狂い出す天秤、ひそやかな誓い
手首に触れるジルヴェスターの掌は、夜風に晒されていたはずなのに、酷く熱かった。その熱が、エルセの冷え切った肌を通じて、凍てついた心臓へと真っ直ぐに流れ込んでくるようだった。
「お前を、絶対に死なせはしない」
その言葉は、静かな夜の庭園に、あまりにも不釣り合いな重さを持って響いた。王国の誰からも望まれず、日陰の存在として生きてきた第二王子が、生まれて初めて口にした、剥き出しの執念だった。
しかし、エルセはただ、困ったように眉を下げた。その碧眼には、彼の情熱に応えるような光は灯らない。彼女はもう一歩だけ後ろに引き、掴まれた手首の力を緩めさせるように、そっと自らの手をひねった。ジルヴェスターは、彼女の壊れそうな細さにハッとしたように、不本意ながらも指の力を緩めた。
「不可能なことですわ、殿下」
エルセは、自身の衣服を整えながら、どこまでも穏やかに、しかし残酷なほど明確に一線を引いた。
「この『黒死の呪詛』は、人の手でどうにかなるような生易しいものではございません。大陸中の高名な治癒魔術師たちが、我が公爵家の財のすべてを積まれても、匙を投げたのです。神が定めた運命の帳尻を合わせるかのように、私の命の灯火は消えかけている……それを覆すことなど、誰にもできはいたしません。……それに」
エルセは一度言葉を切り、夜空に浮かぶ満月を見上げた。その横顔は、まるで月光で編まれた幻影のように儚い。
「私は、それを望んでおりませんの。抗うこと自体が、もう、酷く疲れてしまいましたから」
「エルセ……!」
「今夜はお会いできて光栄でしたわ、ジルヴェスター殿下。どうか、私のことなどお忘れになって、ご自身の道をお歩みください。こんな令嬢の最期など、歴史の片隅にすら残らない、無価値なものですから」
完璧なカーテシーを見せ、エルセは今度こそ、彼の制止の声を振り切って闇の中へと消えていった。
残されたジルヴェスターは、熱の残る自身の掌を強く握りしめ、彼女が去った虚空を睨みつけていた。彼の瞳の奥で、青い炎のような決意が、静かに、しかし決して消えない強さで燃え上がり始めていた。
────
数日後、エルセの身体には、予定よりも早く、確実に「終わりの始まり」が訪れていた。
朝、目を覚ました時、指先の感覚がいつもより鈍いことに気づいた。鏡の前で髪を梳かそうとしても、ブラシを握る力が入らず、床に落としてしまう。それを見ていた侍女は、手助けをするどころか、「朝から不手際ですか」と、冷ややかな視線を向けるだけだった。
さらに、食事の味が出ない。公爵邸の料理人が作った一級品のスープを口に含んでも、ただの温かい液体としか感じられなかった。呪いが神経を侵食し、感覚を一つずつ奪い去っているのだ。
(ああ、本当に、少しずつ『死』が満ちていくのね)
エルセはそれを、悲しむのではなく、むしろ予定通りの進捗を確認するかのように冷静に受け止めていた。前世の知識を総動員しても、この呪いの詳細な設定など書かれていなかったが、自分の身体が発するシグナルだけで、余命が残り少ないことは十分に理解できた。
そんなある日の午後、エルセの元に、公爵邸の家令を通じて正式な呼び出しが届いた。
送り主は、第一王子であり、彼女の婚約者であるルファード。場所は、王宮内にある広大な薔薇園の東屋だった。
「エルセお姉様、ルファード殿下からの呼び出しだなんて、きっと大層なお叱りを受けるのね。可哀想に」
馬車へ乗り込もうとするエルセの背中に、妹のカトリンが愉しげな声を投げかける。
エルセは振り返りもせず、ただ小さく首を傾げた。
「そうかもしれませんわね。では、行って参ります」
そのあまりにも超然とした態度に、カトリンは面白くなさそうに口を尖らせた。最近のお姉様は、何を言っても怒らず、傷つかず、まるで魂がここではないどこか遠くへ行ってしまったかのような不気味さがあった。
王宮の薔薇園は、初夏の陽光を浴びて、狂い咲くような赤や白の薔薇で満たされていた。高貴な香りが鼻を突くが、今のエルセの嗅覚には、それすらも酷く希薄なものとしてしか届かない。
指定された東屋に辿り着くと、そこには金髪を眩く輝かせた第一王子ルファードが、不機嫌そうな顔で腕を組んで立っていた。そして、その少し後ろには、怯えたような、しかしどこか庇護欲をそそる瞳をした聖女リンが、彼の服の袖を控えめに掴んで寄り添っていた。
「遅いぞ、エルセ」
ルファードは、エルセが姿を現すなり、挨拶もなしに鋭い声を浴びせた。
「公爵令嬢ともあろう者が、婚約者である私を待たせるとは、相変わらず不遜な態度だな。建国記念夜会を途中で放棄した件と言い、お前の身勝手さには、我が王家もこれ以上目を瞑るわけにはいかない」
ルファードの言葉は、まるで正義の体現者のようだった。彼の隣で、リンが「ルファード殿下、そんなに強く言わなくても……エルセ様も、きっと何かご事情が……」と、健気に宥める仕草をする。ゲームのシナリオ通りであれば、ここでエルセがリンの「計算高い善人面」に激怒し、「黙りなさい、平民上がりの泥棒猫!」と怒鳴り散らし、ルファードの嫌悪感を決定づける場面だった。
しかし、エルセはただ、微動だにせず、鉄の仮面のような美しい微笑を浮かべていた。
「ルファード殿下、そして聖女様。お待たせしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
深く、優雅な一礼。その動作には、一点の非の打ち所もなかった。あまりにも素直な謝罪に、ルファードは拍子抜けしたように言葉を詰まらせた。
「……ふん。お前が素直に非を認めるなど、まったく奇妙が続くな。だが、お前の罪はそれだけではない。公爵邸の噂で、お前が『私との婚約をいつでも破棄する用意がある』などと、不敬な発言を口にしていると聞いたぞ。これは我が王家に対する侮辱か? それとも、私の気を引くための、新たなる悪質な嫌がらせか!」
ルファードの問い詰める声が響く。周囲に控える近衛兵たちも、エルセに対する冷ややかな視線を隠そうともしない。誰もが、悪役令嬢エルセがどのような醜態を晒すかを期待していた。
エルセは、ゆっくりと頭を上げた。その碧眼は、ルファードを映しているようで、その実、何も見ていなかった。
「嫌がらせなど、とんでもございません。殿下」
彼女の声は、薔薇園を吹き抜ける涼風のように、どこまでも澄んでいた。
「私の言葉に、一切の偽りはございませんわ。ルファード殿下。私は、殿下の気高きお心に相応しい人間ではございません。隣にいらっしゃる聖女様こそが、殿下の、そしてこのアルカディア王国の未来を照らす真の光。私のような傲慢な女は、いつでもその座を退く覚悟ができております。どうぞ、お気兼ねなく、いつでも私との婚約をお破棄くださいませ。王家からの正式な通達を、私は首を長くしてお待ちしておりますわ」
「な……っ!?」
ルファードは驚愕のあまり、言葉を失った。
彼が予想していたのは、エルセが泣き叫んで婚約維持を乞うか、あるいはリンに掴みかかる姿だった。しかし、目の前の少女は、まるで使い古した手袋を捨てるかのように、王太子の婚約者という、誰もが羨む至高の地位を、自ら進んで差し出してきたのだ。
「お前、本気で言っているのか……? 一体、何の企みだ!」
「企みなど、何も。ただ、私にはもう……その地位に留まるだけの、時間も、気力も残されていないだけでございます」
エルセのその言葉は、本真の事実だったが、ルファードには「自分を蔑ろにしている」という意味にしか捉えられなかった。
「ふざけるな! 私を愚弄するのも大概にしろ! お前のような身勝手な女、こちらから願い下げだ! 追って、正式な婚約破棄の書状を送ってやる。その高慢な鼻を折られた時、泣いて縋っても絶対に許さんからな!」
怒り狂ったルファードは、リンの手を強く引き、足早に東屋を去っていった。リンは去り際、何度もエルセの方を振り返っていた。その瞳には、侮蔑ではなく、何か言葉にできない奇妙な違和感と、エルセのあまりにも白い顔色に対する、微かな懸念が浮かんでいた。
一人残されたエルセは、ふぅ、と深い溜め息を吐き、東屋の柱に身体を預けた。
ルファードの怒声を受け止めるだけで、全身のエネルギーが枯渇したかのように、凄まじい疲労感が襲ってくる。胸の奥が、どくどくと不気味な脈動を刻み、黒い蔦が心臓を締め付けるのが分かった。
(これでいい……。これで、婚約も破棄される。公爵家からも追い出されるでしょうね。そうすれば、本当に一人で、静かに死ねるわ……)
足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった、その時。
「――やはり、無理をしていたな」
背後から伸びてきた力強い腕が、彼女の身体を横から抱き止めた。
驚いて見上げると、そこには、いつの間にか気配を消して潜んでいた、第二王子ジルヴェスターの姿があった。彼は黒い騎士服に身を包み、その鋭い紺色の瞳を怒りと悲痛に染めて、エルセを見つめていた。
「殿下……なぜ、ここに……」
「ルファードが君を呼び出したと聞いてな。身を潜め、様子を見ていた。あいつの愚かさには吐き気がするが、それ以上に……なぜあそこまで自分を粗末に扱う」
ジルヴェスターは、エルセの軽い身体をまるでお姫様抱きのように容易く持ち上げた。
「あ、殿下、お下りください! 誰かに見られたら――」
「見られたところで、冷遇されている私と、破滅寸前の令嬢のスキャンダルだ。誰も気に留めん。それよりも、君の顔色は死人同然だぞ。静かにしろ」
ジルヴェスターは、エルセの反論を許さず、王宮の裏手にある、普段は誰も近づかない寂れた離宮へと、彼女を連れ去っていった。
────
連れてこられたのは、ジルヴェスターに与えられているという、王宮の北の果てに建つ古い離宮の一室だった。
そこは、第一王子の豪華絢爛な宮殿とは異なり、絨毯は擦り切れ、家具も古びていた。しかし、部屋の壁一面を埋め尽くす巨大な本棚には、古今東西のあらゆる魔導書や文献が、隙間なく詰め込まれていた。中には、一般の書庫では決して見ることのできない、禁書に指定されているような禍々しい装丁の本も散見される。
ジルヴェスターは、エルセを古びた、しかし柔らかいソファにそっと横たえ、すぐに温かい(エルセにとっては、ほんのりと温かさを感じる程度の)ハーブティーを淹れて差し出した。
「飲め。少しは身体が温まるはずだ」
「……ありがとうございます、殿下」
エルセは、感覚の鈍い手でなんとかカップを受け取り、一口含んだ。味はよく分からなかったが、喉を通る温かさだけが、辛うじて自分がまだ生きていることを実感させてくれた。
ふと部屋を見渡すと、机の上には、何十冊もの本が開かれたまま積み重なっており、インクの乾いていない書き置きのメモが散乱していた。
ジルヴェスターの顔を見ると、目の下には深い隈があり、ここ数日、まともに睡眠をとっていないことが一目で分かった。
(まさか、この人は……)
「殿下、この本は……まさか」
エルセの問いに、ジルヴェスターは気まずそうに視線を逸らし、しかしすぐに、決意を秘めた目で彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
「言ったはずだ。私は、君の運命を全力で否定すると」
彼は机の上から、一冊の古ぼけた羊皮紙のノートを取り、エルセの前に開いて見せた。そこには、彼の筆跡で『黒死の呪詛における、変異魔力を用いた相殺と、その解法への仮説』と書かれていた。
「調べた。この呪いは、数百年前に滅びた古代の呪術が起源だ。君の言う通り、通常の治癒魔術や、現在の教会の聖なる力では、表面的な痛みを和らげることすらできない。……だが、完全に解く方法がないわけではない」
ジルヴェスターは、ノートの一節を指差した。
「大陸の遥か北、不毛の雪山に眠るとされる『万象の雫』。あるいは、往古の魔女が遺したという『生体反転の触媒』。これらを用いれば、君の体内にある呪いの核を、完全に破壊、あるいは書き換えることが可能だという記述を見つけた」
彼の声は熱を帯びていた。絶望に満ちた世界の中で、ようやく見つけた一条の光にしがみつくかのような、必死な声だった。
しかし、エルセはその内容を見て、悲しい微笑みを浮かべるしかなかった。
前世の知識、そして現実的な状況を考えれば、それがどれほど不可能なことかが分かるからだ。
「殿下、その『万象の雫』があるという北の雪山は、未だ種族が足を踏み入れたことのない、強大な魔獣が跋扈する禁忌の地ですわ。それに、『生体反転の触媒』など、どこにあるかも分からないおとぎ話の遺物……。それを見つけ出すのに、一体何年、何十年かかるかとお思いですか?」
エルセは、そっと自分の胸元に手を当てた。
「私には、もう時間がないのです。近いうちに、私は動くこともできなくなるでしょう。殿下がその命を危険に晒して、世界の果てまで旅に出たとしても、戻られた頃には、私はとっくに冷たい土の下ですわ」
「そんなことは、やってみなければ分からないだろう!」
ジルヴェスターが、ソファの前に膝をつき、エルセの両手をきつく握りしめた。彼の大きな手が、エルセの冷え切った手を包み込む。
「時間がないなら、私が時間を奪い取ってやる。国中の傭兵を動かし、あらゆる手段を使ってその遺物を探させる。私自身が北の果てへ向かってもいい。……エルセ、頼むから、そんな風に『自分は死んで当然だ』というような顔をしないでくれ。私は……君に救われたんだぞ!」
彼の叫びは、胸を締め付けるほどに切実だった。
周囲から『呪われた王子』と蔑まれ、誰からも愛されず、自分自身の手でいつか世界を滅ぼしてしまうのではないかという恐怖に怯えていたジルヴェスター。その彼を、何の返報も求めず、ただ「苦しそうだったから」という理由だけで、自らの命を削って救ってくれた少女。
彼にとってエルセは、この泥濘のような世界で唯一見つけた、本物の「救い」だったのだ。彼女を失うことは、彼が再び、暗黒の孤独へと突き落とされることを意味していた。
「君が死ねば、私はまた、あの暗闇に戻ることになる。……お願いだ、エルセ。生きることを諦めないでくれ。私のために、ほんの少しだけでいいから、生きたいと願ってくれ……!」
ジルヴェスターの瞳から、一筋の涙が溢れ、エルセの甲へと落ちた。その涙は、驚くほど熱かった。
エルセは言葉を失った。
破滅ルートを回避する気力もなく、ただ静かに、誰にも迷惑をかけずに消えていこうと決めていたはずだった。悪役令嬢として、世界から嫌われて死ぬのが、自分の正しい結末なのだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。
それなのに、なぜ、この目の前の青年は、これほどまでに自分を求めてくれるのだろう。
なぜ、世界中で彼だけが、自分の孤独と、苦しみを見つけ出し、その手を握りしめてくれるのだろう。
(ああ、本当に……ずるい人ね)
エルセの胸の奥で、頑なに閉ざされていた氷の扉が、彼の熱によって、みしりと音を立てて歪み、融け始めていく。
生きたい。
もし、この人の隣に、ずっといられるのなら。この温かい手の中に、私の居場所があるのなら――。
そんな、生まれて初めて抱いた「生への執着」が、彼女の心に微かな灯火を灯した。しかしそれと同時に、彼女の身体に宿る『黒死の呪詛』が、その生への願いに反応するかのように、激しい拒絶の痛みを引き起こした。
「くっ……、あ……!」
エルセは突然、激しく咳き込み、胸を押さえて身をよじった。
彼女の口から、鮮血が溢れ出し、ジルヴェスターの黒い騎士服を赤く染めていく。
「エルセ!?」
「は……っ、はあ……、だい、じょうぶ……です……」
エルセは、血を拭いながら、必死に意識を保とうとした。しかし、視界は急速に狭まり、ジルヴェスターの焦燥に満ちた顔が、遠のいていく。
「待っていろ、今、魔力を――」
「だめ、です……殿下の魔力を、使えば……私の呪いが、また暴走……します……」
エルセは最後の力を振り絞って、彼の腕を止めた。そして、薄れゆく意識の中で、彼の紺色の瞳をじっと見つめた。
(あなたに出会えたから……私の、この短くて無意味だった人生は、きっと、幸せだったのよ……)
その言葉を、声にすることはできなかった。
エルセの身体から完全に力が抜け、彼女はジルヴェスターの腕の中へと、静かに倒れ込んでいった。
「エルセ! エルセ――!!」
離宮の静寂の中に、ジルヴェスターの絶望に満ちた叫びが、虚しく響き渡っていた。
運命の天秤は、二人の想いを乗せて、激しく狂いながら、破滅へと向かって傾き始めていた。




