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第3話「霜咲きの花と、新しい朝」


辺境で迎える最初の朝は、王都のそれとはまるで違った。


窓の外は真っ白な雪原。空気は肺の奥まで冷たく、

けれどその冷たさが、逆に頭の中を澄み渡らせる。

研究所の一室に用意された小さな寝台で目覚めた私は、

自分でも驚くほど深く眠ったことに気づいた。


――五年ぶりに、朝三時に目が覚めなかった。


              * * *


身支度を整えて研究所の食堂に降りると、

エルナが湯気の立つスープの椀を無造作に押しつけてきた。


「食え。今日は現場に連れて行く」


「現場、ですか?」


「西の村で毒霧被害だ。子供と年寄りが十人以上倒れてる。

ここの薬じゃ、多分もう追いつかない」


私は椀を受け取り、口をつけながら頷いた。

王都では絶対に飲ませてもらえない、粗野で塩気の強い豆のスープ。

けれど、体の芯まで温まる、正しい味だった。


「行きます。準備をさせてください」


「そう言うと思ったよ」


エルナは肩をすくめ、次に低く付け加えた。


「――ジーク様も同行するとさ」


              * * *


研究所の裏庭で、私は初めて「霜咲きの花」の群生を見た。


膝丈ほどの細い茎の先に、うすい水色の五弁の花。

花弁の縁にはうっすらと霜のような結晶が固まっていて、

朝の陽を受けて銀色に光っている。


――これが、五年間、私が古文書と睨めっこして探し続けた花。

王都にはなく、辺境にしか咲かない、あの秘薬の主原料。


王都にいた頃は、乾燥した輸入品の花弁しか手にできなかった。

生の花に触れるのは、これが初めてだった。

乾燥品と生では、薬効の強さも、応用の幅も、桁が違うはずだ。


私は思わず、その場に膝をついていた。


指先で、花弁にそっと触れる。

うすい水色が、指の熱で少しだけ震えるように揺れた。


(――やっと、直接会えた)


「……何をしてる」


背後から低い声。振り向くと、外套姿のジークハルトが立っていた。

彼は膝をついた私を見て、少し戸惑ったように片眉を上げた。


「その花が、何か?」


「私が、ずっと探していた花です」


私は立ち上がり、花弁を一枚だけ折り取って、彼の手のひらに載せた。


「これがあれば――今日の毒霧、多分、根本から抑えられます」


ジークハルトは、花弁と私を交互に見た。

そして、ほんのわずかに、笑った。

初対面の時よりも、ずっと自然な笑い方だった。


「――行こう。案内する」


              * * *


西の村に着いた時、状況は聞いていたよりも深刻だった。


家々の煙突から普段の煙は上がっておらず、

村の広場に敷かれた毛布の上に、幼い子供や老人が並んでいる。

皆、呼吸が浅く、顔色は灰色に近かった。


村長が転がるように駆け寄ってきて、ジークハルトに縋った。


「若様! うちのマルタが……ミハイル爺さんも……お願いです、

若様、なんとか……!」


「落ち着け、村長。薬師を連れてきた」


ジークハルトは村長の肩を静かに叩き、私のほうを振り返った。

その目が、「頼む」と告げていた。


私は頷き、白衣の袖をまくった。


              * * *


まずは全員の症状を診てまわった。

毒霧の影響は肺の奥まで達していて、既存の解毒剤では

「症状を遅らせる」ことしかできない状態。

だが、私の頭の中には、もう処方が組み上がっていた。


「エルナさん、鍋を三つ。大きいので。

それと、霜咲きの花の花弁、生のまま持ってきてください」


「生で使う気か!?」


「はい。乾燥品の五倍の速さで効きます。

濃度が高すぎるので、青苔の粉と蜂蜜で緩和します」


エルナは何かを言いかけて、飲み込んだ。

かわりに大股で村の集会所へ走り、鍋を三つ担いで戻ってきた。


私は火を起こし、鍋に湯を張り、生の花弁を静かに沈めた。

うすい水色の花弁が、湯の中で薄い銀の輝きに変わっていく。

その香りは、雪と、朝と、そして少しだけ甘い蜜のにおいだった。


――私は、この匂いを、ずっと知りたかった。


              * * *


三日三晩、私はほとんど眠らずに調合と投薬を続けた。

一人、また一人と、灰色だった顔に血の気が戻っていく。

子供が目を開けて母親を呼ぶ。老人がゆっくりと体を起こす。

村人たちが両手を組んで、私と、天井と、私と、を交互に見上げていた。


四日目の朝。

最後の患者が笑顔で「腹が減った」と口にした瞬間、

私の視界が、ぐらりと揺れた。


倒れかけた私を、後ろから支える手があった。


「――もう休め。あんたが倒れたら、誰がここの薬を作る」


ジークハルトの声だった。

低く、静かで、けれど有無を言わせない響きがあった。


彼は自分の外套を脱ぎ、私の肩にかけた。

甲冑の下の毛織物は、微かに雪と鉄と、彼自身の温度の匂いがした。


「……すみません、少しだけ」


「謝るな。誇っていい仕事だ」


私はその外套に包まれたまま、村の集会所の隅の椅子に座り込んだ。

体はもう限界のはずなのに、胸の中はやけに温かかった。


              * * *


その時、村の広場に、涙をこらえた老婆が近づいてきた。

私の前で深く、深く頭を下げる。


「薬師様。孫を、ありがとう、ございました。

……このご恩は、うちの村、一生忘れません」


――ありがとう。


その言葉が、私の胸に、まっすぐに落ちてきた。

五年間、私が薬を渡した相手の誰も、私に一度も

言わなかった、その言葉。


私は、俯いた。

外套の端を強く握りしめた。

それでも、涙は、こぼれた。


隣に立っていたジークハルトが、何も言わずに、

私の視線を村人たちから遮るように、少しだけ位置をずらした。


――泣くのを、見せないでいいように。


私は無言で、こくりと頷いた。

喉の奥が熱くて、まだ、何も言えなかった。


              * * *


その夜、辺境伯領の中心街に戻る馬車の中で、私は静かに眠った。

向かい側に座ったジークハルトは、私の頭が窓に打ちつけないよう、

折り畳んだ外套を窓との間に挟んでくれていた。


――同じ頃、遥か南の王都で。


「熱が……! アンナ様の熱が、また上がりました……!」

「侍医は! 侍医を呼べ! 早く!」


ローゼンハイン邸の廊下を、召使いたちが走り回っていた。

アンナの部屋の扉の前で、フェリクスは震える手で額を押さえていた。


「……なぜ、こんな急に……この症状、聞いたことが……」


その傍らで、シャルロットが困惑した顔で聖印を切っていた。

何度も、何度も。

けれど、少女の熱は、下がる気配を、まるで見せなかった。


――秘薬が切れて、四日目の夜のことだった。


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