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四  異変 ②

 だが医者と顔を合わせたキアラに、そこまでの余裕はなかった。正しくは娘を気づかうあまり、機会を逸してしまったというべきか。連れていった病院はピエモンテ州でも、最も規模の大きなトリノ県立総合病院。目の前にいる女医は州内でも一、二を争う内科の名医であると待合室で耳にしていた。その女医が診察の傍ら、キアラに向け頻繁に視線を投げかけるのだ。名札には「シモーナ・シモーネ」と書かれている。

「それじゃ、背中を見せて」

 服を上にまくりあげたメイヴを、今度は後ろに向かせて聴診器を当て、喉の奥を覗きこみ、ベッドに寝かせ身体のところどころに指を当てる。診察の内容は風邪などのときと何ら変わらず、メイヴの方でも特別な反応は示していない。それでもキアラは、シモーナの眼差しが妙に気になって仕方がなかった。メイヴの状態を考え、違法の中絶手術を黙認してくれることを確認のうえでわざわざ数少ない女医を指名したのに、様々な方法で診察をするたび妙に怪訝そうな顔を見せる。また歳が五十ちかいにも関わらず、長く伸ばした見事な赤毛もあって随分と若く見え、白衣を着ていなければ医者とは思えない容姿がその険しい表情を余計に際立たせていた。シモーナはひととおり診察を終えると、キアラの方に向きなおる。

「私の目から見て、異常はありません。ですのでこの後、X線撮影を行います。娘さんには先に行っていただいてよろしいですね。お母さまは、こちらで少しお話を」

「メイヴ。一人で大丈夫かしら」

 キアラは、にわかに顔を曇らせる娘を見た。母親と離れるのが怖いのか震えており、首を縦に振るも服を着る手をいちど止める。

「お母さんも一緒に来て」

「分かったわ。すぐそこの部屋の前で待ってて」

 そう言うとメイヴは看護師に促され、荷物をまとめて診察室を出ていく。扉がしっかりと閉められたあとで、シモーナはカルテを書き終えペンを手放した。キアラが代わって椅子に座ると、相変わらず難しい顔で口を開く。

「まだ断言はできませんが、娘さんの体調不良は内科でも外科でもなさそうです。骨折や打撲なら腫れがありますし、暴行を受けて内臓から出血しているのなら別の症状が出るはずです。中絶手術の影響については経過観察の必要がありますが、場合によっては精神科も受診された方がよいかも知れません」

 メイヴがどんな仕打ちを受けたか、魔女宗の件には触れず事前に話をしておいた。そのうえでシモーナは、おそらく食欲不振や体重の減少が精神的な要因にあると見ている。娘の不調が内科や外科で解決できれば、どれだけキアラは救われただろうか。何しろ自身が精神科に罹った経験がないのだ。どのような治療が行われるかも分からず、脳をいじくり回すような手術を施されるのではと勝手に想像してしまう。すでにメイヴのことで頭が一杯になっていた。

「やはり暴力を受けたことが、身体の変調に繋がっているのですか。話にはよく聞きますが、私の娘がそうだとは分からないものですから」

「私は精神科の専門ではないので、断言はできません。しかし身近な人の死や、不幸な事故が続くと精神面の影響が出るのは事実です。お分かりですね。言うまでもなく性的暴行や中絶手術は心身に大きな苦痛も伴うものですし、ましてや娘さんはこうしたことに対して非常に敏感な時期です。内面に受けた傷の深さは測り知れません」

「まさかとは思いますが、やはりそうなのですか」

「繰り返しますが私は専門ではありませんし、まずはX線撮影をしてみなければ。異常なしとの結果が出れば、ひとまず食欲を増進させるお薬と栄養剤を出しておきます。しかしこれは症状が軽かった場合の、本当に一時しのぎです。きちんと食事が摂れないときは、早めに精神科で受診されることをお薦めします。さいわいここは総合病院ですから、そのときはこちらへ」

 キアラは娘の状態の深刻さを改めて感じるとともに、回復に向けて少しばかりの希望を見いだした。シモーナの口から内科もしくは外科的要因が見つからなかった場合の、具体的な相談先への伝を手に入れたからである。険しかった表情も、このときは患者とその家族を励ますような穏やかなものに変わっている。診察をしながら色々と考えを巡らせてくれていたのだろう。そのシモーナが紹介するからには、どのような治療をするにせよ、ある程度は信頼が置ける医者だろうとの期待もできた。

「ありがとうございました」

「まだですよ。X線撮影の結果が出てから、またお越しください」

 知的な美貌の持ち主だけに、わずかな笑みもやけに映える。キアラは席を立って一礼をし、鞄を手に診察室を出ていった。その途中で渡された名刺を見ると「精神科 シモーネ・シモーネ」とあり、同じ姓だと気づいた直後にメイヴに出くわした。廊下のソファに腰かけており、隣では女性看護師が書類を小脇に抱えて待っている。

「ではよろしいですか。三階の撮影室の前でお待ちください。こちらです」

 それから娘を立ちあがらせ、看護師の案内を受けて一緒に階段を昇る。メイヴは食欲不振による体力の低下と精神の耗弱で歩みが遅い。ここ数週間は歩行に限らず、ありとあらゆる行動が哀れなほど弱々しくなっていた。キアラはその姿を眺め、改めて一刻も早い回復を願いながら手を引く。ところが、どうも様子がおかしい。早い動作が取れないのは承知していたが、なお足の運びが遅いように感じられる。それどころか動作が不自然なほど重くなり、ついには前から引っ張ってもじりじりとしか先へ進まないようになってしまった。奇妙に思って後ろを向けば、メイヴが胃のあたりに手を当て俯いている。

「どうしたの。身体がおかしいの」

「そうなの。なんだか気持ちが悪くて」

 屈んで顔を覗きこんでみると、いつも以上に血の気がない。診察室を離れる前は家にいるときと大差ない様子だったのに、この一、二分で具合が悪くなってしまったのだろうか。吐き気らしい症状を訴えるのは初めてだった。すぐに看護師も異常を察知し、傍まで戻って声をかける。

「早く三階まで行きましょう。もうすぐだから。そこで休むといいわ」

「はい」

 メイヴは小さく頷いて階段を昇ったものの、踊り場まで進むなり隅で腰を下ろしてしまう。何度か大丈夫かと呼びかけても答えが返ってこないのを見とめ、看護師が言う。

「お母さん、娘さんを抱きおこしてください。私も肩を貸しますから」

 キアラは看護師の指示に従い、メイヴの両脇に腕を差しこむ。体温が低下していくのと、手足を大きく振るわせているのが分かった。顔色も瞬く間に青ざめ、半ば紫と言い表せるまでに変わっている。身体もやけに重量が感じられ、二人がかりで立ちあがらせようとしてもびくとも動かない。

 そのときちょうど、上の階から一人の老人が降りてきた。緋色の法衣にロザリオ、頭に半円型のズケットを被った格好からひと目で神父と判別できる。その老神父が近づくにつれてメイヴの震えは大きくなり、間近まで迫ると歯まで鳴らして身体が氷のように冷えていった。まだ若い娘が階段の途中で踞るのは心配なのか、見ず知らずではありながら老神父が顔を向けてくると、メイヴは俯いたまま口の隙間から細い声を漏らす。

「早く行って」

 老神父は妙に敵意の向けられた響きを耳にし、急ぎ足でその場を離れる。キアラと看護師は、メイヴが突然に表した粗暴な空気に二人して驚いた。さらに一段と驚いたのは、直後に起きたメイヴの変化だった。それまで冷たかった身体に血の気が戻り、老神父の姿が廊下の向こうに消えた途端に腰を上げる。

「ごめんなさい。もう平気だから」

 さすがに完全に元どおりとはいかないまでも、顔色は病院に来る前とほぼ同程度に回復している。原因が何かはともかく、ひとまず娘が元に戻ったと見てキアラは胸を撫でおろした。いっぽう看護師には別の考えがあるらしく、前を向くメイヴを後ろから呼びとめる。

「本当に大丈夫」

「ええ。階段を昇るくらいは」

 当のメイヴがそう答え、自力で階段を一段、一段と踏みしめる間もその様をじっと眺めている。何人もの患者を看ている看護師でも一、二分というきわめて短い時間で身体の不調をきたし、かつ瞬く間に回復した例はあまり多くないのだろうか、階段を昇りきったあとで母娘は撮影室とは別の場所に通される。中は簡易なベッドと、一脚の椅子が置いてあるだけの狭い部屋だった。

「X線撮影の前に、念のため簡単な検査をします。よろしいですね」

 詳しい事情を知らない看護師は、たったいま起きたメイヴの変調だけを知ろうとしているようだ。もしくはX線撮影の前に異常がないかどうかを、単に確かめようとしているのかも知れない。何にせよ、この申し出はキアラにとってもありがたいものだった。もしかするとずっと続いている娘の不調と、診察室を出てからの今しがたの変化に関連があるのではないかと疑いを持ちはじめたからだ。待合室での検温やシモーナ医師による診察の際は、ぐうぜん異常が出ていなかっただけではないのか。それが簡単な検査で分かるのではないか、よその医者に回されるよりも早く病因が特定できるのではと思い、一も二もなく首を縦に振る。

「はい。お願いします。メイヴ、いいわね」

 メイヴは看護師が体温計を取りだすのを待ち、キアラの命令に素直に従って腕を上方に持ちあげた。

「まずはお熱を測りましょうか」

 体温計を脇の下に差しいれさせ、呼吸と脈拍が落ち着くのを待つ。その間にもキアラは、階段で発生したメイヴの変化について考えを巡らせる。あのような反応はこれまでなかった。事件後に続いているのは食欲の不振なのだ。

「本当に、もう何ともないの」

 メイヴは黙って、小さく首を縦に振る。顔色はいちど回復してから変わっておらず、風邪をひいているのでもなさそうだった。この歳まで育ててきた身であれば容易に判断できる。部屋と部屋の極端な温度差が原因でもない。考えあぐねるうちに時間が経ち、しばらくして看護師が体温計を抜きとった。

「熱はありませんね。三六度五分。ちょっとした運動をしたあとですから、実際はおよそ三六度二、三分といったところでしょう。では、次に血圧を」

 体温に異常はない。ならばとメイヴを横たえて脈を測る。ベッドの近くに置かれていた血圧計を引きよせ、看護師が手首を握るのを見、キアラは試しに訊いてみた。

「どうですか。脈はおかしくありませんか」

「数値はともかく、こうして触る分には乱れていないようです」

 看護師は環状帯を巻きつけ、腕に圧力をかけたあと計器の示した水銀柱の値を読みとる。その数値はキアラにもおよそ目視することができた。

「上は一一〇の、下は五五。ちょっと低めですが、この年頃の娘さんとしてはおかしくありませんね。多分、慣れないところに来られて疲れただけでしょう。少し休んでそれもなくなったようです。ではX線撮影に移りましょうか」

 やはり看護師は単純に異常を確認したかっただけらしく、数値が問題ないと分かるとすぐに血圧計を外した。しかしキアラには、この結果こそ不自然に思える。食欲不振で碌に栄養も摂れていないのに、数値が正常とはどうしたわけか。栄養状態と血圧が必ずしも連動するわけではないとしても、腑に落ちない。またこの場で何らかの異常が確認できはしないかと期待していただけに、落胆も大きかった。なぜならその異常さえ取りのぞけば、メイヴは回復するであろうからだ。だがその期待が、望みどおりの形で適うことはなかった。後日に知らされたX線撮影の結果でも、シモーナによる再度の診察でも異常は何ひとつ認められなかったのである。

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