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二  旧友 ②

 互いを深く知る間柄だけに、ほんの少し会話を交わしただけで核心を言いあてられた。ロマーノはシモーネ医師をはじめとした交遊関係のほか、リベラが聖務の傍ら何をしているかを知っている。理解をしてくれているのなら、話は早い。鞄から取りだした紐綴じの原稿用紙には、表紙に「二〇世紀の新たな宗教について」とある。

「そうです。もう大学に顔を出すのはやめようと思うのです。この論文も途中まで書いたのですが、最後まで書ききれていません」

 ロマーノは、その表題を目にして深く頷いていた。そこから何かしらを読みとったのか、やや硬い表情は崩さずにいながら穏やかな声で問いかけてくる。

「何がそんなに気になるんだ。言ってみてくれ」

「マルコ伝の第九章、十四節があるでしょう。私がこういった形で質問をするのは不適切かもしれませんが、貴方は実際、あれはどういうものだったと思いますか」

「いきなり何かと思えば、それか。しかしそうだな、あれはイエスが癪癇の子供に祈祷を施して悪魔を追いだしたことになってるけど、現代の医学とは整合性が取れない。したがって解釈は二つある。ひとつは本当にイエスが医学を超越した力をもって癇癪を直したという解釈。もうひとつは子供が罹かっていたのは癇癪ではなく、まったく別の精神疾患か神経症をカウンセリングに近い形で治療したとする解釈」

「もし悪魔祓いがそのうちの後者だとすると、キリスト教以外にもそれときわめて似た儀式があるのです。たとえば日本のヤマブシというシャーマンが行うチョウフクは、まさに悪魔のように取り憑いたキツネを追いだすために行うものだそうです。このチョウフクの対象になるのも、やはり医学的には精神疾患ではなかったかと疑われている人たちなんですよ。他にもアフリカ発祥のブードゥーなど、同様の祈祷や儀式を挙げればきりがありません。いいえ、そうした古くから伝わる風習だけでなく、最近になって新しく生まれた宗教──もしかするとカルトと呼べるかも知れない迷信にも、同じような儀式が確認されています」

 リベラはそれまで抱えていた疑問を、堰を切ったように口にしだした。ロマーノに相談しようと持ちかけた悩みとは〈賢者の賜〉教会に配属されて以来、はじめ前任者に帯同する形で、その後に勧められるまま現在も続けている民族学の研究に他ならない。民族学は人類のあらゆる文化や風習を研究の対象とするがゆえに、どうしても学者の視点でキリスト教とそれ以外の異教を同列に扱ってしまいそうになる。好意的に表現すれば科学の目を備えていることにはなるが、逆に信仰に対して自然と醒めた目で見てしまう。見識を広める目的で始めたはずの研究が、儀式の拠り所である信仰の障害となっていた。信仰か、それとも科学のどちらを取るべきか。その狭間でリベラは揺れていた。

「なるほど、俺たちの祈祷がそういうキリスト教以外の信仰、言ってみれば迷信と同じかも知れないと。でも、それは今に始まった話じゃないだろ」

「昔はあくまで助手でしたから。しかし今は主に私ひとりで治療の儀式を行わなければなりません。そのときに迷いがあっては、効くものも効かなくなるのではないか思いはじめていたのです。そこへシモーネ先生から突然、訊かれたものですから」

 ロマーノがしばらく首を縦に振っているのを見、リベラは自身の決断を後押しするような答えを期待していた。ところが耳に入ってきたのは意外な答えだった。

「では君の師、ロッコ神父から薦められた研究を止めるのか」

 ロッコの名前を出されては、すぐには言葉を返せない。しかしその師は二年前に世を去っており、継続して研究を行う理由はリベラ個人にはない。動機も薄れつつある。

「私も考えたのですが、本分は聖職です。疎かになるのであれば、やむを得ないと考えています。亡くなったから止めていいのかと言われれば、それまでですが」

「思いちがいはしないでくれ。俺は何も君を責めようっていうんじゃない。でもロッコ神父は民族学を研究しながら、なぜエクソシストとしての務めを全うできたんだろうか」

 まったくもって分からない、というのが正直な心情だった。古代語の習得とは違い、民族学の研究は治療の儀式を執りおこなう上で役に立つとは思えないのだ。それどころかリベラ個人としては、民族学に限らず科学は全般的に信仰との相性が悪いような気がしてならないのである。歴史を振りかえってもガリレオ・ガリレイをはじめ破門をちらつかせるなど種々の方法を用いて後者が前者を弾圧した例は枚挙にいとまがなく、古代の数学者ヒュパティアに至ってはキリスト教徒に殺害されており、対立と反目を繰りかえしている観すらある。にも関わらず生前のロッコは多くを語ることなく、旅行先で火事に巻き込まれて死亡したため、聖務と研究を両立する理由を訊ねる機会も失ってしまった。口を結んで俯いていると、ロマーノが顔を上げるよう促してくる。

「じゃあロッコ神父の考えは別にして、俺の立場に照らしあわせて考えてくれ。俺は民族学の代わりに哲学の研究もしてるが、別に聖務に支障はきたしてない。まあ、どこかで支障をきたしている可能性もあるが、それで研究を止めようとは考えていない。君も知ってのとおり、哲学には信仰に対して批判的な面もある。むしろ批判だらけとも言っていいくらいだ。もし君がそれを理由に研究を止めるというなら、俺も同じように研究を止めなければならん」

 言い分は理解できる。他の聖職者であればイエスの力を疑う言葉すら口にしたがらないのに、ロマーノは目の前で悪魔祓いに関して個人の解釈をしてみせた。よそで言及されることはあってもそれはそれ、これはこれとして割りきるべきだという理屈だろう。ただリベラの場合は、その理屈が感覚と一致しないのが問題だった。哲学とは違って、宗教の別はあっても類似の儀式がどれだけ多くあるか、学問体系を伴って明確な具体例を頭脳に蓄積しているのが最大の要因に挙げられる。そしてこれらは簡単に拭い去ることができない。グラスに手をかけたまま黙っていると、厨房から声が聞こえる。

「お客さま。もうすぐお持ちします」

 ロマーノも意見は出しつくしたのか、食前酒を飲みほして店の奥に目を向けていた。それまで店内を覆いつくしていた独特の匂いに代わって、食欲をそそる快い香りがにわかに漂ってくる。

「まあ、俺から言えるのはそれくらいだ。君の事だから、最後は君が決めるんだな。それと、もし止めるのならあらかじめ大司教にお伺いを立てた方がいい。分かっているとは思うが、君が大学に籍を置いているのと無関係ではないはずだからな」

「あなたの言うとおりです。気を遣わせて、すみませんでしたね」

 リベラも悩みを打ち明けて少しは胸の支えが取れた。さらに踏みこんだ意見は今は必要ない。ロマーノの言うとおりそもそもが自身の問題であり、仮に研究を止めるときの段取りにしてもまた然りだった。聖務以外の活動ではあるにせよ、研究をはじめた経緯が経緯だけに止めるとなれば許可が要るだろう。

「分かればいいさ」

 ロマーノがそう言って程なく、シェフがメインの料理を二皿、順に運んできた。

「お待たせいたしました。本日の昼のコースでございます」

 はじめに来たのはジャガイモと小麦粉のニョッキで、こちらはイタリアでも比較的多くの家庭で食卓に上るため二人も食べ慣れている。いっぽう後になって出された料理は、リベラが食した記憶のないものだった。表面に軽く焦げ目がついており、形状としてはサイズの大きなハンバーグに近い。

「何だろう。これは」

 どうやらロマーノもこれまで食べたことがないようで、不思議そうにナイフを走らせた。すると断面からはまたもジャガイモが顔を覗かせ、そのほかタマネギやチーズなどが挟みこんであるのが見える。リベラが試しに小さく切って舌に載せてみたところ、出汁も加えられているらしく強いうまみが口の中に広がった。香ばしく焼きあげられた表面の食感も心地よく、先ほど出されたニョッキと同じ食材をメインに作られているとは思えないほど違った風味を醸しだしていた。

「いけるな。これはいい。しかしどこの料理だろう。君は詳しくないか」

 いたくお気に入りのロマーノは、すでに二、三口は腹の中に落としこみ次へ次へとナイフを走らせている。美味であるうえに新鮮味も手伝って、リベラも食が進んだ。

「たしかフランスのブルターニュに似たようなガレットの料理がありますが、それとも違いますね。看板に何と書いてありましたっけ」

 二人とも食べるのに専念するあまりそこから先は話らしい話もなく、食後に出されたティラミスとエスプレッソもすぐに平らげてしまった。早々に手持ち無沙汰となり、どちらが何を言うまでもなく腰を上げる。

「まだ時間があるから、次はバルか、それともうちの教会にでもしようか。ご主人、お会計よろしいですか」

 ロマーノが財布からリラ紙幣を取りだすと、後片付けをしていたシェフが小走りにテーブルまでやってくる。捲りあげた袖から覗く両腕は濡れており、前かけには泡が飛びちっていた。

「おいしかったですよ。この値段でこれだけの料理とは、元が取れるんですか」

「ありがとうございます。うちの料理に使う食材は、ほとんどが産地からの直送なんです。ですから仕入れをよそより安く済ませられるんです」

 会計を済ませたロマーノが上機嫌な顔のまま上着を羽織り、リベラも続いて鞄を手に取って店を出ようと出口へ向かう。と、ふとあの馴染みのない料理が気になって訊いてみることにした。

「私もおいしくいただきました。ところで、今日のメインに出た二皿目はどこの国の料理ですか」

「お客さん、これは外国の料理ではありませんよ」

 別に大した問題ではなかったが、シェフの答えに少しばかり驚いた。ロマーノもどうやら同じと見え、足を止めてリベラたちの方へ振りかえる。

「看板に出しておいたつもりでしたが、見えづらかったですかね。フリウリですよ。私はフリウリ出身でしてね、そこの郷土料理を出してるんです。お客さまが召しあがったのは、フリコという焼きもの料理です」

「なるほど、あちらの方の郷土料理でしたか」

 馴染みがないのに合点がいった。トリノが属するピエモンテ州はイタリア国内にあって、食文化のみならず多くの風俗や習慣は国境が接するフランスから強い影響を受けている。いっぽうフリウリは同じイタリア北部でありながら、トリノとは逆にオーストリアと国境を接する東の端に位置しており、料理をはじめ各方面の文化はドイツやオーストリアからの影響が強い。原則としていちど配属された司教区に留まり、遠出をするのはほとんど必要な用事があるときに限られるリベラやロマーノのような教会神父が、イタリア国内とはいえまったく別の地域の郷土料理に触れる機会は少ないからである。ついでにリベラは、店内に漂う匂いについても質問してみた。

「それと、この店に何か置いてあるのですか。少し変わった匂いがします。けっこう強い」

「ああ、おそらくお客さまが仰っているのは茴香(ういきょう)です。やっぱり気になりましたか。料理の邪魔にはなっていませんでしたか」

 ようやく思い出した。料理でもよく匂い消しに使われるほか、仕事場や出張先で花が持ちこまれたときに漂う、あの匂いだった。リベラが街中に住んでおり、園芸にさして興味のないために疎いだけで、はじめから正体が分かる人も多いのかも知れない。

「いいえ。お店に入ったときには気になりましたが、すぐに慣れました。料理の邪魔にもなっていません。しかし、なぜ茴香にしたのですか」

「それは話すと少し長くなるので詳しいことは省きますが、私の地元に縁があるからなんです」

 シェフは郷土色を全面に出した店づくりをしようとしているようだ。興味を持ってもらえたのが嬉しい様子で、出口へ向かう二人の後をついて見送りに来る。他に客がおらず、話ができて暇潰しにもなったらしい。先ほどから黙っているロマーノにも声をかける。

「それと、お客さまはどうでしたでしょうか。気にはなりませんでしたか。もしくはお気づきではありませんでしたでしょうか」

 ところがロマーノは、先ほどとはうって変わって元のむっつりとした強面に戻っていた。店を出ようとして呼び止められたのが面白くないのか、とかく質問に答えるのが面倒くさそうな素振りを見せる。これが神父らしからぬ、聖務を離れると妙に気分屋になる困った一面だった。

「ええ。大して気にはなりません」

 最低限の愛想は込めていながら、シェフの反応も確かめず頭を下げて扉を潜る。半ば置いてきぼりを喰らったリベラは申し訳なく思い、店の前で向きなおった。

「本当においしかったですよ。ごちそうさまでした」

「いいえ。またよろしかったら、どうぞ」

 シェフは少し困ったような顔で、ポケットから名刺を出してきた。リベラは罪滅ぼしとばかりに「ウンベルト・ニコリ」と記されたそれを受けとって店を出る。そして足早に前を行くロマーノを追いすがる途中、一組の母娘と擦れちがった。今にも踞りそうな娘を、母が抱きおこすように歩いている。リベラは名刺の中身もその母娘も気に止めず、ロマーノと言葉を交わしながらアスティの教会へ向かっていった。

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