第10話「霜咲きの花咲く辺境で、私は今、幸せです」
――辺境で迎える、二度目の冬の始まり。
私がヴァルトハイム辺境伯領に流れてきた最初の冬から、
気づけば、季節は一巡していた。
その間に、アルベルト様の指の震えは止まり、
微熱も引き、杖を頼りに歩けるまでに回復されていた。
半年、と私が最初にお約束した通り、
彼のお体は、ゆっくり、けれど確実に、健康を取り戻していた。
そして――婚約披露式の朝、辺境の空は、うそのように晴れていた。
雪原の上に、抜けるような青。遠くの針葉樹林が、
朝陽を受けて、金色に光っている。
ヴァルトハイム城の中庭には、白い布で覆われた長いテーブルと、
花で編まれた小さなアーチが、しつらえられていた。
――アーチには、辺境じゅうから集められた、
霜咲きの花が、うっすらと銀色に光りながら、編み込まれていた。
* * *
私は、控え室で、白いドレスに、袖を通していた。
派手ではない、簡素な、けれど、丁寧に仕立てられたドレス。
私が「装飾は少なめがいい」と言ったのを、ジーク様が
きちんと覚えていてくれた、そのままの形だった。
「――レティ、綺麗だよ」
鏡越しに声をかけてくれたのは、エルナだった。
普段の作業着ではなく、辺境の伝統衣装に身を包み、
彼女もまた、目を潤ませていた。
「あんたに会った日、まさかこんな日を迎えるとはねえ。
王都でボロボロになって流れてきた娘が、
辺境の英雄になって、次期辺境伯の妻になるなんて。
うちの研究所、伝説になっちまうよ」
「エルナさん」
私は、鏡の中の彼女に、そっと微笑んだ。
「私を、拾ってくれて、ありがとうございました。
あの時、あなたが『うちで働きな』って言ってくれなかったら、
私、今日、ここに立っていません」
エルナは、盛大に洟をすすって、
「ばか、これから泣くのはあたしなんだから、
あんたが先に泣くんじゃないよ」と、ぶっきらぼうに笑った。
* * *
控え室の扉が、ノックされた。
「――レティシア。父です。入っても?」
「お父様!」
私は、駆け寄って、扉を開けた。
王都から来てくれた、私の父、エルフォード男爵。
彼は、ドアの向こうで、少し痩せた頬に、涙を溜めていた。
「レティシア。……よく、ここまで、来たね」
「お父様……お母様は」
「中庭で、既に席に着いている。
――先に、私が、お前に、伝えたいことがあってな」
彼は、私の両手を、静かに、包んだ。
「五年間、私は、お前を、伯爵家に嫁がせることを、
我が家の幸運だと思い込んでいた。
お前がどれだけ、朝三時に起き、痩せ、笑わなくなっていったか、
気づいてやれなかった。父として、失格だった」
「お父様、そんな」
「聞いてくれ。今日、私は、これを言うために、来た」
彼は、深く息を吸って、私を、まっすぐに見た。
「――お前は、最初から、我が家の、誇りだった。
華々しい伯爵家の嫁になれたから、ではない。
お前が、お前自身の力で、
誰かの命を救える人間だったからだ。
それを、認めるのが、遅くなって、済まなかった」
私は、父の胸に、静かに、額を寄せた。
父の胸は、記憶よりも、少しだけ、細くなっていた。
けれど、その温度は、幼い頃から、何も、変わっていなかった。
「――お父様。ありがとうございます。
今日、ここに、来てくださって」
* * *
中庭に出ると、拍手が、私を迎えた。
辺境の騎士たち、村の人々、研究所の仲間たち、
辺境伯家の家臣たち。
そして、傍らのアーチの下で、私を待っている、ジーク様。
彼は、いつもの黒地に銀の刺繍の礼装をまとい、
古傷のある頬を、少しだけ緊張させて、私を見ていた。
けれど、私が近づくと、その目が、ふっと、柔らかくなった。
私は、父に手を引かれて、彼の前まで歩いた。
父が、私の手を、そっと、ジーク様の手に、渡した。
「――娘を、頼みます。ヴァルトハイム殿」
「命に代えても」
ジーク様の答えは、短かった。けれど、彼の答えとして、
それ以上のものは、必要なかった。
私の後ろでは、杖をついたアルベルト様が、
兄として、静かに微笑んでいた。
* * *
婚約披露式の途中、私は、来賓の前で、短いスピーチをした。
「本日は、私、レティシア・エルフォードの婚約披露に、
遠くから、また近くから、お運びくださり、
心より、御礼を申し上げます」
集まった人々が、静かに、私を見上げていた。
村の子供たちが、最前列で、うっとりと私のドレスを見ている。
アルベルト様が、車椅子から立ち上がるほどではないが、
杖をついて、ジーク様の後ろに、立っていた。
彼の指先は、もう、震えていなかった。
「私は、五年間、気づかれない献身を、していました」
私は、静かに、けれど、はっきりと、言った。
「朝三時に起きて、薬を煎じて、
それを『ハーブティー』として、人に飲ませていました。
誰にも、名前を、呼んでもらえない、朝でした。
――でも、今は、違います」
私は、集まった人々を、ゆっくりと、見渡した。
エルナが、遠くで、鼻を赤くしている。
研究所の見習いたちが、目を潤ませている。
西の村の老婆が、両手を組んで、私を見上げている。
そして、傍らに立つ、ジーク様。
「私の薬も、私の笑顔も、
ちゃんと、受け取ってくれる人たちの中にいます。
ここには、私の朝三時を、心配して起きてくれる人がいて、
『疲れたのなら休め』と、外套をかけてくれる人がいます。
――ここは、私の、居場所です」
* * *
そして、私は、ジーク様のほうを、見上げた。
「ジーク様」
「うん」
「私、あなたと出会って、初めて、
『対等に、愛される』ということを、知りました。
頼まれる嬉しさを、知りました。
泣くのを、隠してもらえる優しさを、知りました。
――私、これから、あなたと一緒に、
この土地で、いっぱい、笑いたいです」
ジーク様は、いつもの、寡黙な男らしくもなく、
少しだけ、目元を赤くしていた。
彼は、私の頬に、そっと、手を当てた。
古傷のある頬に、私の頬が、優しく、重なった。
そして、私たちは、皆の前で、初めての、
誓いのくちづけを、交わした。
――中庭に、拍手が、雪解けの音のように、広がった。
* * *
その日の夕方、私は、辺境の高台に、
ジーク様と、二人で、立っていた。
眼下には、婚約披露を終えたばかりの、
温かな灯の点る、私たちの街。
遠くには、黒の森。
けれど、その森は、もう、私を怖がらせなかった。
そこから届く毒も、傷も、私は、抑える術を、持っている。
「――ジーク様」
「うん」
「私、王都のことを、少しだけ、思い出しました」
「うん」
「フェリクス様のこと、シャルロット様のこと、
それから、私が、あの夜会で、
静かに膝を折った、あの瞬間のこと」
ジーク様は、私を、責めなかった。
ただ、静かに、私の隣に、いてくれた。
「でも、もう、恨みは、ないんです」
私は、微笑んで、彼を見上げた。
「彼らは彼らで、自分の失ったものを、これから、
一生かけて、数えていくのだと思います。
私が、数えてあげる必要は、もう、ありません。
――だって、私、今、こんなにも、
数えたいものが、目の前に、たくさん、ありますから」
ジーク様は、私の肩に、静かに、腕を回した。
「霜咲きの花が、来年も、咲くといいな」
「咲きますよ、絶対」
「――俺たちの、二人目の春も、その次も」
「……はい」
私は、彼の胸に、そっと寄り添った。
* * *
北の辺境に、今年も、
霜咲きの花が、咲いています。
うすい水色の五弁の花に、うっすらと霜が固まって、
朝の陽を受けると、銀色に、光ります。
私は、その花を摘んで、朝の湯を、沸かします。
けれど、それは、もう、誰かに気づかれない薬では、
ありません。
今日も、辺境の誰かが、笑顔で、
「レティシアさま、ありがとう」と、私に、言ってくれます。
――五年間、待ち続けた、
たった、五文字の言葉が、
毎朝、私に、届く場所に、
私は、今、生きています。




