北西にそびえる山2
今まで辿ってきた大地が航空写真のように見えるくらいになると、空はすっかり澄み渡っていた。たまに天気雨が降るものの、瑞々しい風がそれを長引かせることはない。気温はやや寒いものの耐えられないほどではなかった。
スーに乗って頂上を見上げてみても、魔王が住んでいそうな気配などはまるでない。そう感じて気が付いたけれども、私は魔王がゲームに出てくるような悪い人物で、魔獣を従えて侵略とか企み、人間がとても生きていけないような環境に大きな城を建てているようなイメージをしていたのだ。しかしこの山は思い描いていたようなものではなく、むしろ人の良い山男などが手ずからログハウスを作っていそうな雰囲気を醸し出している。ここへ来るまでの道のりがとても大変だろうけれど、ここであれば人間も暮らせるのではないかと思うほど安全なのだ。
魔王とは、そもそも何なのだろう。
スーが捕らえたもこもこした毛皮の鹿を夕食にしながらそんなことを考えた。周囲の環境から考えると、この山の平和っぷりはむしろ異常である。もしかしたら、この山の平和には魔王が関わっているのではないだろうか。だとしたら、魔王は悪いやつではないのかもしれない。
「スミレ、器」
フィカルに指摘されて手元を見ると、鹿スープが入った器を子ヤギが覗き込んでいた。分け前として上げた前足の部分は既に食べてしまったらしい。柔らかく煮えた鹿肉を地面に落として子ヤギにあげると、フィカルの器から私のへ新たに鹿肉が追加される。スーは炎を吐きながら肉を食べて鹿の炙り焼きを楽しんでいた。
とうとう撫でさせてくれるまでになった子ヤギはそれで満足したらしく、白い羽を畳んで寄り添ってウトウトし始めた。お肉も平らげているところを見ると普通のヤギとは違うのだろうけれど、慣れてみればとても人懐っこく可愛いヤギである。群れから離れてしまったのは本人の意志なのかわからないけれど、もしついてくるのであればトルテアで一緒に暮らしてもいいかと思う。オレンジがかった黄色の目に横長の瞳孔にも愛着が湧いてきた。
「モヤモヤがまだ近付いて来ないから、も少し休憩しよっか」
頷いたフィカルが子ヤギと反対側にぴったりとくっついて、団子になっているのを見たスーが慌ててやってきて囲うように寄り添ってくる。いきなり増えた子ヤギをスーは最初邪険にしていたものの、その人懐っこさに段々とほだされているようだった。紅い鱗に凭れ掛かると温かく心地よい。頂上の方へと足を伸ばしてリラックスすると、足の血流が上って心地よい。伸ばした太腿の上に子ヤギが顎を乗せて目を瞑っていた。私もフィカルの肩に頭を預けると、フィカルの頭もこちらへと凭れ掛かる重さを感じる。
ここへ来てフィカルは落ち着きを取り戻していた。
一つは、キルリスさんから魔術師ルタルカの末路を聞いたこと、そして竜の牙に所属していた魔術師の処分も教えてもらったこともあるだろう。魔術師ルタルカほどではないにせよ、異世界人を誘拐して禁術を用いたということは重罪である。竜の牙にいた魔術師で生き残っている人間は、その全てが身柄を拘束され幽閉されるらしい。
また立て続けの事件によって、魔術師会は禁術についての罰則をさらに厳しくすると決まったようだった。魔力を多く持ちながら魔術師会への登録をしていない人間についても取締を厳しくするため、キルリスさんは多忙の中差し入れをしてくれていたのである。
平和を好む多くの魔術師がそういった動きに賛同しているため、竜の牙のような思想の組織は今後生まれにくくなるだろうとのこと。
それだけでもこれまでのピリピリするような警戒心は宥められたようだったけれど、街のある場所を抜けてからは更に前のように気を緩めてくれることも多くなった。
ここには魔術師どころか、普通の人間もいない。魔獣は自分の力で退治することが出来るので、フィカルにとっては街中よりもずっと安全に感じるのかもしれない。魔獣の出ないトラキアス山に入ってからはなおさらだった。
今のフィカルは私が誰かに連れ去られたりするのではないかという気持ちからではなく、ただひっついていたいからという理由でひっついているのだ。
彫刻のように整った無表情は変わらないけれど、暫く見ていなかったのんびりした雰囲気に戻っている。紺色の瞳もおっとりとした光を宿していて、虹色に輝く銀の髪を撫でると細くなる。悪夢の中で見た虚ろな顔よりもよほど良かった。ぐりぐりと撫で回していると、ぎゅーっと抱きついてくる。自分より体も大きくて力も強いフィカルが甘えてくる姿はなんだか可愛いのである。
「あっ」
膝立ちになってフィカルの頭を抱えていると、背後のモヤモヤの違和感に気が付いた。
「フィカル、モヤモヤが降りて来ない……っていうか、こっちに近付いてないみたい」
これまでスーに乗っている時は山肌から15メートルほどの高さを飛び、休憩するとそれをゆっくりと追ってきていたモヤモヤが近付くに連れて高度を下げてくるのでまた飛び立つ、ということを繰り返していた。モヤモヤの高さが山の低木くらいにまで下がってくるのを目安に私達は出発するようにしていたのだけれど、今後ろに見えているモヤモヤはいつも下がってくるくらいの距離にいるのに高度は下がっていない。じわじわと進んでいるそれを眺めていると、私やフィカルを追っているというよりは、頂上を目指しているのではないかと思えるような動き方だった。
「ほら見て、このままここにいたら抜かしてあっちに行っちゃいそう」
寝過ごしたりした時にモヤモヤの中に入るという心配はなくなりそうだけれど、モヤモヤに先を行かれて何かあっては大変である。
私達は火の後始末をして再びスーに乗り込み、より注意深くモヤモヤの行先を観察しながら、まだまだ高いトラキアス山を上っていくことになった。子ヤギの体力にも注意しながらなるべく休憩を少なくして山頂を目指す。
山肌が途切れて頂上へ辿り着いたのは、翌々日の朝のことだった。




