冷えた紅茶と影の訪問者
王宮での夜会から公爵邸へと戻ったその夜、エルセは自室の床の上で、文字通り血を吐くような苦痛にのたうち回っていた。
豪奢な天蓋付きベッドに辿り着く気力すらなく、冷たい絨毯に顔を押し付け、自身の胸をきつく毟るようにかきむしる。喉の奥からせり上がる熱い塊を、手向けられた絹のハンカチに吐き出せば、そこにはどす黒い、魔力を帯びた血が点々と染みを作っていた。
「くっ……、あ、は……っ!」
心臓を太い針で何度も突き刺されるような激痛。それと同時に、全身の血液が沸騰し、今度は一転して凍りつくような、凄まじい悪寒が彼女を襲う。
これが『黒死の呪詛』の真の恐ろしさだった。ただ命を削るだけでなく、生きているその時間さえも、絶え間ない激痛によって地獄へと変える。
原因は分かっていた。あの夜庭園で、第二王子ジルヴェスターの暴走する魔力を抑えるために、自身の魔力を分け与えたからだ。
エルセの持つ魔力は、この呪いと深く結びついている。他者の負の魔力を中和することは可能だが、それは自身の生命力そのものを削り、呪いの侵食速度を爆発的に早めるという、文字通りの自傷行為に他ならなかった。
(……馬鹿なことを、したわね)
薄れゆく意識の淵で、エルセは自嘲気味に思った。
助けたところで、自分に得など何一つない。むしろ、死期が数日早まったかもしれないのだ。前世の記憶を持つ彼女にとって、あの第二王子はゲームの本筋に関わらない「背景のキャラクター」の一人に過ぎず、同情する義理などどこにもなかった。
だが、あの時の彼の、世界中から拒絶されたような瞳が、どうしても他人事とは思えなかったのだ。
「……でも、まあ。これで少しは早く……終われるのかしら……」
激痛の嵐が去り、身体が鉛のように重くなる中、エルセは微かに微笑んだ。
恐怖はなかった。あるのは、この終わりのない痛みから、ようやく解放されるという、深い安堵だけだった。彼女はそのまま、意識を深い闇へと沈めていった。
────
翌朝、エルセは何事もなかったかのように仕立てられたドレスを纏い、公爵家の朝食会へと足を運んだ。
顔色の悪さを隠すために、普段よりも厚めに白粉を塗り、唇には鮮やかな紅を差している。鏡の中の彼女は、相変わらず非の打ち所のない、冷酷で高慢な公爵令嬢の姿をしていた。
長い大理石のテーブルの席につくと、そこにはすでに、父であるクローネ公爵と、母、そして二歳年下の妹であるカトリンが揃っていた。
エルセが席についても、誰一人として「おはよう」の声をかける者はいない。それどころか、父親は王都新聞から目を離すことすらせず、冷淡な声を響かせた。
「エルセ。夜会で、また不手際をしでかしたそうだな」
その言葉に、エルセは優雅にナプキンを膝に広げながら、淡々とした口調で返した。
「不手際と申しますと……」
「とぼけるな。ルファード殿下と聖女リンが仲睦まじくされているのを見て、嫉妬のあまり途中で夜会を放棄し、姿を消したと聞いている。公爵家の人間としての自覚が足りんのではないか。殿下の婚約者としての地位を危うくしているのは、お前のその身勝手な振る舞いだ」
父親の言葉には、娘の体調を気遣うようなニュアンスは微塵も含まれていなかった。あるのは、クローネ公爵家の「面汚し」に対する苛立ちと、王家との繋がりが薄れることへの焦燥感だけだ。
隣では、母親が哀れむような、あるいは軽蔑するような視線をエルセに投げかけ、妹のカトリンは、お気に入りのジャムをトーストに塗りながら、くすくすと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「そうよ、お姉様。ルファード殿下は、聖女様と本当に素敵に踊られていたわ。お姉様がいくら睨みつけたところで、殿下の心はもうあの聖女様にあるのですもの。見苦しい真似は、お止めになった方がよろしいわ」
カトリンの言葉は、本来のエルセであれば、激高して食器を投げつけてもおかしくないほどの挑発だった。ゲームのシナリオであれば、ここで悪役令嬢エルセが怒り狂い、妹を怒鳴り散らすことで、さらに家族からの信頼を失うというイベントだ。
しかし、今のエルセは、ただ静かに冷えた紅茶を口に含んだ。
「……おっしゃる通りですわね、カトリン」
「え……?」
カトリンが、拍子抜けしたように目を見開く。反論されることを期待していた彼女にとって、エルセのそのあまりにも素直な、そして感情の籠もっていない同意は、奇妙以外の何物でもなかった。
「私のような至らぬ身では、ルファード殿下の良き伴侶とはなれぬでしょう。お父様、もし可能であれば、殿下との婚約の解消を、公爵家側からお申し出いただいても構いませんわ。私は、静かな領地で余生を過ごすだけでも満足でございます」
エルセが静かにそう告げると、食堂の空気が一瞬で凍りついた。
公爵は新聞を叩きつけるように机に置き、鋭い目で娘を睨みつけた。
「何を馬鹿なことを言っている! 王家との婚約を、我が家から破棄するなど、そんな不名誉が許されると思うか! お前が死ぬ気で殿下の心を繋ぎ止めるか、あるいはあちらから正式に告げられるまでは、公爵令嬢としての役割を全うしろ。死んでも、我が家に泥を塗ることは許さん」
(ああ、本当に。死んでも、ですか)
エルセは心の中で、小さく、乾いた笑いを漏らした。
実の父から「死んでも役割を果たせ」と言われているのだ。だが、その言葉に傷つくことすら、今のエルセには贅沢なことに思えた。あと数ヶ月もすれば、自分は本当に死ぬのだ。その時、この父親がどんな顔をするのか、少しだけ見てみたい気もしたが、それすらもどうでもいい。
「かしこまりました。お父様。私の言葉が軽率でしたわ」
エルセは席を立ち、完璧な礼法で一礼した。
「少々、気分が優れませんので、自室にて休ませていただきます。失礼いたします」
背後で父親が「相変わらず我儘な娘だ」と吐き捨てる声が聞こえたが、エルセは振り返らなかった。彼女の心は、すでにこの豪華な屋敷のどこにも存在していなかった。
────
それから数日、エルセは公爵邸の最上階にある自身の部屋から、ほとんど出ることはなかった。
彼女に与えられた部屋は、かつては贅を尽くした調度品で飾られていたが、今では彼女の希望により、必要最低限の家具だけが残され、まるで修道院の居室のように静まり返っていた。
窓からは、初夏の眩しい日差しが差し込んでいる。しかし、エルセの身体は常に冷え切っており、暖炉に火を灯したいほどだった。
彼女は、窓辺の椅子に深く腰掛け、本を読むでもなく、ただ外の景色を眺めていた。
彼女が静かに過ごしていると、部屋の扉がノックもなしに乱暴に開いた。入ってきたのは、例の年老いた侍女だった。彼女の手には、手紙が一切載っていない、空のトレイが握られている。
「お嬢様。下官の者が、お嬢様に面会を求めて参っております」
侍女の声には、明らかな不快感と侮蔑が混じっていた。
「面会? どなたかしら。私はどなたともお会いする約束はしていませんけれど」
「それが……名も名乗らず、薄汚れたフードを被った不審な男です。門番が追い返そうとしたのですが、王家の紋章が入った特殊な魔石を見せつけ、エルセ様に直接渡せと、これを置いていきました」
侍女がトレイの上に差し出したのは、一通の手紙だった。
封蝋には、一般の王族が使うものとは異なる、酷く簡素な、しかし確かにアルカディア王国の裏紋章――影の部隊が用いる鴉の意匠が刻まれていた。
エルセの脳裏に、あの夜の、深い紺色の瞳が蘇る。
(第二王子……ジルヴェスター殿下……?)
「……お嬢様、このような不審な者からの手紙など、即刻処分いたします。よろしいですね?」
侍女が手紙に手を伸ばそうとした時、エルセは冷徹な、しかし有無を言わせぬ声で遮った。
「置きなさい」
「しかし、お嬢様――」
「置きなさいと言っているのよ。私の耳が聞こえないとでも思っているのかしら? それとも、公爵令嬢である私に対する、クローネ家の使用人の態度が、これほどまでに不遜になったのかしら?」
エルセが碧眼を細め、冷たい視線を向けると、侍女は一瞬で顔を青くした。いくら見限られた悪役令嬢とはいえ、その身に宿る公爵家の血と、長年培われた威圧感は健在だった。
「……し、失礼いたしました」
侍女は慇懃無礼に頭を下げ、手紙を机の上に置くと、足早に部屋を出て行った。
一人残されたエルセは、手紙を取り上げ、ナイフで封を切った。
中から現れたのは、上質な紙に、驚くほど力強く、整った筆跡で書かれた短い文章だった。
『今夜、月の天頂の刻、貴女の私的庭園にて待つ。拒絶は受け入れない。――J』
呆れたような、しかし少しだけ可笑しさを感じるような、複雑な感情がエルセの胸に湧き上がった。
王子という身分でありながら、公爵邸に忍び込もうというのだろうか。それとも、あの夜の「気まぐれ」に対する報復か、あるいは何か別の意図があるのか。
「拒絶は受け入れない、なんて。本当に、不遜な殿下ですこと」
エルセは手紙を暖炉の残り火の中へと放り込んだ。紙が赤く燃え上がり、一瞬で灰へと変わっていくのを見つめながら、彼女は今夜の「密会」について考えを巡らせていた。
────
夜が更け、時計の針が深夜の十二時を指す頃。
クローネ公爵邸は、静寂に包まれていた。エルセは、普段着ているような豪華なドレスではなく、動きやすい黒いシンプルなドレスに身を包み、人目を忍んで自室のバルコニーから、邸の裏手にある私的庭園へと降りていった。
この庭園は、エルセが幼い頃に好んでいた場所だが、今では手入れをする庭師も滅多に来ないため、少し荒れ果てていた。しかし、今の彼女にとっては、人の目を避けるための最適な隠れ家だった。
月光が、庭園の中央にある古びた東屋を照らし出している。
そこには、昼間の手紙の通り、黒いフード付きの外套を深く被った人影が、静かに佇んでいた。
「……本当にいらっしゃるとは、驚きましたわ。第二王子、殿下」
エルセが意味深に声をかけると、その人影がゆっくりと振り返り、フードを外した。
現れたのは、あの夜よりもさらに鋭さを増したような、冷徹な美貌を持つジルヴェスターだった。彼の深い紺色の瞳が、闇の中で怪しく光っているように見えた。
「お前こそ、来ないかと思ったぞ。クローネ公爵令嬢」
ジルヴェスターの声は低く、心地よい響きを持っていたが、その警戒心は完全に解けてはいなかった。彼は東屋の柱に背を預けたまま、近づいてくるエルセをじっと凝視した。
「王族が、夜中に他家の令嬢の庭に忍び込むなど、見つかれば大きなスキャンダルになりますわよ。それとも、殿下は私を暗殺しにでもいらしたのかしら?」
「面白いな。だが、お前を殺す理由などない。……むしろ逆だ」
ジルヴェスターは一歩、エルセの方へと歩みを進めた。その動きはしなやかで、まるで獲物を狙う黒豹のようだった。
「あの夜以来、私の身体を苛んでいた魔力の暴走が、完全に治まっている。それどころか、いつも私を蝕んでいた内側の痛みが、嘘のように消え去った。……並の治癒術師や、聖女の力でさえ、私の魔力を抑えることはできなかったというのに、なぜ、お前にそれができた」
ジルヴェスターの問いは、彼がこの数日間、どれほどその疑問に囚われていたかを物語っていた。彼は、エルセが何らかの隠された強力な古代魔術の使い手か、あるいは自分を陥れるための特殊な「罠」を仕掛けたのではないかと疑っていたのだ。
エルセは小さくため息を吐き、東屋のベンチに腰掛けた。
「お座りになったらどうですか、殿下。立ち話をするには、私の身体は少々、疲れやすいのですわ」
「……」
ジルヴェスターは彼女の態度に一瞬眉をひそめたが、促されるままに、彼女と少し距離を置いた位置のベンチに腰を下ろした。
「質問に答えろ、エルセ」
「答え、ですか。あの夜も申し上げたはずですわ。ただの私の気まぐれ。それに、私は特別な魔術など使っておりません。ただ、私の持つ魔力の性質が、偶然、殿下の魔力と相性が良かった。それだけのことにございます」
「嘘を言うな」
ジルヴェスターが、低く鋭い声で一喝した。彼の瞳に強い光が宿る。
「私はあれから、王宮の隠し書庫の文献を調べ尽くした。私の魔力は、負の属性が極限まで高まった『変異魔力』だ。これを相殺できる魔力は、この世にただ一つしか存在しない。……それ自体が、強力な『負の呪い』によって変質した、生体魔力だけだ」
その言葉に、エルセの身体が一瞬、硬直した。
完璧に隠し通しているつもりだったが、彼は思った以上に聡明で、そして執念深かったらしい。
「お前の魔力に触れた時、私は感じた。あの、身が凍るような、圧倒的な『死の気配』を。あれは、ただの治癒魔術の光ではない。……エルセ、お前、その身体に何を宿している?」
ジルヴェスターの視線が、エルセの首元へと注がれる。
今夜の彼女のドレスは、首元が少し開いたデザインだった。月光の下、彼女の白い肌の上に、あの夜よりもさらに色濃く、さらに高くへと伸びた「黒い蔦の模様」が、微かに浮き出ているのが見えた。
ジルヴェスターが息を呑む音が、静かな庭園に響いた。
「それは……『黒死の呪詛』……か?」
彼の声には、驚愕と、そして信じられないというような動揺が混じっていた。王族である彼だからこそ、その呪病がどれほど絶望的なものであるかを知っていたのだ。
「……バレてしまいましたのね」
エルセは、隠すのを諦めたように、自身の細い指でその黒い模様をなぞった。その表情には、悲壮感も、同情を引こうとする意図も全くなかった。ただ、明日の天気の話でもするかのように、淡々としていた。
「ええ、おっしゃる通りですわ、殿下。私は生まれつき、この呪いに侵されております。そして、大陸中のあらゆる医師が告げました。私の命は、あと一年も持たない、と」
「…………」
「診断時でしたから、正確には、もう数カ月もございませんわね。次の薔薇の季節を迎える前に、私は土に帰るでしょう」
ジルヴェスターは言葉を失った。
目の前にいる少女は、世間から「傲慢で冷酷な悪役令嬢」と罵られ、婚約者である第一王子からは見捨てられ、家族からも冷遇されている。その彼女が、実は誰よりも過酷な、死の運命を背負って生きているという事実。
そして何よりも、彼を驚愕させたのは、彼女がその運命を、あまりにも静かに、当然のようにおののくこともなく受け入れている姿だった。
「なぜ……そんな顔ができる」
ジルヴェスターの声が、微かに震えていた。
「死ぬのだろう? あと僅かで、お前の人生は終わるのだぞ? なぜ、それほどまでに冷めた目で、自分の死を語れる。恐怖はないのか? 誰かに助けを求めようとは思わないのか!?」
彼の言葉は、彼自身の過去の叫びでもあった。生まれつき呪われた魔力を持ち、いつ暴走して死ぬか分からない恐怖と戦い続けてきた彼にとって、エルセの「諦め」は、理解しがたく、そして酷く胸を締め付けるものだった。
エルセは、そんな彼を、優しく、どこか慈しむような碧眼で見つめた。
「恐怖、ですか。昔はございましたわ。どうして私だけが、こんな目に遭わなければならないのかと、夜も眠れずに泣いたこともございます。……でも、ある時、気づいたのです。いくら抗っても、運命は変わらないのだと。ならば、残された時間を無駄な足掻きや、他者への嫉妬で汚したくはない。ただ、静かに、穏やかに終わりを迎えたい……。そう思うのは、そんなに悪いことですかしら?」
「お前……」
「殿下。あの夜、あなたを助けたのは、私の最後の我儘のようなものです。どうせ消えゆく命なら、少しでも誰かの痛みを和らげることができれば、私の無意味な人生にも、ほんの少しだけ価値があったと思えるような気がしたのです。ですから……どうか、お気になさらないでください」
エルセは立ち上がり、ジルヴェスターに向かって微笑んだ。
その微笑みは、月の光に透けてしまいそうなほどに儚く、そして、胸が痛くなるほどに美しかった。
「私のことは、放っておいてくださいませ。あなたには、これから長く、輝かしい未来があるはずです。私のような『死に損ない』に関わっている時間など、ございませんでしょう?」
そう言って、彼女は再び彼の前から立ち去ろうとした。
しかし、その細い手首が、今度は力強く、しかし決して痛めつけないような絶妙な力加減で、後ろから掴まれた。
「――放っておけるわけが、ないだろう」
ジルヴェスターの、地を這うような、しかし確固たる意志を秘めた声が、エルセの耳に届いた。
驚いて振り返ったエルセの目に飛び込んできたのは、見たこともないほどに激しい感情をその瞳に宿した、第二王子の姿だった。
「お前が私を救ったんだ。私のこの、呪われた人生に、初めて光をくれたのはお前だ。それを……自分は勝手に死ぬから放っておけだと? そんな不条理、私が認めると思うのか」
「殿下……?」
「エルセ・フォン・クローネ。お前が運命を受け入れているというなら、私はその運命を全力で否定してやる」
ジルヴェスターは、掴んだ彼女の手首を、自身の胸元へと引き寄せた。至近距離で、彼の紺色の瞳が、エルセの碧眼を射抜くように見つめる。
「お前の呪いを解く方法を、私が必ず見つけ出す。お前がどれだけ死を望もうと、私がそれを許さない。……お前を、絶対に死なせはしない」
それは、世界中を敵に回しても変わらないであろう、執念と、そして彼の中に初めて芽生えた、強烈な「生への渇望」の誓いだった。
エルセは、呆然とその言葉を聞いていた。
破滅ルートを回避する気力もなく、ただ静かに死を待っていた彼女の世界に、本来のシナリオには存在しなかったはずの、最も熱く、最も激しい光が、強引に割り込んできた瞬間だった。
(ああ、本当に……困った人……)
エルセの胸の奥で、冷え切っていた何かが、微かに音を立てて揺らぎ始めていた。




