魔法が世界を壊した三百六十五日
「そこまでだ、アーベントの犬ども」
非常灯の赤い光に照らされた地下中枢に、クルーガー大佐の野太い声が響き渡った。
彼に付き従う数十名のシャトラ決死隊が、銃口を親衛隊と白衣の男に向ける。無防備になった王都を陥落させ、最深部まで制圧するのは容易かったのだろう。
白衣の男は悲鳴を上げて逃げ出し、親衛隊たちはあっけなく武器を捨てて降伏した。
大佐のブーツが、瓦礫を踏み越えて俺の方へと近づいてくる。
「来るなッ……!」
俺は血まみれのアイリスを庇い、落とした『鉄の盾』を拾おうと手を伸ばした。
大佐は俺の殺しに来たのだ。俺たちがシャトラから奪った命の代償を、俺と、俺の腕の中で死にかけているアイリスから取り立てるために。
だが。
大佐は俺の目の前で足を止めると、顎をしゃくって背後の部下たちに合図を送った。
前に進み出てきたのは、分厚い医療カバンを持った数人の『シャトラの従軍軍医』たちだった。
「……大佐、これは」
「勘違いするなよ、泥犬」
大佐はガスマスクをずらし、俺を見下ろして鼻を鳴らした。
「我々は、奪われた空気と水を取り戻しに来ただけだ。お前を殺すと言ったのも忘れてはいない。……だが、恩人を見殺しにするほど、我々の心まで干からびたわけではない」
大佐の言葉に、俺は目を見開いた。
軍医たちが素早く俺の横に膝をつき、アイリスの傷口に止血帯を当て、輸血パックを準備し始めたのだ。
「どけ。このままでは娘が死ぬぞ」
シャトラの軍医の言葉に、俺は弾かれたように場所を譲った。
「あいつは……魔法の自己再生が切れて、致命傷が開いてる! 麻酔も効くかどうか……!」
「我々の医療技術を舐めるな。魔法などに頼らなくとも、人間の命は人間の手で繋ぎ止めてみせる」
暗い地下室で、魔法を使わない、泥臭くも必死な『人間の手術』が始まった。
俺はただ、震える両手を握り合わせ、彼女の生を祈ることしかできなかった。
何時間経っただろうか。
血まみれになった軍医が額の汗を拭い、大きく息を吐いた。
「……バイタル安定。危機は脱しました、大佐」
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身から力が抜け、冷たい床に崩れ落ちた。
アイリスの胸は、もう異常な早さで脈打つことはない。ゆっくりと、穏やかな、人間としての確かな呼吸を繰り返していた。
「……ありがとう、大佐」
泥と血に塗れた顔を上げ、俺は掠れた声で礼を言った。
大佐は何も言わず、ただ包帯まみれの腕で自身のガスマスクと酸素ボンベを取り外した。
「……た、大佐! 外したら息が……!」
慌てる部下を制し、大佐は深く、深く息を吸い込んだ。
「ああ……空気が、美味い」
それは、彼らが何年もの間、俺たちに奪われ続けていた当たり前の奇跡。
メインコアが破壊され、空間の搾取が止まった今、世界は本来の姿を取り戻し始めていた。
「次に会う時は、お前の心臓をえぐり出すと言ったがな」
大佐は、俺の胸に微かに残る手術痕を見て、ニヤリと笑った。
「お前はもう、自ら悪魔の心臓をえぐり出したようだな。……さらばだ、誇り高き泥犬よ。二度と銃を交えないことを祈る」
シャトラの兵士たちは、踵を返して去っていった。
俺はアイリスの冷たくなった手を両手で包み込み、ボロボロと涙をこぼしながら、ただ静かに泣き続けた。
* * *
それから、数ヶ月が経った。
魔法が消え去ったアーベント国は、再び厳しい現実に直面していた。
奇跡の雨は止み、大地はまたひび割れ始めている。だが、俺たちの手で丁寧に耕し、泥水を撒いた畑には、不格好だが力強い『本物の緑』が芽吹き始めていた。
「おーい、レオン! 水汲み終わったぞ!」
丘の下から、カインの声が響く。
彼の顔にはもう魔法使いの影はない。肋骨の怪我は治りきっていないが、孤児院の子供たちと笑い合いながら、泥だらけになって働いている。
あの後、カインと俺が言葉を交わすことはほとんどなかった。だが、共に泥水をすすってきた兄弟に、言葉は必要なかった。
「レオン、お疲れ様」
背中からかけられた優しい声に、俺は振り返った。
そこには、少し痩せたけれど、かつての太陽のような笑顔を取り戻したアイリスが立っていた。彼女の胸にもう、呪いのチップはない。
「アイリス。まだ無理して動くなよ」
「平気だよ。レオンこそ、またそんな重たいもの背負って……」
アイリスが苦笑しながら指差したのは、俺の背中だった。
そこには、三十キロを超える分厚い『鋼鉄の盾』が背負われている。
戦争は休戦協定が結ばれたが、世界が完全に平和になったわけじゃない。いつまた、大切なものを奪い合う日が来るかはわからない。
だけど、俺はもう二度と、奇跡には頼らない。
重くて、痛くて、理不尽で。それでも、自分の足で立ち、自分の力で誰かを守り抜く。
それが、一人の少女を救うために世界を壊し、そしてもう一度世界を救った男の、生涯背負うべき「誇り」だからだ。
「さあ、帰ろう。みんなが待ってる」
「……ああ。帰ろうぜ、アイリス」
銃と大砲が支配する煤けた時代。
魔法という言葉が存在したのは、あとにも先にもあのこの一年だけだった。
俺たちの心臓には、もう奇跡はない。
だが、このクソ重たい鉄の盾がある限り、俺の歩みが止まることはない。
(了)




