと意味があるんだよ……)
「とはいっても、やっぱり遊びたいよねー。高校最後の夏だし」
物思いに沈んでいた海雪は、幸乃のハスキーボイスで我に返った。
「海雪は直登くんとどっか行くの?」
「えっ? あ、いや、あの……」
佐緒里に急に話を振られて慌てふためく。
「まさか二人で泊りがけの旅行?」
「そそそんなわけないでしょ!」
「何ムキになってんのよ。もうキスぐらいしたんでしょ? そしたら次は……ねぇ」
海雪以外の三人が顔を見合わせ、意味深に笑う。七年前の当時はいったいどうやって答えていたのだろう。
離れた場所の直登にチラと視線をやったが、彼はこちらに背を向けて顔を見ることはできなかった。
海雪は頬を歪めて苦笑いのような表情を作るので精一杯だった。当時もきっとそうしていたと思うけれど、その苦笑に込められたニュアンスは、七年前とは全く正反対のものに違いない。