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【完結】余命一年の悪役令嬢、最初で最後の恋をする  作者: 逆立ちハムスター


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硝子細工の余生

その日、エルセ・フォン・クローネは、鏡に映る自身の姿をただ静かに見つめていた。

豪奢な縦ロールに巻かれた燃えるような赤髪。切れ上がった切れ味の鋭い碧眼。高慢に突き出された顎。どこからどう見ても、前世の記憶にある乙女ゲーム『ルナリアの聖歌』に登場する、典型的な悪役令嬢の姿そのものであった。

本来のシナリオであれば、彼女はこの美貌と家柄を笠に着て、平民出身の「聖女」であるヒロインを徹底的に虐め抜き、最終的には婚約者である第一王子から婚約を破棄され、国外追放か処刑の憂き目に遭うはずだった。


しかし、エルセの胸中には、破滅の運命を恐れる焦りも、シナリオを覆そうという気概も、あるいは聖女への嫉妬も、何一つとして存在していなかった。


「……また、少し広がったわね」


エルセは細い指先で、自身の白い鎖骨のあたりに触れた。ドレスの襟元を少し引き下げると、そこには雪のような肌を侵食するように、禍々しい黒い蔦の模様が這い回っている。それはまるで、心臓へ向かって根を伸ばす毒草のようであった。


『黒死の呪詛』。


それが、エルセが生まれながらにしてその身に宿している不治の呪病の正体だった。

前世の記憶を取り戻したのは、十歳の時に高熱で生死の境を彷徨った時のことだ。その時にはすでに、この呪いは彼女の身体を蝕み始めていた。公爵家という至高の権力と財力をもってしても、大陸中の名医や高名な治癒魔術師を呼び寄せても、この呪いを解く方法は見つからなかった。

彼らが一様に首を横振り、気の毒そうな、あるいは腫れ物に触れるような視線を向けて告げた言葉を、エルセは今でも鮮明に覚えている。


『あと、一年です。クローネ公爵令嬢の命は、次の薔薇の季節を迎えることはできないでしょう』


その宣告を受けた時、エルセは泣きもしなければ、取り乱しもしなかった。ただ、「そう。やっぱりね」と、妙に納得したのを覚えている。

前世のゲーム知識によれば、悪役令嬢エルセはゲームの開始時点で、なぜか常に顔色が悪く、いつも苛立っていた。それは彼女の性格が破綻していたからではなく、この呪いによる激痛と、死への恐怖に苛まれていたからではないか――転生したエルセは、そう結論づけていた。


余命、あと一年。

そう知った瞬間から、エルセの中で何かがぷつりと切れた。

どうせ死ぬのだ。ならば、ゲームのシナリオがどう動こうが、破滅ルートが待ち受けていようが、自分には関係のないこと。婚約者である第一王子が聖女と仲睦まじく語らっていようが、それを止めに行く気力すら湧かない。

エルセはただ、残された短い時間を、誰にも邪魔されず、静かに、痛みを堪えながら過ごしたかった。


しかし、周囲はそれを許さなかった。

彼女が夜会を欠席しがちになり、他者との交流を断つと、世間はそれを「傲慢な公爵令嬢が、身分の低い者たちを見下して引きこもっている」と解釈した。第一王子に執着しなくなった姿は、「王太子の気を引くための、悪質な駆け引き」と噂された。

実の家族である公爵夫妻でさえ、長女であるエルセの余命を知ると、早々に彼女を見限った。彼らにとって、死にゆく娘はクローネ家の利益を生まない不良債権に過ぎない。彼らの関心はすでに、健康な次女へと移っていた。


「お嬢様、そろそろお時間でございます」


背後から、年老いた侍女の冷ややかな声が響いた。彼女もまた、エルセを「死に損ないの悪役令嬢」として、事務的に扱う人間の一人だった。


「ええ、分かっているわ」


エルセは深くため息を吐き、胸元の呪いを隠すように、首元の詰まったレースのドレスの襟を直した。

今夜は、王宮で開催される初夏の建国記念夜会だった。公爵令嬢としての義務があり、どうしても欠席が許されなかった最後の社交。エルセは、これが自分の人生で最後の華やかな舞台になるだろうと、どこか他人事のように確信していた。


---


王宮の大舞踏会は、光と音楽、そして欺瞞に満ち溢れていた。

きらびやかなシャンデリアの光が床を照らし、着飾った貴族たちが、ワイングラスを片手に中身のない会話を交わしている。

エルセが会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が一瞬で凍りついたのが分かった。ひそひそという囁き声が、波紋のように広がっていく。


「見ろ、クローネ公爵令嬢だ……」

「相変わらず不遜な態度だな。最近は第一王子殿下にも冷淡だとか」

「聖女様に嫉妬しているのよ。自分が相手にされないからって、当てつけのように引きこもって」


向けられるのは、侮蔑と好奇、そして嫌悪の視線。

かつてのエルセであれば、その美貌を怒りに染めて言い返していたかもしれない。しかし今の彼女にとって、これらの言葉はすべて、遠い世界の雑音に過ぎなかった。

心臓の奥が、ずきりと鋭く痛む。呪いが確実に、彼女の命の灯火を削り取っている証拠だった。痛みを顔に出さないよう、エルセは鉄の仮面のような澄ました微笑を浮かべ、壁際へと歩を進めた。


ふと視線を中央に向けると、そこには眩いばかりの光景があった。

金髪を輝かせる第一王子ルファードが、優しげな笑みを浮かべ、その隣にいる純朴そうな少女――聖女リンの細い手を握っている。周囲の貴族たちは彼らを祝福の言葉で包み込み、まるでそこだけが世界の中心であるかのようだった。


(ああ、本当に綺麗な世界ね)


エルセは、嫉妬ではなく、純粋な感嘆の念を抱いた。あの中には、自分の居場所など最初からなかったのだ。そして、それでいいと思った。

息が苦しい。人の熱気と、香水の強い匂い、そして胸の痛みが重なり、エルセは目眩を覚えた。これ以上、この場所に留まるのは無理だと判断した彼女は、誰にも気づかれないようにそっと舞踏会会場を抜け出した。


目指したのは、王宮の華やかな表舞台からは遠く離れた、北側に位置する古い庭園だった。

そこは、手入れが行き届いた南庭とは異なり、雑草が生い茂り、崩れかけた石壁が夜露に濡れる、忘れ去られた場所だ。夜会の喧騒も、ここまでは届かない。

エルセは大きく息を吸い込んだ。夜の冷たい空気が、熱を持った肺を冷やしてくれる。


「……静か。やっぱり、私にはこういう場所がお似合いだわ」


古びたベンチに腰掛け、夜空を見上げる。満月が、青白い光を静かに投げかけていた。

あと何度、この月を見られるだろうか。秋の訪れを感じる頃には、自分はもう動けなくなっているかもしれない。冬の雪を見ることは、きっと叶わない。

寂しさはあった。しかし、それ以上に「やっと楽になれる」という、奇妙な安堵感が彼女の心を支配していた。誰も自分に期待せず、自分も誰も愛さない。ただ静かに消えていくだけの人生。


そう思った、その時だった。


「――っ、はあ、あ……くそ、動くな……!」


静寂を破り、低く掠れた声が聞こえてきた。

驚いてエルセが声のする方を向くと、庭園の隅にある大きな影――生い茂る木々の合間に、人影がうずくまっているのが見えた。

エルセは一瞬、無視して立ち去ろうかと考えた。余計なトラブルに巻き込まれるのは、今の彼女の望むところではない。しかし、その苦しげな呼吸の音は、あまりにも尋常ではなかった。まるで、かつて自分が呪いの発作でのたうち回った時のそれと、酷似していたのだ。


身体が、考えるよりも先に動いていた。どうせ長くない命だ。今更、誰かにどう思われようが、どんな危険に晒されようが、失うものなど何もない。


エルセはドレスの裾を持ち上げ、草をかき分けてその人影へと近づいた。

月の光が、うずくまる男の姿を露わにする。

漆黒の髪に、鋭い夜空のような深い紺色の瞳。整った、しかしどこか影のある冷徹な美貌。彼は自身の左腕を強く抑え、荒い息を吐いていた。その左腕からは、禍々しい紫色の「魔力の暴走」特有の光が漏れ出している。


(この人は……確か、第二王子の……)


エルセの脳裏に、記憶がフラッシュバックする。

ジルヴェスター・アルカディア。

第一王子ルファードの異母弟であり、側妃の子。生まれつき強大すぎるがゆえに制御不能な「歪んだ魔力」を持ち、周囲からは『呪われた王子』『冷血の出来損ない』と忌み嫌われ、王宮の片隅で徹底的に冷遇されている第二王子。

ゲームのシナリオでも、彼はほとんど表舞台に出てくることはなく、悪役令嬢であるエルセとも、接点など皆無に等しい存在だった。


「……誰だ」


ジルヴェスターが、殺気を含んだ瞳でエルセを睨みつけた。その身体は激しく震えており、暴走する魔力を抑えるために、全精神を削っているのが見て取れた。


「近寄るな……。消えろ。さもなければ、お前を消し飛ばすことになるぞ」


容赦のない拒絶の言葉。しかし、エルセの心は微塵も揺らがなかった。むしろ、彼の瞳の奥にある、深い孤独と絶望が、自分自身のものと重なって見えた。


「脅しとしては、少し迫力に欠けますわね、第二王子殿下」


エルセは、普段の「高慢な公爵令嬢」の口調のまま、しかし足取りは穏やかに彼へと近づいた。


「お前……クローネ公爵家の……! なぜここに……っ、くは!」


ジルヴェスターがさらに言葉を重ねようとした瞬間、彼の左腕から紫色の雷光のような魔力が弾け、周囲の地面を抉った。すさまじい衝撃波が走るが、エルセは歩みを止めない。


「止まれと言っているのが分からないのか! 私は魔力を制御できない! 死にたいのか!?」


「ええ、別に構いませんわ」


エルセは、こともなげに言い放った。

その声音には、恐怖も、侮蔑も、あるいは自己犠牲の悲壮感すらもなかった。ただ、どこまでも平坦で、澄み切った「諦め」だけがあった。


ジルヴェスターが驚愕に目を見開く中、エルセは彼の前に膝をついた。高価なシルクのドレスが泥に汚れるのも気に留めず、彼女は自身の白い、細い両手を、ジルヴェスターの暴走する左腕へと、躊躇なく重ねた。


「なっ……何をする!?」


「静かに。じっとしていらして」


エルセの掌から、微かな、しかし信じられないほどに清らかな光が染み出していった。

それは、彼女の身体に宿る『黒死の呪詛』が、皮肉にも彼女の生命力を変換して作り出している、純度の高い「負の魔力を相殺する」特異な魔力だった。本来なら、自分の寿命を縮めるだけの手慰み。だが、今の彼女には、それを惜しむ理由がなかった。


エルセの光が触れた瞬間、ジルヴェスターの腕を焼いていた禍々しい紫の炎が、嘘のように静まっていった。荒れ狂っていた彼の魔力が、エルセの冷たい手のひらを通じて、急速に宥められていく。


「これは……どういう、ことだ……」


ジルヴェスターの呼吸が、次第に整っていく。彼は信じられないというように、自身の腕と、それを包み込むエルセの手を見つめた。

彼の歪んだ魔力は、並の治癒魔術師では触れることすらできず、触れれば拒絶反応で術者が弾き飛ばされる代物だ。それなのに、目の前の少女は、激痛に眉一つ動かすことなく、彼の魔力を優しく包み込み、中和している。


しかし、ジルヴェスターは気づいていなかった。

彼に魔力を分け与えるたび、エルセの胸の奥で、黒い蔦がさらに深く心臓へと牙を立てていることを。エルセの顔から、急速に血の気が引いていく。


「……ふぅ、これくらいで、よろしいかしら」


魔力の暴走が完全に収まったのを見届け、エルセはそっと手を引いた。

立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと大きく揺れる。足の感覚が消えかけ、彼女の身体が地面へと崩れ落ちそうになった。


「おい、大丈夫か!?」


咄嗟に、ジルヴェスターの強い腕が彼女の細い肩を支えた。

至近距離で交わる視線。ジルヴェスターの紺色の瞳には、先ほどの殺気は消え失せ、純粋な困惑と、そして隠しきれない動揺が浮かんでいた。

彼の手から伝わる体温が、妙に温かい。エルセは、他人の温もりに触れたのがいつ以来だったかを思い出そうとして、諦めた。


「……不作法をお許しください、殿下。少々、夜風に当たりすぎたようですわ」


エルセは、彼の腕から静かに身を引き、何とか自分の足でしっかりと立った。そして、いつものように傲然とした、しかしどこか儚い微笑みを浮かべる。


「なぜ……私を助けた」


ジルヴェスターが、掠れた声で問うた。

その瞳には、深い警戒の色がまだ残っている。王宮の誰もが自分を忌み嫌い、陥れようとする中で、突然現れた「悪名高き公爵令嬢」が、自らの身を危険に晒して自分を救ったのだ。何か裏がある、そう考えるのが、彼にとっての常識だった。


「目的は何だ? 私に取り入って、ルファードへの当てつけにでもするつもりか? それとも、クローネ公爵家の新たな陰謀か」


投げかけられる辛辣な疑惑の言葉。

普通の令嬢であれば、屈辱に身を震わせるか、あるいは必死に言い訳をするところだろう。しかし、エルセはただ、くすりと小さく笑った。その笑い声は、夜の静寂に溶けていく硝子細工のように繊細だった。


「目的、ですか。そんな大層なものはございませんわ」


エルセは夜空を見上げ、それからジッとジルヴェスターを見つめ返した。


「ただ、あなたがとても苦しそうでしたから。それだけです」


「……それだけ? 冗談を言うな。お前はあの、傲慢で冷酷なエルセ・フォン・クローネだろう」


「ええ、世間ではそのように言われておりますわね。ですから、今夜のことも、ただの私の気まぐれ。あるいは、悪役令嬢の退屈しのぎとでも思ってくだされば結構です」


そう言って、エルセは優雅に一礼した。ドレスの裾が美しく翻る。

これ以上ここにいれば、本当に倒れてしまう。彼女の身体は、すでに限界を迎えていた。


「それでは、お先に失礼いたします。殿下も、あまり夜更かしは身体に障りますわよ」


「待て、クローネ!」


ジルヴェスターが呼び止める声を背に受けながら、エルセは振り返ることなく、暗い庭園の小道を歩き去っていった。

その足取りは、どこか浮世離れしていて、まるで今にも夜霧に溶けて消えてしまいそうだった。


残されたジルヴェスターは、自分の左腕をじっと見つめていた。

いつも彼を苛んでいた、焼き付くような魔力の痛みが、完全に消えている。それどころか、彼女が触れていた場所には、微かな、しかし酷く冷たい『死の気配』の名残が感じられた。


「……あいつは、一体何なんだ」


噂に聞く「稀代の悪役令嬢」の姿は、そこにはなかった。

彼の目に映ったのは、自身の死すらも当然のように受け入れ、世界のすべてに絶望しながらも、他者の痛みにだけは静かに手を差し伸べる、あまりにも孤独で、あまりにも美しい、一人の少女の姿だった。


ジルヴェスターの胸の奥で、今まで感じたことのない、奇妙なざわめきが生まれ始めていた。それが、彼の運命を、そして彼女の残された短い人生を大きく変える歯車になるとは、この時の彼はまだ、知る由もなかった。

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