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第6話「私の薬は、私が渡す相手を選ぶ」


辺境に来て、二週間が過ぎた。


私の生活は、王都にいた頃とはまるで違っていた。

朝は六時に起きる。三時ではなく、六時に。

朝食のスープを、誰かの毒見のためではなく、自分の空腹のために飲む。

研究所で薬を作り、村を訪ね、夜には自分のベッドで眠る。

――ただそれだけの日々が、こんなにも尊いことだと、

私は五年もの間、忘れていた。


              * * *


その日、私は研究所の奥の作業室にこもっていた。


机の上には、辺境で採取した数十種類の薬草の見本。

壁には私が書き起こした、新しい処方式が貼られている。

そして、中央の乳鉢の中で、うすい銀色に光る粉末が、

静かに完成しつつあった。


――魔物毒の、完全解毒薬。


これまでの解毒薬は、症状を「遅らせる」ものでしかなかった。

毒を体外に完全に排出する処方は、この国のどの医学書にも載っていない。

けれど、私は霜咲きの花の生の花弁と、辺境の「銀苔」を組み合わせれば、

毒そのものを分解できると、直感していた。


そして今朝、最後の実験が成功した。


私は乳鉢の中の粉末を、そっと薬包紙に包んだ。

指先が、微かに震えていた。

これは――辺境の未来を、根本から変える薬だ。


              * * *


作業室の扉が、コツン、と鳴った。


「入るぞ」


低い声。ジーク様だった。

最近は、私が作業に集中していると、彼はノックだけして

静かに入ってくる。邪魔をしない距離感が、いつも心地よかった。


彼は机の上の粉末を見て、目を細めた。


「――できたのか」


「はい。完全解毒薬です。魔物毒に、根本から効きます」


一瞬、ジーク様が息を止めた。

それから、私を見た。

何かを、飲み込むような、深い目で。


「……レティシア嬢」


「はい」


「あんたは、この土地を救った。数字ではなく、命の数で言うぞ。

これから先、俺の代で失われるはずだった辺境の人間の命を、

あんたは、今日、一人残らず救ったんだ」


その言葉を、彼は少しも大げさに言わなかった。

静かに、けれど、はっきりと。


――私は、自分の指先が冷たくなるのを感じた。

昔なら、こういう時、私は俯いて「いいえ」と否定していた。

「私なんて」と、身を縮めて笑って、話題を変えていた。


でも、今日は。


「――ありがとうございます」


私は、まっすぐに、その言葉を受け取った。


              * * *


その日の午後、辺境伯領は静かなお祭りになった。


村々に完全解毒薬の見本が配られ、

負傷して寝込んでいた騎士たちが、次々と現場に戻ってきた。

街の広場では、酒場のおやじが樽を出し、

子供たちが「薬師さま、薬師さま」と私を追いかけた。


エルナは私の背中を強く叩いて、目を潤ませた。

「あんた、辺境の英雄になっちまったよ、レティ」

「……英雄なんて。私はただ、薬を作っただけです」

「その『ただ』が、この土地の意味を変えるんだ。分かるかい?」


分かる、と、初めて素直に、私は思えた。


              * * *


夕暮れ、研究所の一室に、アルストリア王家の紋章が押された使者が訪れた。

彼は恭しく一礼し、王家の印璽入りの書簡を差し出した。


『宮廷薬師局よりの召還命令。

レティシア・エルフォード殿。

貴殿を宮廷薬師の職に、即日復帰させる。

併せて、ローゼンハイン伯爵家との婚約再締結に関する

王家立会の場を、二週間以内に王都にて執り行う。

直ちに、王都へ帰還されたし』


――婚約、再締結。


読み終えて、私は、しばらく笑わなかった。

腹も立たなかった。呆れも、悲しみも、感じなかった。

ただ、その紙が、恐ろしく軽く感じられた。


私は書簡を、静かに机の上に置いた。


「――使者殿」


そばに控えていたエルナと、ジーク様が、同時に私を見た。

私は、書簡に指を添えたまま、穏やかに言った。


「王家の召還命令、確かに拝見しました。

ですが、私は既に、宮廷薬師の職を辞しております。

現在は、ヴァルトハイム辺境伯領薬草研究所の所属です。

――王家に、私を『命じる』権限はありません」


使者の男が、目を見開いた。

それでも彼は職務として、震える声で反論を試みた。


「し、しかし、ローゼンハイン伯爵家の存続に関わる重大事……」


「一伯爵家の家庭事情のために、

一薬師の職業選択を強制できる法は、王国にはありません」


私は静かに、けれど、微塵も揺るがずに言った。


「そして――これは、私からの返答です。

『私の薬は、私を尊重する人にだけ渡します』

その旨、書面にてお伝えください」


              * * *


使者が退室した後、部屋の中はしばらく静かだった。


エルナが、ふう、と長く息を吐き、それから吹き出した。


「――あんた、いよいよ肝が据わってきたね!

『命じる権限はない』ときたよ! ジーク様、こいつ、ほんとにいい女だ!」


ジーク様は、そのからかいには乗らなかった。

彼は私の前まで歩いてきて、少しだけ迷ってから、

静かに片膝をついた。


騎士が、正式な誓いを立てる時の姿勢だった。


「――レティシア嬢」


「ジーク様? どうなさったんですか」


「順序が乱れて、すまない。本当は、もっと落ち着いた場所で、

花の一つも持って、言いたかったんだが」


彼は顔を上げて、私を見た。

甲冑もマントもない、日常の服のまま。

けれど、その目は、これまで見たどの目よりも、真剣だった。


「あんたが辺境に残るというなら――

俺は、あんたと共に生きたい。

婚約者として、正式にあんたを迎えたい。

……無骨な男で、悪いが、俺の一生をかけて、

あんたを尊重する。あんたの薬も、あんた自身も」


              * * *


私は、答えを、口にできなかった。


喉の奥で、何かがつかえた。それは悲しさではなく、

うれしさが、あまりにも大きくて、体が処理しきれなかったせいだった。


私は震える手で、彼の頬に、そっと触れた。

古傷のある、硬い頬に。


「――はい」


短く、けれど、確かに答えた。


「よろしく、お願いします」


ジーク様の目に、初めて、はっきりとした感情が浮かんだ。

安堵、と、それから、少年のような喜びが。

彼はゆっくりと立ち上がり、私を抱き寄せた。

甲冑の下の、生きた人間の心臓の音が、耳元でどくどくと鳴っていた。


エルナが、部屋の隅で、盛大に洟をすすっていた。


              * * *


その夜。

私は、辺境の空を仰いだ。

雪雲は晴れ、星が、王都では見たこともない密度で降っていた。


同じ空の下、王都では――

使者から返答を受け取ったローゼンハイン家当主が、

青ざめた顔で、絶句していた。


「……戻らない、だと……?」

「王家の召還命令すら、蹴った、と……?」


そして、その伯爵家の遠縁――ダミアン・ローゼンハイン子爵が、

ぎらりと、目を光らせた。


「ならば……私が、辺境に赴きましょう。

情に訴えてでも、あの娘を、必ず、連れ戻します」


――交渉ではなく、圧力を持って。

それが、王都の男たちが最後に選んだ、愚かな一手だった。


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