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第4話「兄と、抱えた責任」


西の村から戻って三日、私は研究所に泊まり込みで薬を作り続けた。

辺境の需要は、王都にいた頃には想像もできない規模だった。


魔物の毒を受けた騎士、毒霧に触れた村人、

慢性的な魔素過敏で寝込んでいる老人たち。

彼らのために、私は毎日、朝から晩まで調合台の前に立った。

けれど不思議と、疲れなかった。

「必要とされている」という実感が、それだけで、体を支えてくれた。


              * * *


四日目の午後、ジークハルトが研究所を訪ねてきた。


いつもの外套姿だが、その顔は少しだけ緊張していた。

彼は私の作業台の前でしばらく黙り、それから静かに切り出した。


「レティシア嬢。頼みがある。

――兄に、会ってほしい」


「お兄様、というと……アルベルト様、でしょうか」


「ああ。長兄で、本来なら次期辺境伯だが、

幼い頃から病弱で、五年前から城の東棟で療養している」


ジークハルトの声が、少しだけ低くなった。


「王都の宮廷医も、幾人か診た。けれど、原因が分からないと。

どの薬も効かない。……もし、あんたに、時間があるなら」


私は白衣の袖で手を拭い、頷いた。


「行きます。今すぐに」


              * * *


ヴァルトハイム城の東棟は、静かだった。


厚い絨毯に足音が吸い込まれ、廊下には薬草の匂いが漂う。

奥の一室。分厚い樫の扉を、ジークハルトは丁寧にノックした。


「兄上。薬師を連れてきた」


「――どうぞ」


か細い、けれど落ち着いた声だった。


部屋に入ると、大きな窓辺のソファに、ひとりの青年が座っていた。

歳はジークハルトより二つ三つ上、二十九ほどだろうか。

色素の薄い金髪と、白すぎるほどの肌。

ジークハルトによく似た顔立ちだが、線が細い。

膝掛けの下で、その手が微かに震えていた。


「アルベルト・フォン・ヴァルトハイムです。

わざわざ、すまないね」


「レティシアと申します。失礼して、診させていただきます」


私は寝台のそばに膝をつき、彼の脈を取り、瞳の色を見た。

額に手を当て、呼吸のリズムを数える。

爪の色、唇の色、耳の後ろの静脈の浮き方――

王都の教本に載っていない、私が古文書から拾い集めた診断項目を、

一つずつ確認していく。


――そして、五分後。私は静かに立ち上がった。


「アルベルト様。失礼を承知でお伺いします。

幼い頃、雷雨の夜に長く外におられたことは?」


アルベルトの目が、大きく見開かれた。


「……なぜ、それを」


「症状の出方が、王都の宮廷医学の教本には載っていない病と一致します。

『魔素過敏症』と呼ばれる、体質性の病です。

空気中の魔素濃度が高すぎる環境に長時間さらされると発症します。

五年前、この辺境で魔物の氾濫があった年に、

悪化されたのではないですか」


アルベルトが、口を押さえた。

その隣で、ジークハルトが息を呑む音がした。


「……その通りです。氾濫の年に、私は前線に一度だけ立った。

それ以降、体調が急激に……」


「症状は治せます」


私は、まっすぐに彼を見て言った。


「ただし、完治までは半年ほどかかります。

王都の医学書には載っていませんが、

辺境の古い文献には、この病への処方の記録があります。

幸い、材料はこの土地に全て揃います」


              * * *


その日の夕方、私はアルベルトの初回の薬を仕上げた。

一週間後には、症状のうち「常時の微熱」と「指の震え」が

明確に軽くなるはず。三ヶ月後には歩ける。半年後には、

剣は無理でも、日常のほとんどが取り戻せる。


薬瓶を渡すと、アルベルトは長い時間、それを見つめていた。

そして、静かに微笑んだ。


「弟が、あなたを連れてきた理由が、分かった気がします」


「アルベルト様?」


「ジークは、私に薬を届けたかったのではなく――

あなたに、私の存在を知っておいてほしかったのだと思う」


私はきょとんとして、ジークハルトを見た。

彼は珍しく気まずそうに視線を逸らしている。


「……兄上、余計なことを」


「余計ではないよ」


アルベルトは、いたずらっぽく笑って、私に会釈した。

「――薬師殿。この家の男は、口下手なので。

どうか、根気強く付き合ってやってください」


              * * *


その夜。

城の裏手にある薬草園を、私はジークハルトと二人で歩いていた。

昼間の気まずさを詫びるように、彼が「案内する」と誘ってくれた場所だった。


冬の薬草園は、月光の下で銀色に光っていた。

霜咲きの花が、雪の中でひっそりと群れている。


「――兄のこと、礼を言わせてほしい」


しばらくして、ジークハルトが低く切り出した。


「五年、誰にも治せなかった。あんたなら、と、俺は勝手に願った。

願いを押しつけたのは、悪かったと思ってる」


「押しつけだなんて」


私は首を横に振った。


「私、王都では、誰にも診てほしいと言われませんでした。

診るのが当たり前で、治せて当たり前で――

治せなかった時だけ、責められる仕事でした」


言葉にしたことで、初めて気づいた。

五年間、私はずっと、疲れていた。


「だから、あなたが『頼む』と言ってくれた時、私、

うれしかったんです。うまく言えないんですけど」


ジークハルトは、少しの間、黙っていた。

それから、雪の上に、ぽつりと呟いた。


「――俺は、無骨で、口下手で、

顔にこんな傷もある。人に怖がられることの方が多い」


「そうですか?」


「ああ。だから、あんたに、

『頭を下げる』以外の伝え方が、うまく思いつかない」


私は、雪明かりの下で、彼の横顔を見上げた。


古傷はあるけれど、それは戦った証で。

無骨だと言うけれど、部下のために泥にまみれる背中で。

口下手だと言うけれど、疲れた私に外套をかけてくれた手で。


――この人は、私が知る限り、最も雄弁な人だった。


「ジーク様」


私は、彼を初めて略称で呼んだ。


「私、あなたのこと、頑張り屋さんだと思っていました。

部下のために頭を下げられて、

お兄様のために私を訪ねてこられて。

――ちゃんと、ここにいますよ、私」


ジークハルトは、雪の上で、しばらく立ち止まった。

それから、私のほうを見ずに、こう言った。


「……ありがとう」


低くて、少し掠れた、けれど、確かな声だった。


              * * *


その晩、私は久しぶりに、夢を見ずに眠った。


同じ頃、王都のローゼンハイン邸には、

分厚い外套の御者が乗った早馬が、真夜中に到着していた。

書簡の宛先は、宮廷薬師局。差出人は、ローゼンハイン伯爵本人。


『火急の願い。娘アンナ、当主夫人、嫡男フェリクス、

三名同時に高熱・意識混濁。

至急、レティシア・エルフォード嬢の所在を報せよ。』


――秘薬が絶たれてから、正確に六日目の夜のことだった。


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