三 奸計 ②
いっぽうメイヴは同日の昼下がり、表で店番をしつつ服の修繕に勤しんでいた。仕事ぶりは熱心そのもので、脇目も振らず針を握ってはひたすらに指を動かしている。午後二時きっかりに表に出てそれなりに時間が経ったというのに、気を抜いたり作業を疎かにする様子はない。まだ客の姿はひとつもなく、店内には時計の針と布、あるいは紙が擦れる音、時たまメイヴの小さな吐息が聞こえるのみ。
朝食の席では思わぬ方に話を振られたが、だからといって店の仕事をおろそかにするつもりはなかった。学校での成績も下の方だったこともあってもともと高校に進学する意思はなく、また経済的な余裕もなかったためにどこかで働く必要があると感じていた。当然、よその家であれば働き口を色々と当たらなければならず、メイヴ自身も一時は職探しに相当に難儀するものと覚悟していたのだ。そこへ母が店の手伝いを持ちかけてくれたおかげで、苦もなく仕事にありつけたのである。人手が欲しいという事情はあるにせよ、自宅で仕立てや裁縫の技能を磨けるのはありがたく、卒業前後に将来を考えて右往左往していたときの光景を思い出すと、普段よりも仕事に力が入った。
ただ、どんな作業でも集中できる時間には限りがある。メイヴは先ほどと変わらず仕事は続けながらも、いつしか翌月に予定されている魔女宗の集会に思いを巡らせていた。年八回ある集会のうち一回が先週に終わったばかりであるのに、メイヴがそのことばかり考えてしまうのは、やはり学校で同年代の友人がほとんどいなかったからだ。
逆に学校で辛い思いをしていたとき、励ましてくれたのは集会に訪れる魔女宗の信者たちだった。ジェノバのダヴィッド、ボローニャのエミリア、フィレンツェのモニカをはじめ年齢や居住地がまったく違うにも関わらず、誰もが優しくしてくれた。イタリア国内にあって珍しいアイルランド移民の中で、魔女宗の占める割合はごく僅かなだけあって数は二十名にも満たず、いずれも女性と老人のみで二十代以下の男は一人もいない。一見するといかにも頼りなげではあったが、集会の場所は毎回この家と決まっていることから遠路はるばるメイヴのために駆けつけてくれたように感じられ、大いに勇気づけられていた。普段は母以外と話をする相手のいないメイヴにとって彼らは貴重な友人であり、彼らと会える集会は数少ない楽しみの一つとなっていたのである。
そこへふと客の足音がして、メイヴは我に返る。見あげると、時計の針は三時を回っていた。アスティは街の規模こそ小さかったが、一応は県都とということもあってこの時間になると放課後の高校生や仕事を適当に終えた労働者がやってくる。針仕事を緩めて客層を見ると学校帰りらしい若い男が多く、メイヴは自ずと身構えてしまう。このときも目の前に立ったほぼ同年齢と思しき私服姿の少年に、どことなく圧迫感を覚えていた。
「すみません、このあいだ頼んだズボン、直しは終わりましたか」
「お待ちください」
メイヴはいつものように早口で返事をし、背後に吊るされている預かりものの中から一本のズボンを取りだして少年の前に広げた。その間も不愛想だとか手際が悪いとか怒りだしはしないか、文句をつけられはしないかと理由のない不安が勝手に湧いて出てくる。
「こちらでよろしいですか」
少年が首を縦に振ってものを受けとり、袋にしまって立ち去るのを見てメイヴはようやく気を緩めた。日常生活や業務に支障をきたすほどではないにせよ、何の変哲もない接客にもこうした精神的な負担は確実にあった。くわえてこの日は母から受けた注意を頭に浮かべ、異性と仲を深める方法を学ばなければと自分自身に言い聞かせるのが仇となり、また余計な圧力になってしまう。
もちろんこの手の問題はすぐに解決するものではなく、別の二十代後半らしき男がそっけなく手提げ袋を置くと、また緊張が高まるのがメイヴ自身にも分かった。真面目な性格であるだけに、気にすれば気にするほど敏感さが増していく悪循環に陥っていた。
「こないだ頼んだの、終わってたら出してよ」
「少々、お待ちください」
メイヴは先ほどと同様に急いで、ほか多くの預かりものの中から二着のシャツを探して目の前に置く。どちらも間違いなく修繕を頼まれたものだが、ただ持ってきただけでは不満のようだ。男は自らは手を伸ばさず、ぶっきらぼうに手提げ袋の口を開けた。
「袋に入れてよ」
「はい」
今度は気のせいではなく、実際にやや横柄な客だった。用を済ませて出ていくのを確かめると、思わず小さく息を吐くほどほっとする。そもそも褒め言葉や軽い口説文句だけでも尻込みしているのに、相手から少しでも強く要求を受けると言われるがまま従わざるを得ない。これも以前にいじめられていたせいだった。異性への先入観を誰かが拭ってほしいと思うも、理想どおりの人物がすぐ現れるはずがなかった。悪いことにこの日はどうしたわけかその次も、さらにその次も苦手な客が立てつづけに来る。
だが、しばらくして一人の青年が店に入ってきた。茶色いくせっ毛が目を引く、二十歳前後の大学生だろうか。他の客とは違い、穏やかな手つきで破れたジーンズを出してくる。
「これ、直しをお願いします」
ジーンズは股の右側に派手な裂け目があったが、ぱっと見ただけでその他に幾つもの傷が確認できた。十字に交わるような形で、修繕を済ませた跡がありありと残っている。また母の言葉を思い出した。「同じ服に二度も穴あけて……」メイヴはそこまで頭に浮かべ、その考えをあり得ないと打ち消す。ズボンに頻繁に傷がつくのには、何か歴とした理由があるのだ。服の元値がいくら安かろうと修繕はただではなく、仮に自分に会いたい者がいたとしてもそこまでするものとは思えない。
「では、こちらの札にお名前をお書きください」
メイヴは気をとりなおして、預かりものに付ける札とペンを渡した。青年は身体を折りまげ、丁寧な字で名前を書く。そこには次のようにあった。
「ジャコモ・メイ」
メイヴは頭に血がのぼるのがはっきりと分かった。「ジャコモって言ったかしら」母が朝、口にしたのはこの青年のことかも知れなかった。いや、ジャコモという名前はどこにでもある。それに母がたとえ話に出しただけで、別にどうということはないではないか。ここに来ているのは、単に必要な用事があるからだと自分に言いきかせる。
ところが次にはメイヴの目が止まった。たしかに一見の客ではない。鼻筋の通った端正な顔立ち、清潔な印象を受ける小綺麗な身なり、どちらかと言えば細い身体つき。佇まいが控えめでそれなりに背丈はあるのに威圧感のない、落ち着いた雰囲気のこの青年は何度か店に来ている。変に慣れなれしく仕草が派手でしつこい、根拠もないのに自信だけはありげな多くの男たちとはまったく違う爽やかさが魅力的だった。
「何かおかしかったですか。書き終わりましたけど」
声をかけられ、いつの間にかジャコモがこちらを見下ろしているのに気づく。一人で色々と考えている間に、知らず知らずのうちに惹きつけられていたらしい。客の顔をまじまじと眺める失礼をはたらいたせいもあり、首から上は耳の先まで真っ赤になっているのがはっきり分かった。
「あの、あの、すみません」
メイヴの唇はとうに乾ききり、気が動転しているのが傍で分かるほど舌も縺れてうまく回らなくなっている。それでもこのまま事を済ませるのは物足りない感覚に襲われ、言い訳を探しだした。
「でも、何だかジーンズの傷のつき方がおかしいと思って。前にもここ、破れてますよね」
おかしな物言いだ。一度ならず二度までも失礼な真似をしてしまった。こんなつもりではないのに、ひとつの例とはいえキアラから名前を挙げられたことで、何かしら縁のあるのではと余計に意識してしまう。普通の客なら言葉尻を変に解釈し、不機嫌になってもおかしくない。もう呆れられたかと諦めかけたとき、ジャコモが顔を横に逸らして頭を掻く。
「やっと気づいてくれましたか。この店が、じゃなくて、あなたとお話がしたくて」
メイヴの心臓は、確実にその鼓動を早めた。ジャコモがわざわざ口実を作って、自分に会いにきているのは間違いない。やや遠慮がちではあるものの、言葉にしてくれたおかげでそれまで半信半疑だった相手の感情が確かめられた。
「ありがとうございます。でもお召し物は粗末にしないでください」
しかしメイヴは、その後が続かない。デートに誘われた経験も誘った経験もなく、どうものを言えばよいか分からず、言うか言うまいかと迷って掌に汗を掻くばかり。時間があるときに会えないか、本当は訊きたくて仕方がないのにである。するとやや間を置いて、耳に嬉しくも快いジャコモの声が届く。
「分かりました。これから大事にします。その代わり、今度どこかへ行きませんか」
「はい。こちらこそ」
実に心地よい力強さを感じ、真っ赤な顔で思いきり頷いたメイヴは、直後に別の誰かの陽気な声を聞いた。
「お熱いのは結構だけど、ちょっと急いでるんだ。後にしてくれないか」
頭を上げて首を伸ばしてみると、ジャコモの後ろには一組の壮年の夫婦が立っている。冷やかしを入れたのは、そのうちの気のよさそうな男の方だった。顔から火が出そうになったメイヴは、その場から逃げ去りたくなるのを抑えつつ満面の笑みを浮かべた。いつの間にか他の客も、口笛で囃したてるなど興味津々で二人の成り行きを見守る。ジャコモは多くを語らない代わり出口を指さし、メイヴの仕事が終わるのを待っている、という仕草をして恥ずかしそうに店の外へと出ていった。
一か月後の夜、コノリー親子は魔女宗の集会に使う道具を部屋に並べていた。二人とも仕事や家事を終えた後だというのに、手元に置かれた儀式用の剣や皿を出して汚れの有無や、組み立て式の祭壇に足りない部品がないかどうかを確かめている。魔女宗に教会のような施設はなく、何から何まで自前で用意する必要があった。また偶像崇拝であるためにキリスト教の祭儀と比べ必要な道具も多く、男手がないせいもあってこれらを揃えるだけでも多少の時間がかかる。昼間の仕事もあって、キアラの顔には疲労の色が浮かんでいた。
かたや今まで体力に乏しかったはずのメイヴには、この日はそうした素振りは窺えない。これは何も魔女宗がらみに限った話ではなかった。普段の生活から表情、態度まで以前とは大きく様変わりしていたのである。雰囲気ひとつ取っても、少し前までの慎ましさは花開く前の蕾と好意的に喩えることができたが、悪く言えば花弁が萎んだような物足りなさを感じさせる部分があった。ところが近頃はその蕾がいっぱいに花開いたような、立ち居ふるまいの違いから来る軽やかさ、明るさがある。のみならず前々から際立っていた美貌そのものにますます磨きがかかり、誰の目にも輝かんばかりに映る初々しくも煌びやかな華やかさを放っていた。そうした変化はキアラにとっても実に微笑ましく、娘の前でつい口にしてみたくなる。ほとんど確信はしているが、母として直に問いただしたいのだ。
「最近、ずいぶん楽しそうね」
メイヴは母が疲れているのに気づき、倣って手を止める。特段に表情を変えないでいても十二分であるのに、顔を綻ばせるだけで美しさが一段と増したように見えるほど全身から幸せそうな空気が溢れでていた。
「そうかしら。いつもどおりだけど」
「そうね、いつもどおり明るいじゃないの。こないだお店にきたあの子、ジャコモって言ってたかしら、仲よくなれたんでしょ」
質問の形は取っていたが、娘が変わった理由をキアラははじめから見抜いていた。この年頃の娘が大きな変化を見せるとき、何が原因かはおおよそ察しがつく。このところ、メイヴは店番が終わったあとに少しの休憩を申し出、あらかじめ時間を決めて暇を乞うようになっていた。意中の異性が現れた場合に、どのような時と場所を選んで逢うかは我が身に置きかえれば造作もなく想像できる。それにメイヴも、内気であった性格が嘘のように隠しごとをする気配を見せない。厚かましいのとはまた違う態度で、むしろ嬉しげに首を縦に振る。
「ええ。仲よくなれたわ。だからお母さん、お願いがあるの」
「何なの。ジャコモと遭うのはいいわ。でも門限を伸ばすのは駄目よ」
キアラは、娘が何を言わんとするか分かったつもりでいた。年齢相応の清い交際ならいくらでも見守りたい一方、母としてはそれ以上は踏みとどまってほしい。そう思い先んじて釘を刺したのだが、どうやらメイヴの言い分は違うらしい。
「そうじゃないの。ジャコモと、出来ればジャコモの兄弟たちを今度の集会に参加させてあげてほしいの」
メイヴの頼みはまったく意外なものだった。キアラに勘違いされて機嫌を損ねるどころか、ますます目を輝かせている。
「メイヴ。ジャコモが好きなのは分かるけど、私たちの集会にキリスト教徒は入れないのよ」
「だからよ。ジャコモはキリスト教徒じゃないの」
「それは本当なの」
イタリア国民は信心の程度に差こそあれ、ほとんど全てカトリックといってよい。カトリックでないのはユダヤ人をはじめとした少数の移民か、あるいは中東かアフリカ系のイスラム教徒に限られる。一神教以外の信者など、それこそ魔女宗の信仰に顔を出す者以外は皆無だと考えていた。俄に信じがたいキアラが再び問いかけるも、メイヴの答えは変わらない。冗談を言っているようにも取れなかった。
「本当よ」
「でも、だったら何で私たちの集会に」
「ジャコモのお父さんはスコットランドから来た人で、その頃から何だか教会に馴染めなかったそうよ。お父さんはカトリックで小さい頃に洗礼は受けたけど、イタリアに来てから教会に顔は出してなくて、こっちで生まれたジャコモは洗礼も受けていないんだって。お父さんがそんな風だから教会にも行けないし、お友達も少ないんだって言ってたわ。いま通っているトリノ大学では誰かに言う必要もないし、表に出さないようにしてるけど、やっぱりお友達は多くないそうよ」
その話に誤りがなければ、ジャコモが集会に興味をもつのにも納得がいく。スコットランドはアイルランドと同様、国民の大半はカトリックや国教会を信仰する傍ら、風習には今なおケルト文化の影響が残っている。イタリアで暮らしながらカトリックに馴染めぬ者同士、どこかで親近感を覚えたのかも知れない。魔女宗の信者が増えるのはキアラにとっても嬉しい報せではあったが、ひとつ注意をしておく必要があった。
「ジャコモに私たちのことを話したの」
「お母さん、ご免なさい。黙ってて嘘をつくのも悪いし、いつかは言わなくちゃいけないと思って、つい。でもジャコモは私たちをおかしいなんて思ってないの。本当よ。その話をしたときだって変な顔はしなかったし、次の日すぐに自分もスコットランド移民だって教えてくれたんだから」
メイヴは、事前の相談なく自分たちのことを打ち明けたのは軽率だと認識しているようだ。おそらくここ最近はしなかったであろう、心底済まさそうな顔を見せる。ただキアラとしては、そこで話を終えられなかった。
「それもそうだけど、メイヴ、よく聞きなさい。ジャコモはたぶん大丈夫だから今回はいいわ。でも中には、私たちの信仰にいい感情を持たない人もいるし、それにかこつけて色々と言いふらす人もいるのよ。よくないことを企む人だっているかも知れないわ。だからこんど誰が別の人に話をするときは注意して。その前に私に相談して。約束よ」
「分かったわ。約束する。じゃあジャコモは」
念を押されたメイヴは首を縦に振り、そのあと遠慮がちに話題を元に戻す。軽はずみな行動は反省しつつ、意中の相手とより親密になれるかどうかもまた気になって仕方ない様子だ。こうした明確な意思の表示も、以前にはほとんどなかった。今さら敢えて禁じる理由がどこにあるだろうか。
「それならいいわよ。連れてらっしゃい」
キアラが緩い溜め息まじりに答えると、メイヴはとびきりの笑みを顔いっぱいに広げる。心の拠り所である集会にジャコモと参加できるのがよほど嬉しいらしく、これまで目にしたこともないほど幸せそうな顔を見せる。
「お母さん、ありがとう」
そう言って両手を取り、何度も強く振ってまた作業に取りかかる。その傍らでキアラは娘の顔を何度も眺めた。今しがた誰か別の者に信仰の件を明かす際は注意するよう促しはしたが、魔女宗は放っておいて信者が集まるものではない。存在自体もほとんど世に知られておらず、また集会に参加するのは年配者が多い。機を見て入信をはたらきかけなければ、やがてイタリアでの信仰は途絶えてしまうに違いない。その点では、メイヴの行動は結果として正解だったように思われる。ジャコモも見るからに性格が良さそうだった。万が一、何か悪意があったとしても集会には毎回、十人ほど信者が参加している。何も心配することはないだろうと考え、キアラは儀式用の皿を布巾で磨いた。
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