凍てつく世界の境界線
ガタゴトと、規則正しく不快な振動が、エルセの背骨を通じて脳を揺らし続けていた。
彼女が乗せられたのは、公爵家の紋章などどこにも隠されていない、それどころか窓に頑丈な鉄格子が嵌められた、囚人護送用とさして変わらない粗末な木製の馬車だった。座席にはまともなクッションもなく、ただ硬い板張りの上に薄い毛布が敷かれているだけだ。かつて極上の絹と極薄の綿に包まれて育った公爵令嬢に対する扱いとしては、これ以上ないほどの明確な「拒絶」と「格下げ」の意思表示であった。
しかし、エルセはその硬い座席に身を預けながら、ただ静かに窓の外を眺めていた。
王都を出発してから、すでに二週間が経過している。
南の温暖な気候とは裏腹に、馬車が北へと進むにつれて、流れる景色は目に見えて荒涼としたものへと変わっていった。瑞々しい緑の森は徐々に背の低い針葉樹林へと姿を変え、地表を覆う草の色は、まるで生命力を失っていくエルセの肌のように、灰色がかった拒絶の色を帯び始めていた。
(……ああ、本当に、色彩が薄くなっていくわね)
エルセは、自身の白い手のひらを顔の前にかざしてみた。
驚くべきことに、彼女の視覚はここ数日で急速に減退していた。世界の輪郭がぼやけ、色彩の鮮やかさが失われ、まるで古いモノクロの写真を見ているかのような感覚に陥る。五感が一つずつ、丁寧に、しかし確実に奪われていく。
味覚が消え、触覚が鈍くなり、そして今度は視覚だ。次は何が消えるのだろうか。聴覚だろうか。それとも、この微かに刻まれている心臓の鼓動そのものだろうか。
前世の記憶にある乙女ゲーム『ルナリアの聖歌』において、悪役令嬢エルセの結末は、ヒロインである聖女リンを害そうとした罪によって、第一王子ルファードから大衆の前で婚約を破棄され、そのまま国外へ追放されるというものだった。
現在の状況は、ある意味でそのシナリオの強制力に沿っていると言えなくもなかった。だが、決定的に異なるのは、彼女が聖女を虐める前に、自らの内なる呪いによって自滅し、公爵家から進んで籍を消されたという点だ。
(私が死んでしまえば、この後のゲームの展開はどうなるのかしらね……)
ルファードは聖女リンと結ばれ、この国に輝かしい光をもたらすのだろう。そして、エルセの代わりに公爵家の地位を引き継いだ妹のカトリンは、どのような役割を果たすのか。
どうでもいいことだったけれど、彼らがどのような未来を歩むのか、あと数ヶ月でこの世から消え去るエルセには、何の関係もないことだったけれど、他に気になる事がなかったのだ。例外として、彼女にとっての唯一の懸念は――。
『お前の短い人生が幸せだったというなら、それをこれから先、何十年も、嫌というほど長引かせてやる』
耳元に吹き付けられた第二王子の恐ろしいほどに一途な誓いの言葉。それが、エルセの胸の奥で、消えない小さな火種のように燻り続けていた。
ジルヴェスター。生まれながらに呪われた魔力を持ち、誰からも顧みられなかった孤独な王子。彼は本当に、王族としての身分を捨てて自分を追ってくるのだろうか。
もし、それが本当なら、自分は彼の未来を永遠に奪ってしまうことになる。それだけは、絶対に避けなければならないと、エルセは鈍くなった頭で何度も何度も思考を巡らせていた。
「おい、死に損ない。飯だ。さっさと食え」
馬車が一時的に停車し、小窓から無造作に放り込まれたのは、石のように硬く焼かれた麦パンと、泥が混じったような濁った水が入った木の器だった。
護衛として同行している兵士たちは、王都の近衛兵ではなく、クローネ公爵家が雇い入れた素行の悪い傭兵崩れのような男たちだった。彼らにとって、王都から追放された「追放令嬢」の護送など、割の合わない退屈な仕事でしかない。
「おいおい、手元が見えてねえのか? 随分とノロノロしてやがるな」
「放っておけよ。どうせ北の療養所(監獄)に着く頃、のたれ死んでるさ。公爵家からも『途中で死んでも構わん』と言われてるんだ、俺たちが過保護に扱う必要はねえ」
鉄格子の向こうから、男たちの下卑た笑い声が聞こえてくる。
エルセは、感覚の麻痺した指先でなんとか硬いパンを拾い上げ、小さく千切って口へと運んだ。味など全くしない。まるで砂を噛んでいるかのようだったが、彼女は表情一つ変えずに、それを喉の奥へと押し込んだ。
男たちの侮蔑の言葉に、怒りも悲しみも湧かなかった。むしろ、彼らの言う通り、このまま道中でひっそりと息を引き取ることができれば、どれほど楽だろうか、とさえ思っていた。そうすれば、ジルヴェスターが自分を探し出す前に、すべてを終わらせることができるのだから。
しかし、彼女の内に宿る『黒死の呪詛』は、まるで彼女に「安易な死」を選ぶことさえ許さないかのように、その生命力をギリギリのところで繋ぎ止めていた。心臓を締め付ける黒い蔦は、彼女が「生きたい」と願った時には激痛という拒絶を返し、彼女が「死にたい」と諦めた時には、その肉体を現世に縛り付ける鎖となった。なんという皮肉な呪病だろうか。
────
王都を出発してから三週間。馬車はついに、アルカディア王国の最北端、生存境界線とも呼ばれる不毛の地へと到達した。
そこは、見渡す限りの白銀の世界だった。初夏を迎えているはずの王都とは完全に切り離された、万年雪に覆われた険しい山脈の麓。吹き付ける風は刃のように鋭く、馬車の隙間から容赦なく冷気を侵入させて、エルセの身体を凍えさせた。
ガタリ、と馬車が大きな音を立てて完全に停止した。
「着いたぞ、降りろ」
乱暴に扉が開けられ、冷たい吹雪がエルセの顔に吹き付けた。
エルセは何とか立ち上がろうとしたが、長旅の疲労と寒さで、足の感覚が完全に消失していた。座席から這い出るようにして馬車から転がり落ちると、彼女の身体は冷たい雪の中に深く沈み込んだ。
「本当に歩けねえのか。面倒な荷物だ」
護衛の男たちは、雪の中に倒れ込んだエルセを抱き起こそうともせず、ただ目の前にある建造物を指差した。
「ほら、そこがお前の新しい家だ。多分な。じゃあな、公爵令嬢様」
男たちは、エルセの荷物が入った小さな革袋を雪の上に放り投げると、二度と振り返ることなく馬車を反転させ、来た道を猛スピードで引き返していった。彼らにとって、この極寒の地に一秒でも長く留まることは、死を意味していたからだ。
完全に孤立した白銀の世界の中で、エルセはゆっくりと頭を上げた。
霞む視界の先に見えたのは、崩れかけた石造りの、まるで巨大な墓標のような建物だった。かつては教会の施設だったのだろうが、今では窓ガラスのほとんどが割れ、壁には深い亀裂が走り、周囲を生い茂る枯れ木が不気味に囲んでいる。
人の気配は、全くない。療養所とは名ばかりで、ここには医師も侍女もいない。ただ、王宮や貴族社会から「不都合」として排除された者たちが、誰にも知られずに凍死するためだけに用意された、世界の果てのゴミ捨て場だった。
(……静か。本当に、静かな場所ね)
エルセは、雪の冷たさを感じない手で、自らの身体を抱きしめた。
不思議と、悲壮感はなかった。むしろ、この圧倒的なまでの世界の拒絶が、彼女の心に妙な居心地の良さを与えていた。ここなら、誰も自分を悪役令嬢と罵る者はいない。誰の期待を裏切ることもない。ただ、この白い雪に包まれて、静かに、硝子細工のように壊れていけばいいのだ。
彼女は最後の力を振り絞り、雪の中に落ちていた革袋を掴むと、這うようにして療養所の重い木製の扉を押し開けた。
内部は、外よりもさらに薄暗く、凍りついた空気が澱んでいた。
長い廊下の左右には、いくつかの扉が並んでおり、どの部屋も埃と蜘蛛の巣にまみれていた。エルセは一番手前にある、辛うじて扉が残っていた小さな部屋へと入り、その床の上に力尽きたように倒れ込んだ。
暖炉はあるが、薪などどこにもない。窓から吹き込む雪が、部屋の隅に小さな山を作っている。
エルセは、壁に背を預け、膝を抱え込んだ。
激しい悪寒が、彼女の身体の内側から突き上げてくる。呪いの蔦が、今まさに彼女の心臓の最も深い部分へと、その根を伸ばしきろうとしているのが分かった。視界はほぼ完全に闇に包まれ、耳の奥で、キーンという不快な耳鳴りだけが響いている。
(私の人生は……ここで、終わるのね)
前世でゲームをしていた頃、エルセの死に様など、画面の向こう側の出来事でしかなかった。しかし今、こうして自らがその結末を迎えるにあたって、彼女が抱いたのは、ただ一つの、小さくて不条理な「未練」だった。
(最後にもう一度だけ……あの瞳を……見たかったわ……)
ジルヴェスター。
自らの運命を呪っていた彼が、自分のために見せた、あの涙。あの熱い掌の温もり。
彼の無事を願いながらも、心のどこかで、彼の存在を求めてしまっていた自分。悪役令嬢のくせに、あまりにも身の程知らずで、贅沢な願いだ。
「……ごめんなさい、ジルヴェスター殿下。私は……あなたの手を、握り返すことは……できなかったわ……」
感覚を失った唇から、微かな、掠れた声が零れ落ちる。
エルセはゆっくりと、その重い瞼を閉じた。このまま目を閉じれば、二度と目覚めることはない。それは、彼女がずっと望んでいた、完璧な「余生の終わり」のはずだった。
――バァン!!!
その時、療養所の重い正面扉が、凄まじい衝撃音と共に叩き割られるような音が、エルセの微かな聴覚に届いた。
激しい足音が、凍りついた廊下を一直線にこちらへと向かってくる。
(……幻聴、かしら。それとも、迎えにきた死神の……)
「エルセ――!!!」
その部屋の扉が、凄まじい力で蹴り開けられた。
吹き込んできたのは、冷たい雪風だけではない。それを遥かに凌駕する、圧倒的なまでの、禍々しくも清らかな「魔力」の嵐だった。
エルセが、驚愕に震える瞼を何とか持ち上げると、そこには、吹雪をその身に纏ったかのような、一人の男の姿があった。
漆黒の髪。夜空をそのまま切り取ったかのような、深い、深い紺色の瞳。
かつての華美な王族の衣類はどこにもなく、動きやすい黒い旅装に身を包み、その手には、いくつもの魔導書が詰め込まれた大きな鞄が握られていた。彼の顔には、激しい旅の疲労と、そして狂気にも似た焦燥感が刻まれていたが、その瞳の光だけは、世界のどんな太陽よりも強く、燃え盛っていた。
「殿……下……? なぜ……ここに……」
エルセの声は、もう形にすらなっていなかった。ただの空気の震え。しかし、男はそれを確かに聞き取った。
「言ったはずだ、エルセ」
ジルヴェスターは、大きな鞄を床に投げ捨てると、一歩でエルセの元へと駆け寄り、その凍りついた身体を、自らの強い腕で力任せに抱きしめた。
彼の身体は、走ってきたせいか、驚くほど熱かった。その熱が、エルセの死にかけた肉体へと、強引に流し込まれていく。
「お前が世界の果てへ行くというなら、私も共に行く、と。お前が運命を受け入れるというなら、私はその運命の喉元に剣を突き立てる、と!」
「だめ……です……。王族の、地位を……捨ててまで……」
「そんなものは、お前の命の重さに比べれば、ただのゴミ屑だ!」
ジルヴェスターは、エルセの顔を自らの両手で包み込んだ。彼の大きな掌が、彼女の冷え切った頬を包み、強引にその体温を分け与える。
「見ろ、エルセ。私は、ただお前を追ってきたわけではない」
彼は、自らの懐から、一本の小さな、しかし眩いばかりの銀色の光を放つ硝子瓶を取り出した。その中には、一滴の、神秘的な輝きを放つ、生命の結晶のような液体が揺れていた。
「これは……まさか……」
「『万象の雫』だ。王宮の禁書庫の裏ルートから、影の部隊を使って北の隠れ里の位置を特定し、道中の魔獣をすべて叩き潰して、手に入れてきた。……お前の呪いを解くための鍵だ」
ジルヴェスターの紺色の瞳から、一筋の、熱い涙が溢れ、エルセの額へと落ちた。
彼は、本当にやったのだ。人類が足を踏み入れたことのない禁忌の地へ、王籍を捨てたその足で直行し、自らの命を限界まで削りながら、おとぎ話の遺物をその手で掴み取ってきたのだ。すべては、この死を待つだけの令嬢を、救うためだけに。しかしエルセはどこか察していた。彼が嘘をついている事を。
「君は『あなたに出会えたから幸せだった』と言ったな。……ふざけるな、そんな短い幸せで満足されてたまるか」
ジルヴェスターは、硝子瓶の栓を引き抜き、その銀色の液体を、自らの口に含んだ。そして、驚愕に目を見開くエルセの、感覚の消えかけた唇へと、自らの唇を重ねた。
「ん……っ!?」
彼の熱い唇を通じて、強烈な、身体の芯を焼き尽くすような生命の奔流が、エルセの体内へと流れ込んできた。
それは、彼女の体内で暴れていた『黒死の呪詛』の蔦と真っ向から衝突し、凄まじい衝撃波となって彼女の神経を駆け巡った。消えかけていた五感が、その激しい痛みを伴って、一瞬で強制起動される。
「はあ……っ、あ、くっ……!」
唇が離された時、エルセは激しく呼吸を乱しながら、ジルヴェスターの胸元を強く掴んでいた。彼女の碧眼には、先ほどまでの死の諦念ではなく、本物の、鮮やかな「生」の光が、涙と共に溢れていた。
「痛むか? 苦しいか? ……それが、生きているということだ、エルセ」
ジルヴェスターは、彼女をさらに強く抱きしめ、その耳元で、揺るぎない、絶対的な愛の言葉を囁いた。
「この療養所で、私たちの本当の生活を始めよう。君の呪いのすべてを、私がこの手で必ず解く。君がどれだけ死を望もうと、私はその細い手を、絶対に離さない。……最期まで、私は君の隣にいる」
凍てつく世界の果て、荒れ果てた療養所の一室で。
世界から捨てられた悪役令嬢と、自ら世界を捨てた黒い王子。二人の、狂おしいほどに純粋で、「運命への反逆」が幕を開けたのだった。
しかし、エルセは──その熱い抱擁の最中、かすかに身を震わせていた。
五感を取り戻した身体に伝わる、彼の心臓の激しい鼓動。その熱。
それらは間違いなく本物であるはずなのに、彼女の魂は、彼が紡いだ絶対の誓いの言葉に、決定的な「偽り」の響きを聴き取っていた。
彼女の背筋を凍らせたのは、その疑念の直後に這い上がってきた、言葉にできない不気味な違和感だった。
激しい吹雪の音に混じり、耳の奥で、何かが不自然に噛み合うような、冷徹な音が聞こえた気がした。
彼の肩越し、誰もいないはずの薄暗い部屋の隅。そこには、ただの影にしてはあまりにも濃密で、どろりとした「異質」が、息を潜めて佇んでいる気配があった。
人間のものではない、圧倒的な超越者の視線。
それは、傷つき、狂いながらも自分を救いにきたこの美しい王子を、実にかわいそうなものを見るように、そして底知れない愉悦を孕んで見下ろしているかのような、底冷えする不気味さを放っていた。
彼がこの奇跡の雫を手に入れるために、本当はどこへ行き、何と出会い、何を支払ったのか。
エルセには分からなかった。ただ、いま自分たちを包み込んでいるこの至高の幸福が、その不可解な影の手のひらの上で、最初から仕組まれていたことであるような、そんな戦慄だけが胸を支配していく。
「……殿下」
エルセは溢れそうになる恐怖を胸の奥へ押し込み、彼の首に、そっと力を込めて腕を回した。
その不気味な気配の正体を、彼女は知らない。知る由もなかった。ただ、二度と離れないと誓い合う二人の影のすぐ隣で、暗い深淵の気配が、一瞬だけ色濃く、静かに蠢いただけだった。




