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第7話「頭を下げるべき順番を、間違えました」


ダミアン子爵一行が、辺境伯領に到着したのは、

私がジーク様と婚約を交わしてから、十日ほど経った頃のことだった。


その日、辺境の空は珍しく晴れていた。

研究所の窓から、雪解けの気配のある屋根瓦を眺めながら、

私は淡々と、いつもの朝の調合を続けていた。


――外が、少し騒がしくなった。


エルナが窓の外を覗き込み、「うへえ」と嫌そうな顔をした。


「レティ。王都から、お客だ。派手な馬車三台、

露骨に貴族っぽい紋章。……多分、あんたに用だよ」


私は乳鉢を置き、白衣の襟を整えた。

心臓は、驚くほど、静かだった。


              * * *


研究所の応接室に通されたのは、四十半ばの、

恰幅の良い貴族の男だった。仕立ての良い旅装をまとい、

薄い笑みを浮かべている。


「初めまして、レティシア嬢。私はダミアン・ローゼンハイン。

フェリクスの叔父にあたる者です」


「――ご遠方から、ご苦労さまです」


私は最低限の礼をして、彼の向かい側に腰掛けた。

茶を出す気は、なかった。

彼が話しやすいように、環境を整える理由も、なかった。


ダミアン子爵は、私の冷たい対応に眉ひとつ動かさなかった。

ずっと、この手の交渉で、こういう「はぐらかし」を潜ってきた男の顔だ。


「単刀直入に申し上げましょう。

ローゼンハイン家は今、危機にあります。

当主夫妻、末娘、そしてフェリクス――四人が同時に高熱で寝込み、

王都の医者は皆、匙を投げた」


「そうですか」


「あなたの薬でしか、彼らは救えません。

私は、伯爵家の代理として頭を下げに参りました。

王都へお戻りください、レティシア嬢」


彼は、そこで初めて頭を下げた。

けれど、それは、あくまで「儀礼としての頭下げ」だった。

本気で頭を下げる人間の、あの、地面に触れそうな深さが、なかった。


私は、微笑んだ。


「ダミアン様」


「はい」


「私、宮廷薬師の職を、既に辞しております。

現在は、ヴァルトハイム辺境伯領の薬師です。

――どのような契約に基づいて、私に王都行きを命じておられますか?」


ダミアン子爵の眉が、初めて、微かに動いた。


「契約? ……レティシア嬢、あなたは以前フェリクスと婚約していた。

婚約者として、伯爵家に対する道義的な責任が――」


「その婚約は、フェリクス様ご本人が、公衆の面前で破棄されました。

私、その場に居合わせた三百名の貴族の記憶が、証人です」


私は、机の上で、指を組んだ。


「そして――婚約破棄と同時に、私は伯爵家との

一切の関係を清算いたしました。

ローゼンハイン家に対する私の道義的責任は、

破棄と同時に、消滅しております。王国婚姻法第七条です」


ダミアン子爵の顔から、薄い笑みが、少しずつ剥がれた。


              * * *


その時、応接室の扉が、静かに開いた。


「――失礼する」


低い声。ジーク様だった。

甲冑ではなく、公式の場でのみ着る、黒地に銀の刺繍の入った

辺境伯家の礼装をまとっている。


彼は私の隣まで歩いてきて、ゆっくりと、椅子に腰掛けた。

そして、ダミアン子爵に静かに礼をした。


「ヴァルトハイム辺境伯家次男、ジークハルト。

レティシア嬢は、十日前、私と正式に婚約を交わしました」


ダミアン子爵の目が、大きく、見開かれた。


「……こ、婚約? そんな話、聞いていない――」


「十日前です。書類は既に、王家の公証官事務所に提出済み。

受理は昨日確認しました」


ジーク様は、懐から書類の写しを取り出し、机の上に置いた。

王家の公証印が、確かに押されていた。


「したがって、ダミアン殿。

レティシアはもはや、ローゼンハイン伯爵家の関係者ではありません。

彼女に対する『情に訴える』交渉も、

『道義的責任』を持ち出す交渉も、

全て、根拠を欠きます」


              * * *


ダミアン子爵は、しばらく、絶句していた。


彼はきっと、こう予測していたはずだ。

「地味で気の弱い薬師の娘は、情に訴えれば折れる」と。

彼は、圧力と、罪悪感と、婚約再締結という餌を並べれば、

私が涙目で頷くと思って、はるばる辺境まで来た。


――間違いだった。

私は、もう、涙目で頷く女ではなかった。

そして私の隣には、正しく頭を下げるべき順番を知っている、

本物の紳士が、座っていた。


ダミアン子爵は、ややあって、絞り出すように言った。


「……フェリクスは、あなたに、

『愛していた』と、譫言で繰り返しています」


「そうですか」


「本人が、それだけ後悔しているのです。

一度だけでも、お会いに――」


「ダミアン様」


私は、彼の言葉を静かに遮った。


「私、フェリクス様の譫言に、責任を負う立場にありません。

その言葉は、彼が、私に直接、婚約破棄の前夜に告げるべきものでした。

今、私に届けるべき言葉ではありません」


そして、私は、静かに立ち上がった。


「今日の面会は、ここまでといたします。

――お引き取りください」


              * * *


ダミアン子爵は、それでも、しつこかった。


「レティシア嬢、あなたの父上のことも考えてください。

男爵家として、王都でこれからも生きていくのなら、

伯爵家との関係を、こう乱暴に切るのは――」


「父の家のことは、既に父と、ヴァルトハイム辺境伯家の間で、

話がついております」


ジーク様が、静かに割り込んだ。


「レティシア嬢の父君、エルフォード男爵とは、

私の父、辺境伯本人が、婚約成立以前から書簡を交わしておりました。

娘御が辺境に流れてきた翌週から、父は密かに男爵に書状を送り、

男爵家の後見を辺境伯家が引き受ける旨、既に合意済みです。

昨日、正式な後見契約書の写しも受領いたしました。

――あなた方伯爵家の圧力が、届く場所には、もう、いません」


――そこまで。

そこまで、ジーク様と辺境伯家は、動いてくれていたのか。

私は、隣を見て、少しだけ目を見開いた。

彼は、私を見ずに、ダミアン子爵をまっすぐに見ていた。


その横顔が、あまりにも、頼もしくて。

私は、こらえきれずに、机の下で、そっと彼の手に触れた。

ジーク様の指が、私の指を、優しく握り返した。


              * * *


ダミアン子爵一行は、その日の夕方、辺境を発った。

土産も、成果も、なにひとつ持たずに。


見送りに立った私に、彼は最後に、

なりふり構わぬ形で、こう言い残した。


「――このままでは、フェリクスは、死にますよ」


私は、答えなかった。


彼が四人の家族を心配しているのは、多分、本当だ。

けれど、彼の口調のどこにも、

「私」というひとりの人間への謝罪は、なかった。


だから、私は、答える必要を、感じなかった。


              * * *


その夜。

私はジーク様と、初めて二人で夕食を取った。

辺境伯城の、私室の小さな暖炉のそば。

彼が「派手な場所は苦手だから」と選んでくれた、静かな時間。


「――決めた」


食後、暖炉の炎を見つめながら、私は言った。


「王都の宮廷医学会議に、私、行きます」


ジーク様が、静かに顔を上げた。


「ローゼンハイン家の呪いのこと、聖女の浄化のこと、

全部、私が公式の場で、証言します。

このまま向こうが情に訴えて動き続けるのを止めるには、

『事実』を、公に、置いてしまうのが一番です」


私は、暖炉の炎に、五年間の作り笑いを焼べる気持ちで、そう言った。


ジーク様は、しばらく黙って、それから頷いた。


「――付き添う。あんたを、一人で、あの城には行かせない」


「はい」


「あんたが立つ檀上の、一番よく見える席に、俺は座る。

いいな?」


「――はい」


私は、初めて、自分から、彼の肩に、そっと頭を預けた。


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