表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/10

第2話「頭を下げる次期辺境伯」


北へ向かう馬車の中、私はほとんど眠らなかった。


窓の外を流れていく景色が、王都の白い石畳から、

枯れ野原、そして針葉樹の森へと、少しずつ変わっていく。

三日目の午後、御者が声を上げた。


「お嬢様、ヴァルトハイム辺境伯領に入りましたぞ」


――ここが、あの土地。

何度も嘆願書で名前を見た、この国の最北。


馬車の窓を開けると、冷たい空気が頬を刺した。

けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。むしろ、

王都の夜会の熱気よりも、この空気のほうが、私の肺には合っている気がした。


              * * *


辺境伯領の中心街に到着した頃、街は騒然としていた。


大通りには荷馬車が列を成し、負傷した兵士たちが次々と運ばれてくる。

彼らの体からは、うっすらと紫色の湯気のようなものが立ち上っていた。


――魔物の毒だ。


私は御者に礼を言って馬車を降り、荷物一つを提げてまっすぐに

「薬草研究所」の看板を掲げる建物へ向かった。

嘆願書に何度も名前が出ていた場所。


扉を押し開けると、中は戦場だった。

簡易寝台にずらりと並ぶ兵士たち、走り回る薬師見習い、

床にこぼれた薬瓶の破片。

その中心で、四十過ぎの女性が野太い声で指示を飛ばしていた。


「三番寝台に鎮痛剤! 二番寝台、脈が落ちてる、蘇生用意!

くそ、また新種の毒か……!」


その人が振り返り、私と目が合った。

髪をぐしゃぐしゃに結い上げた、鋭い目つきの女性。

――所長のエルナ・グリム、と嘆願書の署名にあった名前を思い出す。


「あんた誰だい。見物なら邪魔だよ、出て――」


「宮廷薬師のレティシア・エルフォードと申します」


私は白衣を取り出しながら、静かに答えた。


「先ほど辞任してきました。今日から、失業中の一薬師です。

――お手伝いさせてください」


エルナが、目を大きく見開いた。


              * * *


説明の時間はなかった。

私はすぐ寝台へ向かい、一番症状が重い兵士のそばに膝をついた。


紫色の毒霧が、傷口からじわじわと血管を這い上がっている。

――これは、既存の解毒薬では止まらない種類の毒だ。

王都の教本にはない。けれど、辺境の古い文献で読んだことがある。

確か、あの毒に効くのは――


「エルナ所長、『青苔の粉』と『霜咲きの花の花弁』、ありますか。

乾燥品で構いません」


「あ、ああ、乾燥品ならあるにはあるが、あんた本気か?

その二つを混ぜると劇薬になるって……」


「三対一の比率、湯で希釈すれば大丈夫です。

――許可を」


エルナは一瞬言葉に詰まったあと、腹を決めた顔で頷いた。

「持ってきな! この人の言う通りにやれ!」


見習いたちが慌てて薬箱を運んでくる。

私は自分の手でそれを調合した。指先が、久しぶりに、

「本当に必要とされている仕事」に触れて震えた。


――大丈夫。震えるのは、悪いことじゃない。


三分後。

兵士の傷口から立ち上っていた紫の湯気が、静かに消えた。

呼吸が、規則的に戻る。


エルナが、深く長い息を吐いた。


              * * *


同じ手順で、私はさらに二人の兵士を救った。

気がつくと、研究所の中は静かになっていた。

見習いたちが、私を見ていた。畏怖と、感謝と、

――そして、何か希望を確かめるような目で。


そのとき、扉が乱暴に開かれた。


「エルナ所長! 隊長は、部下たちは無事か!」


飛び込んできたのは、長身の男だった。

黒い外套に、雪と泥にまみれた甲冑。

剣を腰に佩き、顔にはかすかに古傷がある。

けれど、その目は、ぞっとするほど澄んでいた。


エルナが答える前に、男はもう寝台のほうへ向かっていた。

救った三人の兵士の顔を一人ずつ確認して、

最後にゆっくりと、私のほうへ振り返った。


「――君が、彼らを救ったのか」


「はい」


低い声だった。けれど、責める調子ではなかった。

男は数秒黙り、それから――信じられないことをした。


深く、頭を下げたのだ。


「ヴァルトハイム辺境伯家の次男、ジークハルトだ。

名前を、聞かせてもらえるか」


「……レティシア・エルフォードと申します」


「レティシア嬢」


彼はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ私を見た。


「感謝する。彼らは俺の部下だ。あんたがいなければ、失っていた。

――この恩は、必ず返す」


              * * *


私は、返事に困った。


五年間、私は誰かに頭を下げられたことがなかった。

「ありがとう」の言葉すら、まともに受け取ったことがなかった。

私が薬を作るのは、当たり前だと、皆思っていた。


なのにこの人は、初対面の私に、正面から頭を下げた。

――部下を救った、というただそれだけの理由で。


私は震える指先を白衣の裾できゅっと握り、

なんとか声を絞り出した。


「……薬師として、当然のことをしただけです」


「その『当然』が、この地ではどれほど得難いか」


ジークハルトは静かに言った。責める調子でも、

持ち上げる調子でもなく、ただ事実を告げるように。


その横で、エルナが腕を組んで、にやりと笑った。


「レティシア、あんた、うちで正式に働きな。

給料は宮廷ほどは出せないけど、

あんたの薬を必要としてる人間の数は、王都の百倍いるよ」


              * * *


私は、しばらく答えられなかった。


胸の奥で、何かが熱くなっていた。

五年分の朝、誰にも気づかれずに作ってきた薬。

その手が、この場所で、こんなにも簡単に「必要」と呼ばれている。


私は、深く息を吸って、頷いた。


「――はい。お願いします」


ジークハルトの目が、ほんのわずかに、和らいだ。


「レティシア嬢。改めて、よろしく頼む」


差し出された彼の手を、私はおそるおそる握った。

剣を握り続けた、硬い手だった。

けれど、その握手は、驚くほど優しかった。


              * * *


その夜、私は与えられた小さな部屋の窓辺に立ち、

北の空を見上げた。


雪雲の切れ間から、星が一つ、瞬いていた。


王都ではきっと、フェリクスが今夜も、

私の薬なしの二日目を過ごしているだろう。

まだ、はっきりとした症状は出ていないはずだ。

でも――明日の朝、あるいは明後日の朝。

彼の一族の誰かが、最初の兆しを見せる。


(三日目です、フェリクス様)


私は、心の中で静かにつぶやいた。


(あなたが気づく、最初の朝が来ますよ)


              * * *


一方その頃、王都のローゼンハイン邸では。

朝食のテーブルで、フェリクスの妹アンナが小さくくしゃみをした。


「アンナ、風邪かい?」

「うん、なんだか少し、体が熱っぽくて……」


誰もまだ、それが「始まり」だとは、気づいていなかった。

――秘薬が絶たれて、正確に三日目の朝のことだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ