二 旧友 ①
聖務を終えたリベラは、部屋の扉を閉めて鍵をかける。椅子や内装は古びているものの、床や窓の立てつけは今の教会よりは新しい。
「今日はあれで良かったのでしょうか」
「ええ。焦ってはいけません。大抵の方は数か月、長ければ半年以上かかります」
傍らには痩せて背が低く、頭髪の薄い老司祭が立っている。名をレオ・ロッコという、〈賢者の賜〉教会の前任の主任司祭だった。面立ちはいつも笑みを湛えているような印象を受けるほど穏やかで、いかにも司祭らしく丁寧な物腰を常に保っている。それでいて廊下を歩き、階段を昇る足どりは矍鑠としていた。
「次からは、ルカ、あなたにも祈祷書を渡します」
「分かりました」
「まずはやってみなければ。いきなり危ない相手を連れてきたりはしません。大丈夫ですよ」
この日、リベラは教会に来てから四度目の治療の儀式に立ちあったばかりだった。これまでは単にロザリオを翳し、聖水を振りまいていただけである。祈祷文の詠唱は許されていなかった。それを次からいきなりやれというのだ。戸惑いはあったが指示に従うまでである。修練院を出たばかりの助祭であるリベラにとって、ロッコは上司に当たる主任司祭であるとともにエクソシストとしての師父でもあった。
「さあ、話はこの辺にしましょう。今日は三時までに大学へ行かなくてはなりません」
そのロッコから予定を告げられたリベラには、不安を吐露する暇もない。書斎に入ったばかりだというのに、外出の準備を促される。部屋は三方を書棚に囲まれていた。
「こちらとこちら、それからこの本でよろしいでしょうか」
「そう。それで最後です。忘れ物はありませんね。行きましょう」
リベラは二冊を鞄から取りあげてみせ、残り一冊を書棚から抜きとり三冊ともしまう。口を閉めて取っ手を握ったときには、すでにロッコは仕度を済ませていた。二人はほとんど書斎に留まることなく、すぐに階段を降りて法衣姿のまま教会から通りへ出ていく。行き先はトリノ大学。二人はバスで大学の研究室へ向かおうとしていた。大学への帯同は、リベラにとって初めてである。
「あの、今さら申しわけありませんが、どうして研究室に行かれるのですか」
バス停に着くまでのあいだ、リベラは後ろから訊ねた。ロッコもいちいち振りかえりはせず、さっさと前へ歩きながら答える。
「聖職にある者が学究に励むのが、そんなに珍しいですか」
教皇や枢機卿をはじめ、学士号、博士号を持つ者はいる。しかしこれから出入りしようとしている研究室は、およそ聖職者に相応しい場所とは思えない。リベラは事前に予定を聞かされたあと、そこでは何を研究しているのか、そしてそれがどのような学問か調べてみた。研究分野は民族学。ものの本には「世界の、主に未開民族の社会及び文化を研究する」とある。当然、文化というからには宗教も研究の対象となり、そこでの宗教にはキリスト教以外のいわゆる異教も含まれる。唯一正統の信仰を自称するカトリックとは、宗教の位置づけについての見解を大きく異にするわけだ。いかに科学と信仰の別はあるといえど抵抗がある。
「神学や哲学なら分かります。ですが民族学は」
そう言い終える前にロッコは足を止め、リベラに顔を向ける。
「そうでしょうか。哲学は神学を別の視点から捉えたものです。民族学でも我々の宗教、もしくは宗教的行為をまた別の視点で捉えているのですよ。それに民族学と我々は本来、相性がいいんです。何せ大航海時代以降、植民地への布教活動に伴って成立したんですから。当時の布教活動が望ましい方法であったか否かは疑問の余地がありますが」
物腰はいつもと変わらず、途中から冗談を交え顔に明らかな笑みを浮かべる。ロッコはいつもにこやかでいる一方、肝心な話になると的を外してはぐらかすなど、どこか真意の知れないところがあった。リベラはそうはさせじと礼を失するには至らぬよう食い下がる。
「民族学は、少なくとも科学です。哲学とは違います」
停留所の前まで来たそのとき、ちょうどバスが到着しドアが開く。ロッコは財布を出して足を掛けつつ、こともなげに答えた。
「とにかく、我々と異なる信仰を知るのは、決して損にはなりません」
リベラはそこでバスに揺られているのに気づき、目を覚ました。自身の服装を検めると、身につけているのは法衣ではなく普段着。時計を見るにバスが出発して五十分が経っていたが、まだ目的地には着いていない。窓の外には見慣れた風景が広がっている。
久し振りに、今は亡き師のロッコが現れる夢を見た。まだ助祭として教会で働きはじめたばかりの頃の、夢というより記憶である。リベラは、ひとり小さく首を振った。
なぜ今になって過去の記憶が甦ったのか、およその見当がついている。だが自分ひとりでは解決ができない。そのためにこうしてトリノを離れ、バスに乗っているのだ。行き先はアスティ。トリノと同じピエモンテ州、同じ教区にあって、県と小教区を異にする人口七万ほどの小さな街である。リベラが降車したのは同市住宅街にある、市庁舎ちかくの停留所だった。
すると、ほど近くに一人の男が立っていた。肩幅は広く、胴回りもがっちりとしており、背丈もリベラより高い。真っ黒な髪を短く刈りあげ、四角くえらの張った顎には青い髭の剃りあとが残っている。左のこめかみに刻まれた切り傷の痕とも相まって拳闘家を思わせる強面の持ち主だ。
「よく来たね、ルカ。ひと月ぶりかな」
「こちらこそ、パオロ。お久しぶりです」
一見、不機嫌そうな相好そのままに野太い声で話しかけてきたのは、神父のパオロ・ロマーノである。修練院時代から親交を暖めているひとつ年上の友人であり、〈聖なる厩〉教会の主任司祭にしてトリノ司教区におけるもう一人のエクソシストでもあった。リベラは同年代、同じ立場の友人へ相談を持ちかけるべくアスティを訪れたのだ。
「店は決めてるのか」
「いいえ。どこかいい店があるのですか」
「入るのは初めてなんだが、近くに新しい店ができたんだ。何でも、ちょっと変わった料理が出るそうだ。行ってみよう」
この日は、一緒に昼食を摂る約束をしていた。ロマーノの言うとおり、店はバス停から歩いて間もない古いマンションの一階にあった。いかにも開店したてらしく〈北の郷〉と銘打たれた真新しい看板が掲げられていた。同時にまだ店があること自体知られていないのか、入口に営業中の札が掛けられているのに客の姿がない。どうやらそれほど待たずに食事にありつけそうだった。
「失礼」
ロマーノが鐘の音を鳴らして扉を開けると、奥から一人の若いシェフが顔を覗かせた。顎に短い髭を生やしており、ただでさえ長身であるのにコック帽を被っているためいっそう背が高く見える。
「いらっしゃいませ。お二人でよろしいですか」
「ああ。二人で」
「ではどうぞ」
シェフに案内されるまま共に店の奥に足を踏み入れたリベラは、どこかで嗅いだような、それでいてすぐには思い出せない匂いを鼻に感じる。匂いはかなり強いものの不快ではなく、前を歩く二人も気にする様子はない。ロマーノは通りのよく見える窓際に座るなり、シェフに注文を出す。
「お薦めは何かありますか」
「日替わりのコースがあります」
「ルカもそれでいいか」
手で空気を仰ぎ、匂いを嗅いでいたリベラは動きを止めた。気になるのが自分だけであれば、わざわざ口に出すまでもない。荷物を置き、いつものようにロマーノの向かいに腰かける。
「いいですよ。貴方に任せます」
「じゃあ、それを二人前で」
「かしこまりました」
ロマーノの返事を受けたシェフは、注文票も持たず厨房へ向かっていった。客が一組だけでは間違えようもなく、そもそも品数が大して揃っていないようだ。がさごそと奥から音がして、すぐ細いボトルを手に食前酒を、次いで前菜にサラダが添えられた鰯のマリネを運んできた。
「お時間をいただきますので、ゆっくりお楽しみください」
シェフは一人で店を切り盛りしているせいか、グラスに酒を注いで皿を置くといそいそと厨房へ戻っていく。ふと見るとグラスの中が細かに泡立っていた。食前酒といえば普通はワインが出るものだが、ここではスプマンテを出すらしい。二人は軽くグラスを交わし、さっそく喉に流しこむ。
「珍しいな。どれ、上等な香りだ。鰯も鮮度が良さそうじゃないか」
「そうですね。味もいいですよ」
主任司祭である二人は食事に呼ばれる機会も多く、世間的には質素清廉と思われている職業に就いている割には味にうるさい。とりわけロマーノは気に入ったと見え、上機嫌でもういちどグラスをあおる。
「我ながらいい店を選んだな。こんなに上等のスプマンテなら、こんどアンドレアでも誘ってやろうかな」
「アンドレアって、誰でしたっけ」
「覚えてないのか。修練院で俺と同級だったアンドレアだ」
「ああ、思い出しました。でも、どうしてアンドレアの名前が出てくるのですか。そもそも今はどこにいるのですか」
「フランチェスコ修道会で各地を回ってるんだが、最近、酔っぱらったまま宿舎に帰って、訳が分からないうちにミサ用のワインを飲んだらしいんだ。そしたら運悪く古いやつで、腹を壊してひどい目に遭ったって言ってた。しかも救急車を呼ぶ寸前で、危うく新聞の三面記事に載るところだったそうだ」
ロマーノは普段の不愛想な態度に似つかわしくなく、友人やそれなりに親しい知人にはまったく別の顔を見せる。冗談を飛ばしたり誰かをからかうのも珍しくなく、酒が入るとそれが顕著に顔つきや物腰にも表れる。この日もほんの少し酒を口にしただけで表情を緩め、げらげらと笑う。
「とんだ災難でしたね。でも、貴方とはそりが合わなかったんじゃないですか」
「それは修練院のときだけだ。今はこっちに来てて、会えば話すよ」
とはいえロマーノは、昔からこんなに陽気だった訳ではない。リベラが修練院に入った頃は友人がひとりもいないと噂されるほど気難しく、同級の少年たちからもひどく嫌われていた。後になって聞けば見かねた教師が相性の良さそうなリベラを引き合わせ、徐々に性格が柔らかくなっていったのだという。かつて険悪だった仲の人間とうち解けていると耳にして年月の経過を感じるほど、二人の付きあいは長いものだった。
「で、今日わざわざ会って話したいこととは、何だ」
だからこそロマーノも、話を切りだす頃合いを心得ていた。ひととおり雑談が済ませたあと、グラスを置いて顔を引きしめる。悩みを打ちあけるのは何もこの日が初めてではなく、司祭になりたての頃や教会の運営を引き継いだ後などこれまでに何度もあった。主任司祭への叙任をはじめ出世の早いロマーノは、親友であると同時にこの上なく信頼の置ける相談相手だった。
「実はこのところ、自分で治療の儀式を執りおこなっても自信が持てないんです」
「急にどうしたんだ。何かあったか」
エクソシストでもあるロマーノは、被術者を癒すのに何が大事であるかを知っている。それは信心に他ならない。ひたすら神や天使、聖人に庇護を呼びかける悪魔祓いにおいて、信心こそが力の拠り所となる。事の深刻さを早くも汲みとったか、先ほど浮かべていた笑みはすっかり消えている。
「以前にも何回か、精神科医のシモーネ先生のお話をしましたね」
「ああ。気のいい先生だと言っていたな」
「先日、そのシモーネ先生に、どうやって儀式で患者を治しているのかと訊かれたんです。別に先生は私のやり方をどうこうしようというつもりはないのですよ。ちょっと冗談半分に仰っただけなんです。でも、うまく答えられなくて」
「何と答えたんだ」
「神の力をお取り次ぎするとしか言いようがない、と答えました」
「正しいじゃないか。その通りだ」
「パオロ。貴方はそれでよいと思いますけど」
聖職に携わる者が学究に励む場合、ほとんどが神学か哲学を選ぶ。獲得した博士号がその二つであるロマーノからすれば悪魔祓いは神の力によるもの、もしくは必ずしも科学の力で解明されるべきものではないだろうが、リベラにとっては違う。話の途中で口を噤むと、ロマーノが穏やかに呟く。
「何が原因か、何となく読めたぞ。大学の研究だな」
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