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四  異変 ①

 キアラは自宅で、ベッドに眠るメイヴをじっと見つめていた。時計の針は午後の四時を指している。二人して久しぶりの帰宅を済ませ、娘に昼食を摂らせたのがちょうど正午ごろだった。その間、キアラは菓子の一かけらはおろか水の一滴さえ口にせず、娘が再び目が覚めるのを待ちつづけている。不幸な事件に巻きこまれはしたが、こうして生きている以上はいくらでも傍にいることができる。いや、目覚めを待つだけでなく何でもしてやらなければならなかった。

 あれから一か月が経った。あの日、集会にジャコモが弟と称する二人の男を連れて現れた。彼らははじめ気弱そうな振りをしていたが、間もなくして豹変し、母娘に暴行を加えたのである。キアラの目には、そのときの光景が嫌でも目に焼きついている。特にジャコモがズボンのベルトに手をかけ、メイヴが涙を浮ながらに許しを請うたときのやりとりは忘れられるはずがなかった。

「これまでのことはぜんぶ嘘なの」

「嘘に決まってんだろ。この国でお前たちみたいな奴に、そうそう出くわせるわけねえだろうが。まあ、俺のことも神さまはお許しになるだろうぜ。何せ、てめえらみたいなカルトの信者を懲らしめてやるんだからな」

 キアラは己の言動を悔やむ。年頃の娘に一声をかけただけなのに、例のひとつとして目についた青年の名前を出しただけなのに、まさかその男が素顔を偽り、乱暴を目的に娘に近づいていたとは。もしキアラが別の名前を口にしていれば、メイヴはそれなりの恋愛を楽しんでいたかも知れない。余計なことさえ言わなければ、メイヴは事件に巻きこまれずに済んだかも知れない。

 魔女宗が密室で祈りを捧げる形の儀式も、男たちがよからぬ企てをはたらく糸口になっただろう。元から少ない出席者が、直前になってさらに減ったのも大きな不幸だった。実際に出席しようとしていた信者も到着前にジャコモたちによって痛めつけられ、身動きのとれないよう縛りあげられていたためいつになっても部屋には現れなかった。いくら声をあげようと助けなど来ようはずがなかった。

 だが、今さら何を考えようとどうにもならなかった。自身の失言が元凶なのだ。結果、母娘は三人によって代わるがわる何度も犯され、キアラこそ外傷だけで済んだもののメイヴには望まぬ生命が宿ってしまった。母娘は違法と知りながら一も二もなく中絶を選び、つい昨日に手術を終えて帰宅したばかり。それ以外はひとつとして進展していない。ジャコモら三人は欲望を満たしたあと悠々と部屋を立ちさり、姿を眩ましたまま。どこにいるのかとぼんやり宙を眺めていると、別の部屋から音がした。娘のもとを離れて玄関口に向かったところ、誰かが扉を叩いているのが分かった。

「どなたですか」

「刑事のブランカです。コノリーさんのお宅ですか」

 声には聞きおぼえがあった。三人にはすでに逮捕状が出ている。その行方を探るべく、数度にわたって刑事が聞きこみに来ていた。内鍵を開け、取っ手を回して扉を薄く開くと、隙間からはやはり記憶にある丸顔、厚い口髭が見える。しばらく刑事に目をやり、間違いないと確かめたのち慎重に鎖を外した。

「はい。刑事さん、どうかされましたか」

「コノリーさん。お久しぶりです。今、ちょっとよろしいですか」

「ええ。この場でよろしければ」

「ご報告があります。容疑者らしき人物が三人とも見つかりました。確認をお願いしたい」

 その言葉を聞くなり、キアラの表情が自然と変わった。暴行を受けてから密かに男性恐怖症に陥っており、相対しているのが刑事と分かっても緊張していた。しかし三人が逮捕されたとなれば話は別である。それこそが残された数少ない希望だからだ。捕まれば面と向かって呪ってやるどころか、機会さえあれば、あるいはメイヴが望めば目の前で息の根を止めるつもりでもいた。実際に出来るかどうかは別にして、はからずもさほど時を置かずしてそれが叶うかと思うと、ブランカ刑事が内ポケットに手を入れて写真を取りだすまでのわずかな合間すらもどかしく感じられる。

「こちらです。どうでしょうか」

 差しだされたのは、全部で六枚。一人につき二枚の写真に顔の正面と全身像が映しだされている。一人は癖っ毛の目立つ端正な顔だち、もう一人は不健康なほどの長身痩躯、最後の一人はがっちりした大柄な男。目鼻の形や並び、体型からしてあの三人以外の何ものでもなかった。

「間違いありません」

 キアラは確信し、一瞬だけ救われたような気がした。だがその希望もすぐに消える。ジャコモの顔写真が、やけに不自然であることに気づいたのだ。背景は不自然なほど平板な灰一色。傷だらけの顔は、当初は逮捕の際によほどの抵抗をしたためかと思っていたが、よく見れば異常なほど血の気が失われている。両目とも瞼は閉ざされ、逆に口はだらしなく開けられていた。はっと顔を上げ、まさかと言おうとするが早いか刑事が頷く。

「見つかりました、死体安置所で。事件を起こしても捕まらないのをいいことに図に乗っていたんですな。窃盗事件を犯して乗用車で逃亡しようとしたところ、うちの署の者が追跡しましてね。途中で車は建物に激突。他の二人も即死でした。ジャコモ・メイこと本名ジャコモ・モルフェオら三人は容疑者死亡のまま、書類送検いたします」

「姓がメイではなく、モルフェオですって」

「ええ。偽名を使っていました。スコットランド移民の二世でトリノ大生という経歴も真っ赤な嘘。実際はアルバ在住、フィアットから仕事を請け負って工場を回している会社社長のドラ息子でした。おそらく小金持ちの親に甘やかされて育ったんでしょう、地元や近隣のクーネオ、トリノでやりたい放題をしていましてね。そちらの方では札付きで警察も目を光らせていたんですが、一時的に仕事場の移ったここアスティでは名前が知られていませんでした。見つからんはずです。県を越えて、州単位で捜査をはじめてようやく三人の身元が特定できた矢先の出来事でした。ちなみに車の後部座席からはヘロインも見つかりました。日常的に吸引していたものと思われます」

 その死が一瞬であったことは疑いようがない。メイヴが味わった苦痛に比べれば彼らのそれはあまりにも小さく、あっけないものだった。キアラは大きく息をつき、がっくりと肩を落とす。

「お気持ちは分かりますが、とにかくあの連中には相応の天罰が下りました。悪事をはたらくことはもうありません。警察でも報道規制を敷き、極力、公表されないよう努めます。では、これで」

 刑事のブランカでさえよほど痛ましく思っているのだろう、物腰こそ穏やかではありながら厳しい言葉で三人を糾弾し頭を下げた。だが誰がいくらあの三人を罵ろうと恨みは晴れず、逆に慰めの言葉にさえ反感を抱いてしまう。母娘が信じているのは、彼らの神ではない。彼らの神を信ずる者たちによって傷めつけられただけでなく、彼らの教えが中絶を忌みきらうために、キアラと手術室を終えたメイヴは病院を出た途端に事情を察した通行人からひどい侮蔑の視線を投げかけられた。そのとき改めてイタリアがカトリックの国である事実を噛みしめるとともに、また魔女宗を信仰していたせいで災厄が降りかかったことが嫌でも思い知らされ、この先どうすればよいかもまったく分からなくなっていたのだ。そう一人で頭を巡らせるキアラの耳に、部屋の奥から声が届く。

「やめて、やめて。お母さん、行かないで」

 急いで玄関口を閉め、元の部屋に戻るとちょうどメイヴが眠りから覚めかけていた。頬には涙の流れた痕があり、不安そうな表情からも夢に魘されていたのが一目で分かる。上体を起こして抱きついてくるのを、キアラは優しく肩を抱いて受けとめた。ジャコモらは死してなお、メイヴの心を深く蝕んでいる。どうして事件を終わったと捉えられようか。やはりあの三人が力を振りかざし、優位を誇示するために名を出した神に屈する真似──罪を赦すことなどできない。決意を固めたキアラは娘の髪を撫で、刑事の立ち去ったあとも扉の方を猊みつけた。


 キアラは服飾店を休業し、デザイナー業に専念していた。不幸中の幸いとでも言うべきか、ちょうど大口の相手から幾つもデザインの依頼が寄せられはじめ、不特定多数との客と顔を合わせずとも家計を支えられるようになっていたのである。理由は言うまでもなく母娘ともども、とりわけメイヴの安全確保と心身の回復にあった。

 それまでメイヴに任せていた家事の多くは、キアラが行った。だが久しぶりに娘の部屋を掃除したとき、奇妙なことに気づく。まず感じたのは家を空けたのが一週間である割には、床にやたらと多くの埃が浮いている点である。もっとも、これは人がいないと寂れるせいかも知れず、留守にしているとこのようなものだろうと一度は自分に言いきかせた。ただ、雑巾で棚の脚にこびりついた塵を拭ってみると、棚自体が以前の位置からわずかに、しかし明らかにずれているのが床に残った埃の跡から確認できた。元のようにきっちり壁につけようと力を込めても、肩や胸を押しつけ体重をかけてもびくともしない。棚の上を見れば、中学校の教科書や服飾関連の本が並べられている。動かなくて当然だった。

 まだ背が伸びきっていないうえ身体も細いというのに、これだけ重いものをどうやって動かしたのだろうか。本を下ろせば軽くなる、と考えたところで動かしたのがメイヴと限らないことに思いいたる。留守の間に空き巣にでも入られたのではないかと心配になり、急いで自室の引き出しを開けてみるも、銀行の通帳をはじめ貴重品は何ひとつ欠けることなくしまわれている。キアラは窓から茫然と外の景色を眺め、自身も相当に疲れているのだと溜め息をついた。

 とはいえ、そのような弱音を吐いている場合ではない。娘はもっとひどく打ちのめされている。あらかじめ覚悟していたとはいえ、その変貌ぶりは痛々しいものだった。まず容姿からして、日頃から顔を合わせている母親でさえ容易に判別できるほどの翳りが見てとれる。暴行の際に受けた殴打の痕のみならず、きめ細かでしみひとつなかった肌は荒れ、女性らしい丸みを帯びていた身体からは肉が削げおちていた。しかもほとんど常に上の空なのだ。このときもリビングで本を読んでいながら目の焦点は定まらず、譫言を口元でぶつぶつと呟いている。

「分からない」

「どうして」

 譫言はいつも「分からない」と「どうして」。それを交互に繰りかえすばかり。退院してからというもの、同じ状態が二週間も続いている。キアラは家事の休憩がてら、声をかけてみた。

「調子はどう」

 だがメイヴの返事に変化はない。むしろ高く澄んでいた声まで淀み、心なしか低くなっている気もする。態度、表情も糸が切れたように張りが失われていた。

「変わらないわ」

 答えは、聞くまでもなく分かっていた。簡単な片付けも碌にできず、テーブルには数冊の本のほか、ほとんどいつも食べかけのパンと飲みかけの紅茶が置かれている。入院中から気づいてはいたが、食欲までもが大幅に落ちていた。特に学校を卒業して仕事をするようになってから、かつては細い身体のどこに入るのかと思うほど大盛りの食事を平らげる日もあったのに、帰宅直後は喉の通りがよいスープを飲みほすのが精一杯。一週間してパンを食べられるようになってもせいぜい三口、野菜や肉は以前の四分の一が限度だった。日によっては、パンをひとかけらだけ口にしてもう食事を止めてしまう。

 娘がこのような状態に陥ったのは、身体にくわえ心にも大きな傷を受けたために他ならない。キアラはこれまで心理的な負担をかけまいとして、食べないのは毒だと分かっていても「気が向いたときに食べなさい」と言って終わりにしていた。とはいえ半月が経ってなお回復の兆しすら窺えないとなると、いつまでも同じ受け答えをしてはいられなかった。

「もし食べる気が起こらないのなら、気晴らしに出かけたらどうかしら。もちろん私も行くから」

 キアラは素人なりに家の中に閉じこもってはいけないと思い、事件後に一度だけ本屋に連れだしていた。そのときは不安そうに傍をついて回りながらも、そこそこ商品に興味をもってくれた。しかしもう外出すら億劫なのか、この日はすぐ首を横に振ってしまう。

「ごめんなさい。行きたくないの」

 やはりこのまま放っておいては、心身ともに健康が損なわれるだけだ。歴とした原因は分からない。心理的な要因の他に、中絶手術の影響で身体に異常が生じている可能性もある。どちらにせよ、何らかの治療をすべきだった。

「それなら、お医者さまのところへ行きましょう」

 キアラはじっと娘に目を向ける。メイヴを元に戻すためには、まずは内科の専門医に診せるのが適当だろうと考えていた。

「どこまで行くの。近いところじゃなきゃいや」

 アスティには病因の特定が困難な患者を診せられる病院はなく、州都のトリノまで足を運ぶ必要がある。近場の外出さえ渋るメイヴは、移動に相応の時間がかかる遠出を当たり前のように嫌がった。拒否の意思は先ほどよりはっきり示している。かといって、母親としてこれを受けいれるわけにはいかなかった。

「でもあなた、具合が悪いのよ。毎日行くわけじゃないんだから早く診てもらわないと」

 娘の負担を減らすためなら、いくらでも出費する腹づもりでいた。たとえば移動は不特定多数との接触を避けられるタクシーにするなどだ。そうしてバスや電車は使わない、トリノへ行くのはすぐだと粘り強く説き伏せた結果、メイヴはしぶしぶ頷いて手元の本を閉じた。

「分かったわ。だから今日は部屋で休ませて」

「いいわ。ちょうどお掃除も終わったところよ」

 新たに病院へ行くことを娘に納得させたキアラは、少しではあるがほっと息をつく。ひとまず安心し、メイヴが読んだ本を片付ける。と、そのとき、とある一冊の本に目が止まった。背表紙にキリル文字が並んだ、見慣れないロシア語の本だった。果たしてこんな本が家にあったのか、いつ自分で買ったのかも思い出せない。娘と同時に自分も診てもらおうかと、キアラは病院へ行く日付を遠目からカレンダーで追い、部屋を出て電話口へと向かった。

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