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第5話「王都、崩れ始める朝」


王都、ローゼンハイン伯爵邸。


大階段の中央に立った当主レオンハルトは、震える手で

書斎から持ち出した、ぼろぼろの古い契約書を握りしめていた。

羊皮紙は黄ばみ、封蝋は半ば剥がれかけている。


「……嘘であってくれ」


呟いた声は、誰にも届かなかった。


              * * *


事の始まりは、六日前だった。


朝食の席で、末娘のアンナがくしゃみを一つした。

「風邪ね」と当主夫人が笑い、暖炉の火を強めさせた。

けれど、アンナの微熱は下がらなかった。二日ほどで四十度を超えた。


同じ頃、当主夫人が突然、床に倒れた。

主治医が呼ばれ、氷嚢が用意され、王都中の名医が動員された。

だが、原因が分からない。血液を調べても、

呪術の痕跡を探しても、何も出てこない。


そして今朝。

遂に、フェリクスまでもが、朝食の途中で意識を失った。


――アンナの発症から数えて、四日目の朝。

そして、レティシアが辺境へ発ってから、六日目の朝のことだった。


              * * *


レオンハルトは、その瞬間、全てを悟った。


彼は、知っていた。

一族に代々流れる「呪い体質」。

それを抑えていたのが、亡き先妻の代からずっと、

「特定の薬師」が調合する秘薬だったこと。


そして――今その薬師が、フェリクス自身の一言によって、

この家を去ったこと。


婚約破棄の夜、レオンハルトは、王家の使者として

南方の国境まで外交任務に出ていた。

戻ったのは、すべてが終わったあとだった。

「息子の暴挙を止められなかった」――その一点で、

彼は、自らの父としての資格を、この一週間、

何度も何度も、自分の胸の中で断罪していた。


「レオンハルト様、フェリクス様のご様子が……!」


侍医の悲鳴に、レオンハルトはようやく我に返った。

息子の寝室に駆け込むと、フェリクスは仰向けに横たわり、

額から玉のような汗を流していた。

その傍らで、白い神官服を着たシャルロットが、

必死に聖印を切っていた。


「……浄化、浄化を……なぜ効かないの……!?」


シャルロットの声は、震えていた。

昨日から何度も、何度も、彼女は聖印を切っていた。

けれど、フェリクスの熱は下がるどころか、

時間とともに、少しずつ高くなっていく。


              * * *


「シャルロット嬢」


レオンハルトが、静かに、けれど押し殺した声で呼びかけた。


「あなたの浄化は、確かに『穢れ』を祓う力です。

ですが……我が家の症状は、穢れではないのです」


「え……?」


「血の呪いです。数百年、一族に流れ続けている。

表層の穢れではなく、生まれた瞬間から体に刻まれた病です。

――浄化魔法では、抑えられないのですよ」


シャルロットの手から、聖印の光が、すっと消えた。

彼女は蒼白な顔で、ゆっくりとレオンハルトを見た。


「では……では、どうすれば……?」


レオンハルトは、握りしめていた古い契約書を、静かに広げた。


『ローゼンハイン家「秘薬供給契約書」。

供給者:宮廷薬師レティシア・エルフォード。

契約期間:婚姻成立を以て終生。

契約解除条件:ローゼンハイン家側からの一方的な破棄を認める。』


「――秘薬を、作れるのは、彼女だけだった」


レオンハルトの声が、掠れた。


「三十年前に絶えた処方を、レティシア嬢が二年かけて復元した。

私と、亡き妻だけが知っていた。

フェリクスには、教えていなかった。

……教えれば、彼が彼女を粗末に扱わないと、

信じたかったからです」


              * * *


シャルロットの膝が、崩れた。

彼女は絨毯の上に手をつき、震える声で呟いた。


「……そんな。私、知らなくて。

私、ただ、フェリクス様の隣に立ちたくて……

……ただ、それだけで……」


彼女の声は、幼子のように、掠れていた。

――彼女は、初めから邪悪だったわけではなかった。

ただ、自分の力量を超えた場所に立とうとして、

そこで見えなくなった真実が、あった。

それだけの、少女だった。


「あなたを責める気は、もうありません」


レオンハルトは疲れた声で言い、契約書を胸に抱いた。


「責めるべきは、私自身です。

妻の遺言を守れなかったのは、私だ。

――『レティシアだけは、絶対に、守り抜きなさい』と。

妻は、亡くなる時、そう言い残していた」


シャルロットは、両手で顔を覆った。

その肩が、小さく、震えていた。


              * * *


その日の夕方、王都の宮廷薬師局に、火急の書簡が届いた。


『火急の願い。娘アンナ、当主夫人、嫡男フェリクス、

三名同時に高熱・意識混濁。

至急、レティシア・エルフォード嬢の所在を報せよ。』


しかし、書簡を受け取った局長は、深く息を吐いた。


「……我々にも、分からんのだ」


宮廷薬師局の書庫の奥に、彼女が残していった辞表がある。

そこに書かれていた行き先は、たった一言だった。


『北の辺境へ。以後、王都の医療とは無縁とする』


書簡を持ってきた使者に、局長は言った。


「レティシア嬢は、もう、宮廷薬師ではない。

彼女がどこにいようと、我々が命じる権限はない。

……ローゼンハイン伯には、そう伝えよ」


              * * *


その頃、辺境のヴァルトハイム城下では。


私は、いつものように研究所で薬を煮ていた。

昨日、アルベルト様の三日目の投薬を終えて、

彼の指の震えが、ほんの少しだけ、収まったところだった。

アルベルト様は、涙ぐんで私の手を握ってくれた。


「感謝します。あなたが来てくれて、我が家は救われた」


その言葉が、私の胸のいちばん柔らかい場所を、まだ温めている。


そこへ、エルナが慌ただしく駆け込んできた。


「レティ、王都からの噂だよ。あんたの耳にも入れておく」


「王都、ですか?」


「ローゼンハイン伯爵家。当主夫人、末娘、

嫡男フェリクス――全員、原因不明の高熱で寝込んでるってさ」


エルナは、探るように私の顔を覗き込んだ。

私が動揺しないかを、心配してくれていたのだと思う。


――けれど、私は、動じなかった。


湯気の立つ鍋を、ゆっくりとかき混ぜながら、私は静かに言った。


「そうですか」


「……それだけかい?」


「ええ。私、もう宮廷薬師ではないので。

王都のご一族のご容態は、私の管轄ではありません」


エルナが、大きく笑った。腹の底から、豪快に。


「――いい返しだ。あんた、いい女だよ」


              * * *


その夜、私は久しぶりに机に向かって、便箋を広げた。

辺境に来てから、初めて書く手紙だった。

宛先は、王都の父――男爵家の当主、私の父。


『お父様、お母様。私は今、北の辺境で、

薬師として働いています。

王都で聞くよりも、ずっと寒いですが、

ずっと呼吸のしやすい場所です。

婚約破棄のこと、ご心配をおかけしました。

でも、私は今、幸せです。

――ここには、私の薬を、まっすぐに必要としてくれる人たちがいます』


便箋を封筒に納め、封蝋を押した。

その封蝋を眺めながら、私はふと、微笑んだ。


(フェリクス様。あなたが「地味で華がない」と切り捨てた女は、

今夜、辺境の夜空の下で、こんなにも、まっすぐに笑っています)


              * * *


同じ夜。

王都のローゼンハイン邸では、当主レオンハルトが、

震える手で、王宮に嘆願書を書いていた。


『レティシア・エルフォード嬢の辺境における所在を確認し、

一日も早く、王都への召還命令を発してくださるよう、

伏してお願い申し上げます』


書き終えた瞬間、レオンハルトはペンを取り落とした。

息子フェリクスが眠る隣室から、譫言のような声が、聞こえてくる。


「……レティシア……なあ、レティシア……」


――呼ばれた名前は、しかし、

もう二度と、この屋敷には、届かない場所に、いるのだった。


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