天啓
さて、授業も終わり、レイは学内地図を片手に掲示板の前に立っていた。
壁には、七つの掲示板が横一列に並んでいる。それぞれの上部にはランクを示す文字が掲げられており、FからSまで、ランクごとに受けられる任務が分けられているようだった。
レイはまず、自分のランクであるFの掲示板に目を向ける。
そこには、大小様々な依頼書が所狭しと貼り付けられていた。
薬草の採取。資材の運搬。野外活動に必要な物資の調達。
依頼の内容は多岐にわたるが、少なくともレイが想像していたような魔物討伐の依頼は見当たらない。
いや、正確には、戦闘に関係する依頼がまったくないわけではない。
薬草は負傷者の治療に使われるだろうし、資材も武器や防具の製造に必要なのだろう。間接的には、どれも戦いに関係している。
ただ、どうにも地味だった。
異世界の学校。勇者を育成するための施設。
そんな説明を聞かされれば、もっとこう、魔物を倒して経験値を稼ぐような任務を想像するではないか。
薬草を集めてこいと言われても、正直なところ、冒険というより遠足である。
………いや、遠足に失礼か。
レイは依頼書を一枚ずつ眺めていく。
どの依頼書にも、達成した際の報酬が記載されていた。金銭。そして、ランクポイント。
どうやら、このポイントを稼ぐことで順位が上がっていくらしい。
同じランクの中ではポイントの総量によって順位が決まり、一定の条件を満たせば上のランクへ昇格できる。おそらく、そういう仕組みなのだろう。
……………問題は、そのポイントだった。
レイは隣のEランクの掲示板へ視線を移す。
同じような採取依頼を見つけ、報酬を確認する。
そして、もう一度Fランクの依頼書を見た。
Fランクの依頼で得られるポイントは、同じような内容のEランクの依頼と比べて、およそ半分しかなかった。
「……」
レイはしばらく無言で依頼書を見つめた。
仮に同じだけ働いたとしても、得られるポイントは半分。
ならば、Eランクの生徒と同じ順位に追いつこうと思えば、単純計算で二倍の仕事をこなさなければならない。
しかも、これはあくまで同じような依頼を受けた場合の話だ。
上位の生徒がより効率よくポイントを稼げば、その差はさらに広がる。
これでは、いくら真面目に任務をこなしたところで、追いつくのは難しいだろう。
そもそも、Fランクは最低限の生活を保障されているだけで、待遇も悪いと聞いた。
上へ行くための手段は用意されている。
だが、最初から不利な条件を背負わされている。
これでは、Fランクの生徒が自主退学を勧められるのも納得だった。
「……やっぱ、決闘かぁ」
誰にも聞こえない声で、レイは呟いた。
上位の相手に勝てば、ランクや順位を上げられる。
任務を地道にこなすより、そちらの方が手っ取り早い。
もちろん、勝てればの話だが。
レイは自分の手を見下ろした。
戦闘経験なし。魔法の才能なし。召喚できるのはスライム一匹。
おまけに、身体能力だって特別優れているわけではない。
嘘、レイの戦力弱すぎ?
我ながら、よくもまあここまで何も持たずに異世界へ来たものだ、と自嘲気味に笑う。
しかし、だからといって何もしなければ、いつまで経ってもFランクのままである。
「……できるだけ弱いやつを選ぶか」
小さく呟き、レイは頷いた。
言い方は悪いが、仕方がない。正々堂々と強敵に挑むなど、今の自分には無謀でしかない。まずは勝てる相手を探し、少しずつ経験を積んでいく。
それが現実的な方法だろう。
……うん。
我ながら、実に堅実な判断である。
そんなことを考えながら、レイは足元へ視線を落とした。
そういえば、先ほど召喚したスライムの姿が見当たらない。
授業中は一緒にいたはずなのだが、いつの間にか消えてしまったようだ。
時間が経つと自動的に帰ってしまうのか。それとも、召喚を維持するために何か条件があるのか。
気になることは多いが、今は調べようがない。
そもそも、あのスライムをどうやって戦闘に使うのかすら分かっていないのだ。
決闘をするにしても、まずは自分自身を鍛える必要がある。
身体能力を上げ、スライムの扱いを覚え、最低限まともに戦えるようになる。話はそれからだ。
そう結論づけ、レイは掲示板から離れようとした。
――そのときだった。
「おい! 道を開けろ!」
「何だ、何だ!?」
「あ、あの方は……!」
「きゃー!」
突然、周囲が騒がしくなった。
掲示板を見ていた生徒たちが一斉に振り返り、何かを避けるように左右へ移動していく。
何事だ?と、レイは眉をひそめた。
誰かが喧嘩でも始めたのだろうか。それとも、教師が来たのか。
気になって、周囲の生徒たちの隙間から背伸びをする。
すると、人垣の向こうに、一人の少女が見えた。
まるで、モーセが海を割ったかのようだった。大勢の生徒たちが左右へ分かれ、その中央にできた道を、少女は悠然と歩いてくる。
黒く艶やかな髪に整った顔立ち。そして、宝石を思わせる美しい碧眼。
その姿には、他の生徒たちとは明らかに異なる気品があった。
ただ歩いているだけなのに、周囲の人間が自然と道を譲っている。
まるで、この場所そのものが彼女のために用意された舞台であるかのように。
「Sランク、序列二位のクリス・フロズムだ!」
誰かが叫んだ。
その声を聞いた少女――クリスは、ふと足を止めた。
そして、騒がしい群衆へと視線を向ける。
「……」
たったそれだけだった。
それだけで、周囲の空気が変わった。
最初に感じたのは、寒さだった。ほんの数秒前まで、それほど気にならなかったはずの気温が、急激に下がっていく。
肌を撫でる空気が冷たい。レイは思わず腕をさすった。吐き出した息が、白く染まる。
「……え?」
ここ、屋内だっただろうか。
いや、少なくとも今いる場所は廊下に面した広い空間で、完全な屋外ではないにしても、こんな急激に気温が下がる理由はない。
レイが状況を理解するより先に、クリスが口を開いた。
「……うるさいわね」
その瞬間、彼女の頭上に、無数の氷の槍が出現した。
「は?」
レイが間の抜けた声を漏らす。
槍は一本や二本ではない。
十本、二十本……いや、それ以上。
透き通った氷の刃が空中に並び、先端を群衆へと向けている。
そして、次の瞬間には飛んでいた。
風を切り、氷の槍が最前列の生徒たちの足元へ突き刺さる。
ガガガガガッ!
鋭い音が連続して響いた。
床に突き立った槍の周囲には、白い霜が広がっていく。
「ひっ……!」
「うわああっ!」
生徒たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
クリスは、そんな彼らを見ても表情一つ変えない。
「邪魔よ。消えなさい」
ただ、それだけ。
それだけで、あれほど騒がしかった人だかりが、あっという間に消え去った。
レイは呆然と、その場に立ち尽くしていた。
魔法で作られた氷の槍。それ自体は、すでにこの世界で目にしている。
試験で魔法を使っていた一人が氷で剣を作って戦っていた。
だが、規模が違う。
あれだけの数を一瞬で生み出し、狙った場所へ正確に飛ばす。
しかも、槍は床に深々と突き刺さっている。氷だからといって、脆いわけではないらしい。
あれが人間に向けられたら?
考えたくもない。
レイは自分の身体を見下ろした。この身体で、あれを避けられるだろうか。
断言しよう。不可能だ。
そもそも、避ける以前に、どこへ逃げればいいのかすら分からない。
仮にスライムを使ったとしても、あの数の槍をどうにかできるとは思えなかった。
勝てるビジョンが、まったく見当たらない。
「……怖っ」
思わず本音が漏れた。
あの女は、俺たちを有象無象にしか思っていない。
レイがそんな感想を抱いている間にも、クリスは何事もなかったかのように歩き始めた。
向かった先は、掲示板だった。
彼女はSランク用の掲示板の前で足を止め、貼られた依頼書に目を通す。そして、一枚の依頼書を手に取った。
その時、レイに悪魔のような天啓が舞い降りた。それが通れば、二位であろうと勝つのは夢ではない。
しかしらレイの理性が、必死になって警告する。流石にそれはダメだ、と。
だが、それと同時に、別の考えも浮かんでいた。
上位の相手に勝てば、ランクや順位を上げられる。それは、アイザックが説明していたことだ。
ならば、序列二位に勝った場合はどうなる?
どれほどのポイントが手に入るのだろう。
――だからこそ、価値があるのではないか。
勝てば大きい。負けても、何か得られるかもしれない。
それに、決闘なのだから、相手だって本気で殺しに来るわけではない……はずだ。
……たぶん。
いや、さっきの槍を見る限り、かなり怪しいぞ?
それでも、とレイは、ゆっくりと口角を歪に上げた。
我ながら、ろくでもない顔をしている自覚はあった。
そして、そのままクリスの前へと歩み出る。
「……?」
クリスが顔を上げた。
目の前に立つ少年を見て、わずかに眉をひそめる。
レイは喉を鳴らした。
怖い。めちゃくちゃ怖い。今すぐ逃げ出したい。
だが、ここで引き下がれば、いつまでもFランクのままだ。それに、せっかく思いついたのだ。
試すだけなら、試してみてもいいではないか。
……本当に?落ち着け。やったら戻れなくなる。
自分の中の理性が、最後の抵抗を試みる。
レイはそれを無視した。
「……さっきの話、聞こえなかったの?」
クリスの声は冷たかった。
「邪魔よ」
直後、氷の槍が一本、レイの足元に突き刺さった。
「ひっ……!」
肩が跳ねる。心臓が嫌な音を立てた。
あと数センチずれていたら、足に刺さっていたのではないだろうか。
いや、そもそも、何の躊躇もなく人の足元に槍を飛ばすな。怖いわ。
だが、レイはどうにか笑みを保った。
頬が引きつっている気がするが、今は気にしない。
「あ、あの……クリスさん」
「何?」
「俺と、決闘してくれませんか?」
「――は?」
クリスの思考が、一瞬停止した。
フリーズ。そして、再起動。
目の前の少年が何を言ったのか、言葉の意味そのものは理解できる。
決闘を申し込まれた。それだけの話だ。
だが、どうして?なぜ、この少年は自分に決闘を申し込んでいるのだろう。
クリス・フロズム。Sランク序列二位。バッハライヘン帝国の四大貴族、その一角を担うフロズム家の長姉。氷の女王と呼ばれる、氷魔法の使い手。
彼女に挑んできた者は、これまでにも数え切れないほどいた。そして、そのほとんどを氷漬けにして、返り討ちにしてきた。
相手がどれほど自信を持っていようと、結果は変わらない。
実力差があるのなら、ただそれを突きつけるだけだ。
だからこそ、クリスは弱者に興味がなかった。自分より下の人間など、いくらでもいる。
いちいち相手をしていては、時間がいくらあっても足りない。
この学校では、弱い者が悪い。少なくとも、クリスはそう考えていた。
そして、目の前の少年についても知っている。
スライムを召喚したFランクの生徒。その話は、Sランクの教室にまで届いていた。
もちろん、話題になっている理由は、彼の才能を称賛するためではない。嘲笑するためだ。
スライムしか召喚できなかった少年。最底辺のランクを与えられた少年。この学校で生き残れるとは思えない少年。
クリスにとっても、特別な存在ではなかった。
哀れだとも思わない。弱いのなら、強くなればいい。
それができないのなら、相応の扱いを受けるだけだ。
――それなのに。
「……決闘?」
クリスは、目の前の少年を見つめた。
「Fランクの貴方が、Sランクの私と?」
レイは小さく頷いた。
その様子を見て、クリスは目を細める。
身の程を弁えていない。そうとしか思えなかった。
ランク以前の問題だ。実力には、天と地ほどの差がある。スライムでどう戦うつもりなのだろう。
仮にスライムを使わないとしても、Fランクという評価を受けている以上、身体能力も大したことはないはずだ。
それで、どうやって自分の攻撃を避ける?どうやって氷の槍を防ぐ?どうやって勝つ?
まったく理解できなかった。
だが、レイの目を見れば分かる。冗談で言っているわけではない。本気なのだ。
本気で、自分に勝つつもりなのだ。
クリスの口元が、わずかに歪んだ。
「……いいわ。やってあげる」
ならば、身の程知らずの少年に、現実を教えてやろう。
自分と相手の実力差を、嫌というほど理解させてやろう。
そして何より。この少年が、いったいどんな手段で勝とうとしているのか、少しだけ、興味が湧いたのだ。
クリスは手に取っていた依頼書を、再び掲示板へと貼り直した。
それから、レイへと視線を戻す。
その顔には、先ほどまでとは違う笑みが浮かんでいた。
「せいぜい凍死しないように気をつけることね」




