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第1話「五年分の朝、あなたは知らない」


「――レティシア。婚約は破棄させてもらう」


シャンデリアの光が揺れる大広間で、婚約者フェリクス・ローゼンハインは

穏やかに、まるで今夜の天気の話でもするような口ぶりでそう言った。


その瞬間、私の五年間が終わった。


              * * *


夜会の中央。楽団の音楽はいつの間にか止み、貴族たちの視線が針のように

私に集まっている。フェリクスの右腕にしなだれかかっているのは、

先月「聖女候補」と認定されたばかりの男爵令嬢シャルロット・デュボワ。

ふわりと花のような香水を纏った彼女は、勝ち誇った目で私を見下ろした。


「君のような地味で華のない女より、聖女様の方が私にふさわしい。

それは君も、心のどこかで分かっていたはずだ」


心のどこかで。


そんな言葉を、五年間毎朝三時に起きて薬を煎じていた女に向かって、

よく笑顔で言えるものだと思う。


けれど私は取り乱さなかった。取り乱してはいけない、と長い時間をかけて

自分に教え込んできた。宮廷薬師は、感情で手を震わせてはいけない職業だ。


「――かしこまりました、フェリクス様」


私は、震えの一つも見せずに膝を折った。

ドレスの裾が、磨き上げられた大理石の床の上に静かに広がる。


「五年間、婚約者としてお仕えできたこと、光栄に思います。

どうぞ、シャルロット様と末永くお幸せに」


その一礼が、あまりにきれいに決まりすぎたのだろう。

シャルロットの薄い笑みが、一瞬だけ引きつったのが見えた。


――ええ、そうよ。私は、あなたの想像しているような

「泣き喚いてすがりつく女」ではないの。


顔を上げ、私は静かに大広間を後にした。

背中で、フェリクスが上機嫌にワインを注ぐ音がする。


その音を聞きながら、私は心の中で、一つだけ確認した。


(私が抜けたら、あなたのご一族は、数日と経たずに寝込みますよ)


              * * *


宮廷薬師レティシア・エルフォード、二十歳。

男爵家の長女で、伯爵家嫡男フェリクスとの婚約は、

彼が十七、私が十五の年に結ばれた。表向きは政略、実態は

「ローゼンハイン家の秘密」を守るためだ。


――ここはアルストリア王国。剣と魔法の国。

その中でも、我が国でもっとも高名な貴族の家のひとつが、

ローゼンハイン伯爵家である。


ローゼンハイン家には、代々続く「呪い体質」がある。

数百年前、一族の祖が魔物と交わした契約の代償――だという。

血に流れる呪いは、放っておけば高熱を出し、精神を蝕み、

やがて命を削る。発症の兆しは、薬を絶ってから三日ほどで現れ、

一週間もすれば、一族の主だった者が続けて床に伏す。

それが、記録されている限りの、この呪いの進行速度だった。


それを抑えられるのは、たった一つの秘薬だけ。

北方の辺境にしか咲かない「霜咲きの花」を主原料とし、

歴代の宮廷薬師の中から選ばれた、たった一人だけが調合を許される。

そしてその「たった一人」の座は、代々、

ローゼンハイン家の嫁ぐ薬師が受け継いできた。


私は、その秘薬を復元した女だ。


三十年前に絶えたはずのレシピを、私が古文書室に潜り、

薬草を取り寄せ、自分の体で試し、二年をかけて再現した。

十六の年に。


――ローゼンハイン家当主とその妻だけが、その事実を知っている。

フェリクスは、知らない。父親から「お前は生まれつき体が弱い」と

だけ聞かされて、毎朝出される「ハーブティー」を疑いもせず、

五年間、私の手から飲み続けていた。


そのハーブティーの正体が、私の秘薬だとも知らずに。


そして――呪いは、フェリクスだけのものではない。

一族に属する当主夫人、妹のアンナ、当主レオンハルト伯爵本人。

血を分けた者は皆、程度の差こそあれ、日々の秘薬を必要とする。

その事実を、フェリクスは、何ひとつ、教えられていなかった。


              * * *


自室に戻り、私は最後の仕事を始めた。


机の上に、白い紙を三枚並べる。

一枚目――宮廷薬師の辞表。

二枚目――ローゼンハイン家当主宛ての「秘薬終了通知書」。

三枚目――「霜咲きの花の育成環境について」の覚え書き。


三枚目は、少しだけ迷って、書いた。

私は誰も殺したくない。

だから、当主が本気で薬師を探せば辿り着けるだけの

ヒントは、残しておく。それだけの慈悲は、あってもいい。


そして、私専用の調合台から、最後の一瓶を取り出した。

琥珀色の、澄んだ液体。三日分の秘薬。

これを飲みきってしまえば、その先はもう、私の管轄ではない。


私は瓶に短い手紙を添え、封をした。


『これは、私からの最後の贈り物です。

数日以内に、次の薬師を見つけてください。』


――たった数日。

五年間の献身の代価としては、ずいぶん優しい猶予だと思う。


              * * *


夜明け前、私は最低限の荷物をまとめた。

宮廷薬師の白衣、私物の薬草辞典、母の形見のペンダント、

そして、いくらかの貯金。それだけ。


窓の外では、王都に静かに雪が降り始めていた。

北の空が、うっすらと白く染まっていく。


北――そう、私は北へ行く。


魔物の毒に苦しむ辺境。ヴァルトハイム辺境伯領。

「霜咲きの花」が咲く、この国で唯一の土地。


宮廷にいた頃、辺境から届く「薬師を派遣してほしい」という嘆願書を、

私は何度も何度も見た。そのたびに、宮廷は言った。

「辺境ごときに、宮廷薬師を割く余裕はない」


――今なら、割けます。

だって私、今日から宮廷薬師じゃありませんから。


私は初めて、少しだけ笑った。

五年間、あの伯爵邸で見せていた作り笑いではない、本物の笑みを。


              * * *


朝、私は静かに宮廷を出た。

辞表と、秘薬と、覚え書きだけを机に残して。


馬車が北へ向かって走り出す頃、

王都ではフェリクスがまだ、シャルロットの隣で眠っていた。

シーツにこぼれたワインの染みが、まるで血のように広がっているのも

気づかずに。


――私が抜けたら、数日で寝込む。


その事実を、あなたが知る朝は、まだ来ていない。


でも、必ず来る。

北の辺境で、私は待っています。

あなたが、五年分の朝の意味に気づく、その瞬間を。


              * * *


馬車が王都の門を抜けた。

振り返らなかった。

振り返る理由が、もう、どこにもなかったから。


北の空が、少しずつ、明るくなっていく。


――ヴァルトハイム辺境伯領、到着まで、三日。


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