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二  朝課 ②

 教会の二階、本棚に囲まれた日当たりの悪い自室で、リベラは手元に雑誌を広げながらコーヒーに口をつけた。

「そいつは悪いとこに来ちまったな。リベラ神父」

 目の前には普段着姿の、やや背の低い小太りの男が座っていた。頭の真ん中が前から後ろまで見事に禿げあがっている代わり、口元と顎にふっさりとした髭を蓄えている。男はシモーネ・シモーネという名の精神科医だった。

「つい気を緩めて、熱狂的なカルチョのサポーターがどんなものか、忘れてました」

「なに、気落ちするこたあない。そういう連中は、今日のことなんて忘れてまたやって来るさ。まあ、あんたもよく分かってるだろうがね」

 シモーネは風貌とも相まって、精神科医らしからぬところが多々ある。砕けた物腰や大げさな身振りは、パブで飲んだくれている労働者のようだった。背後には神学の専門書が並んでおり、階段を降りれば祭壇の置かれた礼拝堂がある。傍目には、そのような男が教会を訪れるのはひどく場違いな光景に映るだろう。おまけに話の内容も、あまり教会に相応しいものではない。テーブルから取りあげた新聞の一面には、少し変わったロゴで〈デルビー〉と銘打たれている。イタリア一の発行部数を誇る競馬新聞だった。

「まあまあ、あんたにとってカルチョは二番目のスポーツだろ。最近はどうだ。こっちの方は」

「今季は始まったばかりですけどね。出だしは好調ですよ」

「おっ、羨ましいねえ」

 もっともリベラの方が、この話題を待っていた。それが証拠に自ずと身体が前に出、顔も綻ぶ。日々の聖務を忠実にこなす一方、嗜好品をほんの少し節約して浮いたわずかな小遣い程度の額で、忙しい合間を縫って楽しみにしているほとんど唯一の趣味が競馬なのだ。身の回りにいる数少ない競馬仲間の一人がシモーネであり、競馬場に足を運ぶほか、こうして競馬談義に花を咲かせるのは貴重な気分転換になる。実際に儲けが出たとなれば尚更だった。

「そうは言っても、いつまで勝てるか分かりませんから。儲けは使いこんではいません。手元に置いてあります」

「何だ。勿体ない」

「そのうち、儲けもなくなりますよ。大きな競走はローマかミラノに行かないと見られませんし、だいいちレースのある日曜は聖務がありますので、本当に余裕のある土曜の午後ぐらいしか見に行けませんからね。場数が踏めないんですから、上手くなりようもありません」

「その点、俺はたまにだったら日曜も行けるからな」

「それに最近はネアルコやテネラニのような名馬が出ていないのも残念です。ああいう馬がいれば、馬券云々を抜きにしても楽しめるんですが」

「おいおい。テネラニはともかく、ネアルコみたいな名馬はそうそう出てこないだろう」

「フランスからは、去年の凱旋門賞を勝ったタンティエームが出ていますよ。連覇を目指して今年も現役を続けています。来月にも重賞に出走するそうです」

「よその国の事情なのに、ずいぶん詳しいんだな」

「季刊の雑誌を取りよせていますからね」

 リベラは手元の分厚い雑誌を閉じ、シモーネに表紙を示してみせる。〈シュヴァル・ギャロ〉。フランスで発刊されている競馬四季報だった。聖職者の一日は説法や告解など信者との接触で費やされ、決して楽ではない。多少なりとも鬱屈は溜まる。それだけにこと競馬になるといつも多弁になるのだ。シモーネはいかにも精神科医らしく、その様子を眺めて満足そうに頷く。

「たまにはよその国の競馬に目を向けてみるのもいいかもな。しかし何だ、カルチョも競馬も楽しめるようになって良かった。ちょっと前には考えられなかったもんな。どっちも中断してた頃は、娯楽なんて言ってられなかったし。あんな戦争はまっぴら御免だ」

「ええ。私もです。二度と体験したくありません」

 二人は揃って、窓の外に広がる街を眺めた。この街は六年前、飛行機事故よりも大きな惨禍に見舞われた。欧州のみならず遠く太平洋までもが戦火に包まれた第二次世界大戦である。当初、枢軸国側として参戦したイタリアは四年ものあいだ連合国による攻撃に見舞われ、降伏後はそれまで同盟を組んでいたドイツからの攻撃に晒された。今でこそ爪痕は消えつつあるものの、国土の北部に位置するトリノが受けた被害は大きく、空襲のために少なからぬ数の人命と市庁舎をはじめ多くの建物が失われた。

「その戦争が終わったかと思ったら、今度は俺の専門、精神科の出番が増えちまった。だからこうして、俺がいちいちここまで来なきゃならなくなった。と、そろそろ本題に入るか」

 シモーネは雑談にひと区切りつけたのか、コーヒーを半ばまで飲んでから顔を引きしめる。いち精神科医が教会を訪れているのは、言うまでもなく雑談や懺悔が目的ではない。歴とした職務上の必要があるためだった。身の回りの雑物をしまい、鞄から数枚のカルテを出してテーブルに置く。

「この患者、半年まえに頼んだと思うが、様子はどうだ」

「お父さまが定期的に連れてきてくださるおかげで、順調に回復していますよ。もう少しで私の出番は終わりそうです」

 リベラは指し示される患者の名前と年齢、性別を検めてさほど間を置かずに答え、シモーネもそれぞれについてメモを取ると、一枚ずつカルテをしまう。双方とも慣れたやりとりだった。

「そいつは何よりだ。あんたに相談した甲斐があった」

「逆にあなたの目から見ると、どうなんですか」

「良くなってるよ。こっちの治療も回数を減らそうかと思ってる。外科や内科と同じように、無闇に長く続けていいもんじゃないからな」

「私もそれを聞いて安心しました。ですが似たようなことが起きないように、何らかの手を打った方がよさそうですね。もっともそちらの方はあなたの領分でしょうが」

「ああ。俺の方からも、こんど診察するときに気をつけておくよ。じゃあ、次は新しい患者の話だ。またあんたのとこに持ってきて申し訳ないんだが」

 リベラは司祭の位階を受けた神父であると同時に、ローマ教皇庁が認めるカトリック教会の公式エクソシストでもあった。このときエクソシストはバチカンのお膝元であるイタリア国内でさえもなり手が少なく、数は以前より大幅に減り、とうに世間一般からは馴染みのない存在として扱われ、中世の遺物、あるいは迷信俗信の象徴のように見なされていた。しかしながらその活動は形骸化することなく、古代や中世と比べれば規模は縮小していながらもいまだに実体を有していた。彼らは現代に至ってなおカトリックの伝統に従い、「悪魔憑き」と呼ばれる人々の救済に当たっていたのである。

 むろんそれらの活動は、社会からの要請がなければ成立しない。現代においてその橋渡し役を担うのが少数の精神科医だった。医学による回復が見込めない患者について、エクソシストに助けを求めるのである。

 いま目の前にいるシモーネもそうした医師の一人であり、リベラはこの類の相談を何度も受けている。しかもただの相談で事を済ませるのではなく、多くの場合は治療の儀式である悪魔祓い(エクソシズム)を一度は患者に試みていた。シモーネとの間柄はエクソシストの任命を受けて二年、まだ先代の司祭が健在だった頃、助祭としてこの教会に来てから数えてもう九年になる。その間に延べ何十、いや何百人もの治療を頼まれたというのに、実のところ今もまだ任務に慣れきってはいない。シモーネから毎度おなじく二、三人の患者について相談を受けたリベラは、話がひととおり済んだあとでふと呟く。

「それにしても精神科医のあなたが私を頼るなんて。やっぱり私は不思議な感じがしてしまいます」

「俺は患者を治すのが仕事だからな。しかも長丁場の場合、せいぜい話を聞いたりするくらいしかできない。それだってあくまで手段だ。目的じゃない。手に負えないならどこかに回すしかないだろ。というより驚いたのは俺の方だよ。はじめエクソシストって聞いたときは、てっきり医者を目の敵にしてるような中世の遺物だと思ってたからさ。ところが実際は、神父さんが俺たちの助けを必要としてるじゃないか」

「教皇庁も、エクソシストに心理学や精神医学の知識を備えた人物を希望していますからね」

 事実、教会内部ではそのように通達が出ていた。悪魔祓いに限らず近代以降、教会は古代や中世を思わせる迷信的な性格を拭い去ろうとする姿勢は継続してとりつづけている。ただしエクソシストの伝統的な地位を重視する守旧派たちの声によって公式文書による明文化までには至らず、あくまで通達に留まっていた。

「それに私たちがどう頑張っても専門家には敵いませんし、幸か不幸か相談にくる方すべに治療の儀式が必要な訳ではありません。思いこみがほとんどなんです。むしろ貴方が連れてくる患者さんの方が、はるかに本物の可能性が高い。感謝しますよ」

 互いに奇妙には思いながら、持ちつ持たれつの関係と言える。科学への歩みよりもただのポーズではなく、悪魔憑きか否かを正しく見分ける指標にもなっていた。そんな風にリベラが精神科医の存在を改めてありがたく思っているところへ、シモーネから意外な言葉が聞かれる。

「そう言われると、ここに通う甲斐があるってもんだ。俺がどうやっても治らなかったのに、あんたに任せて回復に向かった患者が何人もいるからね。治療の秘訣をお教えねがいたいくらいだ。特に俺でも引き出せない個人の秘密なんかを、よく聞き出せるもんだと感心するよ」

 聞き手の意表を突くというより、何気ない疑問を口にしただけだろう。しかしリベラは返答に詰まる。それこそがリベラが長いあいだ抱いている違和感だからだ。リベラ自身も儀式を受ける対象、被術者がどのような原理で癒されるのか説明できないのである。

「いや、それは何と言っていいか」

 おそらく他のエクソシストは、そんなことにいちいち悩みはしない。それどころか悩む必要も、その意志や機会すらないはずなのだ。だがリベラは、どうしても考えてしまう。その理由も分かっていた。

「冗談だよ。医者の俺にそれを教えたら、あんたが商売あがったりになっちまう。ましてやここは聖骸布の眠る霊験あらたかな街だ。秘密をべらべら喋るわけにもいかないだろう」

「ですから秘密を隠しているという意味ではなく、本当にどんな原理で患者さんを治しているのか分からないのです。強いて言えば神の力をお取り次ぎしているとしか」

 リベラは自身でもそれと分かるように口調は抑えていながら、いつの間にか声に感情を込めていた。シモーネは、カップにかけた指を止めている。

「ああ、俺も変なことを訊いちまった。忙しいとこに来て済まなかったな。もう帰るよ。今日はうちの女房の代わりに、料理を作っておいてやらなきゃならないしな」

 続けて済まなそうな顔のまま、手早く荷物をまとめて立ちあがった。リベラも腰を上げ、ともに階段を降りて礼拝堂の扉を開ける。

「今度はお昼にでもお越しください。おいしいパニーニでもお出ししますよ」

「あんまり気を遣わなくていい。だいたい、立場からすると昼をご馳走するのは俺の方だ。疲れてるようだから、無理はするなよ。勤め先に電話をかけてくれれば、いつでも診察するから」

 それからシモーネが手を振り表へ出ていくのを、いつもより長く見送った。わずかに傾きかけた陽をビルが遮り、大きな影を作る。先ほどまで暖かかったというのに、にわかに吹きつける冷たい風が法衣を擦りぬけて肌を刺すのを感じる。リベラはやや急ぎ足で教会の中へと戻っていった。


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