魔王というイキモノ1
「やっぱりあっちに逸れて行ってるね……」
スーの背の上から振り返ると、後方にある灰色のモヤモヤが進行方向を向いてやや左、トラキアス山でいうと南側寄りに移動しながら頂上を目指している。夜明けにその動きに気付いてから、私達は休憩を取らずに頂上を目指していた。既に地上は随分と遠く、灰色にぼんやりと霞んでいる。
山肌から見上げると果ての無いように思えたトラキアス山も、段々と青空の見える割合が多くなっていた。さっぱりした天気は過ごしやすいがより肌寒さが増しているようにも感じる。高山病とかにならないのか心配だったけれど何ともなく、子ヤギも元気に羽ばたいては時折地面を蹴って跳んでいる。
私にとっては灰色に見えている黒い魔力は明らかに山頂、おそらく魔王を目指して移動している。しかしこの黒い魔力が魔王にとって安全なものなのかよく分かっていないし、いきなりアポなしでこんな魔力を連れて行っても良いものだろうか、という今更な心配もあり、私達はモヤモヤよりも先に山頂に辿り着いて訳を話そうと相談した。フィカルは以前に魔王と会話したらしいので、腰を低くして頼めばどうにかしてくれるか、どうにかする方法を教えてくれるかもしれない。のどかな環境に住む魔王なので、そんなイメージが出来上がりつつあった。
「もうそこがてっぺん? 魔王がいるとこ?」
ぐんぐんと登るスーから指差して尋ねると、フィカルはこくりと頷いた。色とりどりの草が生え、所々にみえる岩や土は黒っぽい色をしている。瞬く間に過ぎていくそれが途切れるとスーは一声鳴いてそのまま少し高度を上げ、それから空中でホバリングした。
「わぁ……すごい」
トラキアス山の頂上を見下ろすと、それまで続いていた山肌がほぼ真円状に途切れて浅くへこんだカルデラになっていた。カルデラの大きさはとても大きく、学校であれば敷地3つ分くらいは余裕で入りそうだった。
カルデラの内側の浅い部分を黒い土が剥き出しの部分が取り囲み、その中には紫色の草のようなものが一帯に生えている。草原はカルデラの底を緩やかに丘のように持ち上げた形になっていて、追いかけてきた子ヤギが最も高いカルデラの縁からぴょーんとジャンプしてその草原に降り立ったのでさほど高さはないようだった。一面同じ色の草原はカルデラに広がり、一箇所だけが盛り上がって山頂からはみ出そうとしているような形である。
ぴょんぴょん楽しそうに飛び回る子ヤギの周囲を見回しても、魔王らしき人物も住居らしい建物もない。ラベンダーに似た色の草原だけが山頂を埋め尽くしていた。
「フィカル、魔王はどこにいるの?」
「そこにいる」
「えっどこ?」
フィカルが指しているのは、私も見下ろしている紫の草原である。もしかして魔王ってすごく小さいのだろうかと思って目を凝らしてみてもわからない。子ヤギがのんびり遊んでいるだけである。
フィカルは手綱を引いてスーの高度を上げ、それから左側へと向かわせた。目指す先の方をじっと見つめていて、唐突に気が付く。
「あれ?! あそこにあるの、頭?」
紫色の草原が盛り上がってカルデラ縁まで届いている部分を全体的に眺めると、不思議な形をしているのに気が付いたのだ。途中に大きく斜め上に突き出した2つの柱のようなもの。立体的に盛り上がった輪郭は、動物の顔のように見える。
「えっ えぇ〜? あれ、生き物なの? もしかして、あれが魔王?」
混乱しながらの問いかけにはこっくりと頷きが返ってくる。
カルデラの底を埋め尽くしていた草原は草原ではなく、非常に巨大な生き物の背中だったのだ。紫色をしたその生き物は顔だけを山から覗くようにして出している。その生き物の頭まで続いている紫色は、顔のあたりで色をやや濃くしていた。顔の方へと回り込むとその巨大さに圧倒される。大きさに驚いたアズマオオリュウがとても小さな生き物に感じるほどだった。
ふわふわとした毛、面長の顔。伸びた鼻先にくっついている小さな口。
「魔王って……魔王って……」
すごくすごく大きな羊だった。
スーはゆっくりと高度を落として、巨大な顔へと近付く。魔王、というか巨大な羊の鼻筋はスーが降り立っても転げ回っても大丈夫そうなほど大きかった。スーが魔王の鼻先の方へと遠慮なく着地すると、閉じられていた瞼がゆっくりと開いて明るい黄色の目が鼻筋の両側からこちらを見ていた。私の身長ほどもある大きな瞳の中に横長の瞳孔が浮いている。
「おお、これは、これは。同じ人間に二度も会えるとはなぁ」
もわんもわんと頭の中で音が反響するような奇妙な感じがして、低い声が聞こえた。男の人のような声音だけれど、年寄りにも若者にも聞こえる。音がどこから聞こえてくるのかわからないような不思議な感覚を除けば、巨大な生き物にしては随分ハキハキと言葉を喋っていた。
「嬉しいなぁ。フィカルと言ったか。竜もいるなぁ。そこの娘は見たことない者だな」
「あっ、初めまして、スミレと申しますけれども……」
「スミレか、そうかそうか、似た名の若者が前にいたなぁ。あれは男だったか。人間の娘を見るのはいつぶりだろうなぁ」
黄色い目を細めて魔王が鼻筋を上げると、足元が揺れたスーが怒ってギャウッと鳴いた。魔王はすまんすまんと謝ってゆっくりと顎を山に乗せ直す。魔王が温厚なのか、スーが怖いもの知らずなのかよくわからないけれど、とりあえず反抗するものを粛清したりする魔王ではないようだった。
「この前は世話になったなぁ。助かった。まだ毛は伸びていないが、遊びに来たのか?」
「いえ、ちょっと困っていて、もし良かったら助けて欲しいんですけど……」
「よしよし、僕もずっとヒマだからなぁ、出来ることなら力を貸そう」
魔王の一人称、僕だった。
心の中を魔王についての情報が号外のように飛び交いつつ、私は黒い魔力についての説明をした。異世界人の絶望を糧として作り出されたこと、大きくて星石を壊す危険のあるものだということ、異世界人である私達に寄ってくる性質があること、魔王の魔力と似ていることなど。
魔王は顔を動かさずに相槌を打って聞いてから、任せろと請け負ってくれた。
「何かが近寄ってきているとは思っていたが、あれがそうかぁ。よしよし、暫く僕の背中で休んでたらいい」
ゴミ出しを頼まれた時のような気楽な請け負い方をした魔王の鼻先からスーが飛び立つ。灰色のモヤモヤが直ぐ側まで近寄って来ていた。魔王の背中の方を目指そうとするフィカルを止めて、空中からどうするのかを見守る。
モヤモヤは魔王の鼻先へと吸い寄せられるかのように近寄っていっていた。速くはない速度でそこへと到達すると、魔王がのんびりと口を開く。そして牧草か何かのように魔力をモグモグと食べ始めた。




