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【完結】余命一年の悪役令嬢、最初で最後の恋をする  作者: 逆立ちハムスター


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硝子の揺り籠、無慈悲な宣告

深い闇の底から意識を引き揚げられた時、エルセの視界に最初に飛び込んできたのは、煤けた高い天井と、かすかに揺れる一本の蝋燭の光だった。

全身を苛んでいたあの凄まじい激痛は、驚くほど綺麗に引いている。しかし、それは回復したからではない。身体の芯が完全に冷え切り、自らの指先がどこにあるのかさえ定かではないほどの、圧倒的な「喪失感」が彼女を包み込んでいた。麻痺が、また一段と深く彼女の肉体を支配したのだ。


「……目覚めたか、エルセ」


掠れた、しかし酷く焦燥を含んだ声が耳元で聞こえた。

ゆっくりと首を巡らせると、ベッドの傍らに置かれた椅子に、ジルヴェスターが腰掛けていた。彼の漆黒の髪は乱れ、騎士服の襟元はくつろげられている。そしてその大きな両手は、今もエルセの右手を包み込むようにしてきつく握りしめられていた。


「殿、下……。私は、どのくらい……」


「丸二日だ。お前はあの後、呼吸を止め、心臓の鼓動すらも止まりかけた」


ジルヴェスターの紺色の瞳が、小刻みに震えている。彼はこの二日間、一歩もこの部屋から動かず、眠ることもせず、ただエルセの命の灯火が消え去らないように繋ぎ止めていたのだ。


「私の魔力はお前の呪いを刺激する。だから、王宮の宝物庫から秘匿されていた高純度の『聖魔石』を力ずくで奪い取り、その生命エネルギーをお前の体内に流し込み続けた。……宮廷魔術師どもは、無駄な真似だと私を嗤ったがな」


彼の言葉に、エルセは胸が締め付けられるような想いがした。

王宮の宝物庫から資材を奪うなど、いくら王子とはいえ、冷遇されている彼の立場をさらに悪化させるに決まっている。彼は、エルセという一人の死にゆく悪役令嬢のために、自らの破滅さえも辞さずに動いたのだ。


「殿下、なぜそこまで……。私はただの、公爵家の面汚し。もうすぐ消えるだけの命に、それほどの価値はございませんわ」


エルセは、感覚の薄い唇を動かして、静かに微笑んだ。その笑みは、自らの死を当然のものとして受け入れている、どこまでも美しく、そして残酷な諦めに満ちていた。


「価値があるかないかは、私が決める」


ジルヴェスターは、握りしめる手にさらに力を込めた。彼の掌から伝わる必死な体温が、エルセの冷えた肌を焼く。


「君は、私をあの狂気の淵から救い出してくれた。世界中で、私の魔力を恐れず、私の苦しみに気づいてくれたのは、君だけだ。その君が、なぜ自分の命をこれほどまでに軽んじる。あと一年……いや、今の状態では数ヶ月もないかもしれない。それでも、生きようと足掻くことに、何の不都合がある!」


彼の叫びは、静かな離宮の寝室に響き渡った。

周囲が彼女を「悪女」と蔑み、その死を望むか、あるいは無関心でいる中で、彼だけが彼女の苦しみと孤独を理解し、それを受け止めようとしている。


エルセは、そんな彼の必死な瞳を見つめながら、そっと目を細めた。


「殿下……。私は、昔からずっと孤独でしたわ。この呪いのせいで、いつ死ぬか分からない恐怖に怯え、家族からも見捨てられ、婚約者からも嫌われ……。私の人生には、何の意味も、光もなかったのです」


エルセの碧眼から、一筋の涙が静かにこぼれ落ち、枕を濡らした。


「でも、あの夜、あなたに出会えた。私のこの短い、無意味だったはずの人生の中で、あなたの痛みを和らげ、あなたの瞳に私が映った……。それだけで、私はもう、十分に幸せなのです。あなたに出会えたから、私の短い人生は幸せだった。だから……どうか、もう苦しまないでください。私は、この運命を喜んで受け入れますわ」


「エルセ……っ!」


ジルヴェスターは、絶望に顔を歪めた。

彼女は、彼が必死で探そうとしている「救い」を、端から求めていないのだ。彼女にとって、彼に出会えたこと自体が人生のゴールであり、残された死への道筋は、すでに美しい物語の結末に過ぎない。その執着のなさが、彼の心を激しく抉った。


「ふざけるな……。私は……私はそんな言葉を聞くために、君を抱き止めたわけではない。君が満足して死ぬというなら、私はその満足をぶち壊してでも、君をこの現世うつしよに引き留めてやる」


彼がさらに言葉を重ねようとした、その時。

激しく寝室の扉が叩かれた。入ってきたのは、ジルヴェスターの唯一の側近であり、影の部隊に属する青年騎士だった。彼の表情は、一刻を争う事態であることを示していた。


「ジルヴェスター殿下、申し訳ありません、緊急の報告です。……クローネ公爵邸、および王宮より、正式な通達が下されました」


側近は、ベッドの上のエルセを一瞬だけ気の毒そうに見つめ、それから声を落として告げた。


「第一王子ルファード殿下と、エルセ様の婚約破棄が、国王陛下の御名において正式に承認されました。それと同時に……クローネ公爵家は、エルセ様を『王家への不敬、および精神の失調』を理由に、公爵家から籍を抹消。事実上の、国外追放処分が下されました」


「何だと……!?」


ジルヴェスターが立ち上がり、凄まじい殺気を放った。室内の空気が、彼の怒りに反応してピリピリと震え始める。


「ルファードの奴、そこまでやるか……! 籍を抹消した上で国外追放だと? 彼女の身体がこのような状態であると知りながら、死ねと言っているのも同然ではないか!」


「それだけではありません。公爵家は、次女のカトリン様をルファード殿下の新たな婚約者として王家に申請し、すでに受理されたとのことです。エルセ様は、今夜中に王都を出立し、北の国境付近にある、放棄された古い療養所へと移送されることが決定いたしました」


それは、あまりにも無慈悲で、迅速な、トカゲの尻尾切りだった。

用済みとなった、病がちで悪名高い長女を早々に排除し、健康な次女を王家に差し出すことで、クローネ公爵家は何の損害もなくその地位を維持したのだ。北の国境付近の療養所など、名ばかりの監獄。冬になれば酷寒に晒され、健康な人間でさえ病に倒れるような死地だった。


「クソが……! どいつもこいつも、自の保身のために……!」


ジルヴェスターが拳を机に叩きつけ、木製の天板に深い亀裂を入れた。

しかし、その残酷な宣告を聞いた当事者であるエルセは、驚くほど冷静だった。むしろ、彼女の表情には、微かな安堵の色さえ浮かんでいた。


「……北の国境の、静かな療養所。ふふ、私にはお似合いの場所だわ」


エルセは、上体をゆっくりと起こそうとしたが、力が入らず、ジルヴェスターが咄嗟にその身体を支えて自分の胸に抱き寄せた。


「殿下、これでいいのです。公爵家からも王宮からも解放されて、私はようやく、誰の目も気にせずに静かに眠りにつくことができますわ。王都の騒がしい夜会も、他人の冷たい視線も、もうそこにはないのですもの。とても、素敵な贅沢だと思いませんこと?」


「君は、どこまで……どこまで自分を見捨てるんだ!」


ジルヴェスターは、腕の中の少女を、壊してしまいそうなほど強く抱きしめた。

世間が彼女をどれほど罵ろうとも、彼女のこの透明な、どこまでも純粋な諦念を知れば、誰も彼女を「悪役」などとは呼べないはずだ。彼女はただ、過酷すぎる運命に疲れ果て、静寂を求めているだけの、哀れな少女に過ぎない。


「行かせない。北の国境など、私が許さない。君を私のこの離宮で匿う。王命だろうが公爵家の決定だろうが、傭兵を使えば、君の存在を世界から隠すことなど容易い」


「いいえ、殿下。それはなりませんわ」


エルセは、ジルヴェスターの胸にそっと自らの額を預け、掠れた声で拒絶した。


「あなたがそんなことをすれば、あなたは本当に『反逆者』として、その命を狙われることになります。私は、私のために、あなたの未来が汚されることだけは、絶対に耐えられません。……お願いです、ジルヴェスター殿下。私を、行かせてください」


彼女の碧眼が、彼を真っ直ぐに見つめる。その瞳の中には、自らの死への恐怖ではなく、彼を巻き込むことへの本物の恐怖と、そして彼に対する、深い、深い愛情が宿っていた。


ジルヴェスターは、その瞳を見て、激しい衝撃を受けた。

彼女は、最期まで自分を「悪女」として終わらせようとしている。他者を恨まず、運命を呪わず、ただ彼の無事を願って、静かに消え去ろうとしている。


その純粋すぎる愛に、彼の胸の奥で、何かが完全に弾け飛んだ。


「……分かった」


ジルヴェスターは、低く、深く息を吐き出した。彼の瞳から、先ほどまでの激しい怒りは消え失せ、代わりに、底知れない、冷徹なまでの決意が宿っていた。


「君がそこまで言うなら、北の療養所へ行くがいい。王命に従い、公爵家の決定通りに、王都を離れるがいい」


「殿下……分かってくださったのね」


エルセがほっとしたように微笑んだ瞬間、ジルヴェスターは彼女の耳元に顔を近づけ、地を這うような、しかし甘く、絶対的な誓いを囁いた。


「だが、勘違いするな。私は君を諦めたわけではない。……北の国境だろう? 好都合だ。あそこは、私が調べていた『万象の雫』が眠るという、不毛の雪山に最も近い場所だ」


「……」


「君が王都を離れるというなら、私も王族の籍を捨て、君と共に北へ向かう。君が静かに死を待ちたいというなら、その枕元で、私は毎日のようにお前の呪いを解く方法を叫び続けてやる。君が運命を受け入れるというなら、私はその運命の喉元に、この手で剣を突き立ててやる」


ジルヴェスターは、エルセの顔を両手で挟み込み、強引に視線を固定した。彼の紺色の瞳は、まるで獲物を絶対に逃さないと誓った獣のようだった。


「君が私を救ったその日から、私の命も君のものだ。君が地獄へ行くというなら、私も共に行こう。最期まで、私は君の傍らを離れない。……覚悟しておけ、エルセ。君の短い人生が幸せだったというなら、それをこれから先、何十年も、嫌というほど長引かせてやる」


それは、世界で最も激しく、そして最も歪んだ、一途な純愛の宣言だった。


エルセは、ただ呆然と、彼を見つめることしかできなかった。

すべてを諦め、静かに幕を閉じようとしていた彼女の人生の舞台。そこに、王族としての地位も、未来も、すべてを投げ打って乱入してきた第二王子。


狂い出したシナリオは、もはや誰にも止められない。

その夜、エルセ・フォン・クローネは、数人の冷淡な護衛に連れられ、王都を追放された。しかし、その馬車の遥か後方、闇に紛れて、彼女を追う一筋の黒い影があることを、彼女の冷え切った心臓だけが、微かな熱として感じ取っていた。

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