第2話「頭を下げる次期辺境伯」
北へ向かう馬車の中、私はほとんど眠らなかった。
窓の外を流れていく景色が、王都の白い石畳から、
枯れ野原、そして針葉樹の森へと、少しずつ変わっていく。
三日目の午後、御者が声を上げた。
「お嬢様、ヴァルトハイム辺境伯領に入りましたぞ」
――ここが、あの土地。
何度も嘆願書で名前を見た、この国の最北。
馬車の窓を開けると、冷たい空気が頬を刺した。
けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。むしろ、
王都の夜会の熱気よりも、この空気のほうが、私の肺には合っている気がした。
* * *
辺境伯領の中心街に到着した頃、街は騒然としていた。
大通りには荷馬車が列を成し、負傷した兵士たちが次々と運ばれてくる。
彼らの体からは、うっすらと紫色の湯気のようなものが立ち上っていた。
――魔物の毒だ。
私は御者に礼を言って馬車を降り、荷物一つを提げてまっすぐに
「薬草研究所」の看板を掲げる建物へ向かった。
嘆願書に何度も名前が出ていた場所。
扉を押し開けると、中は戦場だった。
簡易寝台にずらりと並ぶ兵士たち、走り回る薬師見習い、
床にこぼれた薬瓶の破片。
その中心で、四十過ぎの女性が野太い声で指示を飛ばしていた。
「三番寝台に鎮痛剤! 二番寝台、脈が落ちてる、蘇生用意!
くそ、また新種の毒か……!」
その人が振り返り、私と目が合った。
髪をぐしゃぐしゃに結い上げた、鋭い目つきの女性。
――所長のエルナ・グリム、と嘆願書の署名にあった名前を思い出す。
「あんた誰だい。見物なら邪魔だよ、出て――」
「宮廷薬師のレティシア・エルフォードと申します」
私は白衣を取り出しながら、静かに答えた。
「先ほど辞任してきました。今日から、失業中の一薬師です。
――お手伝いさせてください」
エルナが、目を大きく見開いた。
* * *
説明の時間はなかった。
私はすぐ寝台へ向かい、一番症状が重い兵士のそばに膝をついた。
紫色の毒霧が、傷口からじわじわと血管を這い上がっている。
――これは、既存の解毒薬では止まらない種類の毒だ。
王都の教本にはない。けれど、辺境の古い文献で読んだことがある。
確か、あの毒に効くのは――
「エルナ所長、『青苔の粉』と『霜咲きの花の花弁』、ありますか。
乾燥品で構いません」
「あ、ああ、乾燥品ならあるにはあるが、あんた本気か?
その二つを混ぜると劇薬になるって……」
「三対一の比率、湯で希釈すれば大丈夫です。
――許可を」
エルナは一瞬言葉に詰まったあと、腹を決めた顔で頷いた。
「持ってきな! この人の言う通りにやれ!」
見習いたちが慌てて薬箱を運んでくる。
私は自分の手でそれを調合した。指先が、久しぶりに、
「本当に必要とされている仕事」に触れて震えた。
――大丈夫。震えるのは、悪いことじゃない。
三分後。
兵士の傷口から立ち上っていた紫の湯気が、静かに消えた。
呼吸が、規則的に戻る。
エルナが、深く長い息を吐いた。
* * *
同じ手順で、私はさらに二人の兵士を救った。
気がつくと、研究所の中は静かになっていた。
見習いたちが、私を見ていた。畏怖と、感謝と、
――そして、何か希望を確かめるような目で。
そのとき、扉が乱暴に開かれた。
「エルナ所長! 隊長は、部下たちは無事か!」
飛び込んできたのは、長身の男だった。
黒い外套に、雪と泥にまみれた甲冑。
剣を腰に佩き、顔にはかすかに古傷がある。
けれど、その目は、ぞっとするほど澄んでいた。
エルナが答える前に、男はもう寝台のほうへ向かっていた。
救った三人の兵士の顔を一人ずつ確認して、
最後にゆっくりと、私のほうへ振り返った。
「――君が、彼らを救ったのか」
「はい」
低い声だった。けれど、責める調子ではなかった。
男は数秒黙り、それから――信じられないことをした。
深く、頭を下げたのだ。
「ヴァルトハイム辺境伯家の次男、ジークハルトだ。
名前を、聞かせてもらえるか」
「……レティシア・エルフォードと申します」
「レティシア嬢」
彼はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ私を見た。
「感謝する。彼らは俺の部下だ。あんたがいなければ、失っていた。
――この恩は、必ず返す」
* * *
私は、返事に困った。
五年間、私は誰かに頭を下げられたことがなかった。
「ありがとう」の言葉すら、まともに受け取ったことがなかった。
私が薬を作るのは、当たり前だと、皆思っていた。
なのにこの人は、初対面の私に、正面から頭を下げた。
――部下を救った、というただそれだけの理由で。
私は震える指先を白衣の裾できゅっと握り、
なんとか声を絞り出した。
「……薬師として、当然のことをしただけです」
「その『当然』が、この地ではどれほど得難いか」
ジークハルトは静かに言った。責める調子でも、
持ち上げる調子でもなく、ただ事実を告げるように。
その横で、エルナが腕を組んで、にやりと笑った。
「レティシア、あんた、うちで正式に働きな。
給料は宮廷ほどは出せないけど、
あんたの薬を必要としてる人間の数は、王都の百倍いるよ」
* * *
私は、しばらく答えられなかった。
胸の奥で、何かが熱くなっていた。
五年分の朝、誰にも気づかれずに作ってきた薬。
その手が、この場所で、こんなにも簡単に「必要」と呼ばれている。
私は、深く息を吸って、頷いた。
「――はい。お願いします」
ジークハルトの目が、ほんのわずかに、和らいだ。
「レティシア嬢。改めて、よろしく頼む」
差し出された彼の手を、私はおそるおそる握った。
剣を握り続けた、硬い手だった。
けれど、その握手は、驚くほど優しかった。
* * *
その夜、私は与えられた小さな部屋の窓辺に立ち、
北の空を見上げた。
雪雲の切れ間から、星が一つ、瞬いていた。
王都ではきっと、フェリクスが今夜も、
私の薬なしの二日目を過ごしているだろう。
まだ、はっきりとした症状は出ていないはずだ。
でも――明日の朝、あるいは明後日の朝。
彼の一族の誰かが、最初の兆しを見せる。
(三日目です、フェリクス様)
私は、心の中で静かにつぶやいた。
(あなたが気づく、最初の朝が来ますよ)
* * *
一方その頃、王都のローゼンハイン邸では。
朝食のテーブルで、フェリクスの妹アンナが小さくくしゃみをした。
「アンナ、風邪かい?」
「うん、なんだか少し、体が熱っぽくて……」
誰もまだ、それが「始まり」だとは、気づいていなかった。
――秘薬が絶たれて、正確に三日目の朝のことだった。




