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一  朝課 ①


 東の空から差しこむ陽の光が、ステンドグラスを通して礼拝堂の床を赤、青、緑など色とりどりに照らしている。飾り気のないくるみ材の座席には人々が腰かけ、ある者は前を向き、ある者は俯き、またある者は浅い眠りに陥っている。そして祭壇の前では信者たちに背を向け、法衣を纏った神父が聖母像、聖人像が据えつけられた祭壇を仰ぎながら福音書を読みあげる。静かな朝の教会に、独特の韻と拍子を踏んだラテン語が響く。

「群衆のひとり答う『師よ、悪しき霊に憑かれたる我が子を御許に連れ来たれり。霊いずこにても彼に憑けば、痙攣(ひきつ)け泡を吹き、歯を食い縛り、而して痩せ衰う。御弟子たちに之を逐い出すことを請いたれど能わざりき』。

 師はここに彼らに言い給う『ああ信なき代なるかな、我いつまで汝らと偕に居らん、何時まで汝らを忍ばん。その子を我が許に連れ来たれ』。

 群衆の連れ来たる彼、イエスを見しとき、霊ただちに之を痙攣けたれば、地に倒れ、泡を吹きて転び廻る。イエスその父に問い給う『いつの頃より斯くなりしか』。

父いう『幼き時よりなり。霊しばしば彼を火のなか水の中に投げいれて亡さんとせり。されど汝なにか為し得ば、我らを憫みて助け給え』。

 イエス言い給う『為し得ばと言うか、信ずる者には凡ての事なし得らるるなり』。

 その子の父ただちに叫びて言う『われ信ず、信仰なき我を助け給え』。

 イエス群衆の走り集るを見て、穢れし霊を禁めて言ひ給う『悪しき霊よ、我、汝に命ず、この子より出でよ、重ねて入るな』。

 霊さけびて甚だしく痙攣けさせて出でしに、その子、死人の如くなりたれば、多くの者これを死にたりと言う。イエスその手を執りて起し給えば立てり。イエス家に入り給いしとき、弟子たちに問う『我等いかなれば逐い出し得ざりしか』。

 答え給う『この類は祈に由らざれば、如何にすとも出でざるなり』」

──マルコ伝 第九章十四節より

 神父は、それほど歳をとっていない。長く伸びた髪と眉、瞳は亜麻色。目もとは柔らかく、頬はうっすらと痩け、顔にはまだ青年の面影を色濃く残している。名をルカ・リベラといい、三十七歳にしてこの〈賢者の賜〉教会を取りしきる主任司祭だった。

 福音書を閉じたリベラはいちど脇に下がり、盆に載せた聖餐と葡萄酒、水を祭壇の前に置く。水を葡萄酒に注ぎ、また手を水ですすぐ。

「限りなく聖なる御父、全能にまします主、我みずからは御前に出ずる能わざるものなれども、救世主イエス・キリストがこの聖祭を定め給いし時の御旨と、今われらのために生贄となりて、御みずからを献げ給える御旨とに従い、司祭の手をもってパンと葡萄酒との供物を献げ、主が万物の主催者にましますことを称え、我らの罪を償い給わんことを乞いねがい、主の賜物なる数々の御恵みを感謝したてまつる」

 平日にわざわざ礼拝に訪れるほど敬虔な信者であれば当然ではあるが、教会に集まる人々の中に大声をあげて邪魔をしようとする者はいない。朝のミサは滞りなく進行し、ほとんど時計で計ったようにいつも同じ時間に終わる。すると参加者のうち何人かが、リベラのもとへ足を運ぶ。これも毎日の光景だった。まっさきに挨拶に訪れたのは、一件はさんで隣にある雑貨屋の老婆。髪は真っ白で小柄な身体はひどく痩せ、腰が曲がっている。

「神父さま、この間は荷物を運んでいただき、ありがとうございました」

「いいえ、たまたま通りがかっただけですよ」

「でも、このところ続けて助けてもらってるから、何だか悪くて」

「気になさらないで下さい。それよりお身体に気をつけて。特に腰を悪くしないように」

 続いてやってきたのは、二丁目の角に住んでいる食堂の女将だった。大柄ででっぷりと肥っており、歳はリベラより幾らか下であるのに年齢以上の貫禄がある。

「神父さん、先週は息子の勉強を見てくれてありがとうねえ」

「どういたしまして。その後、テストの成績はどうでしたか」

「それがね、どうも名前を書き忘れちゃったみたいなのよ。おかげで減点。ご免なさい、教えてもらったところは正解だったんだけど」

「それは災難でしたね。次からは注意するように伝えておいてください」

「大丈夫。もうきつく言っておいたから。この拳骨と一緒にね」

 リベラは彼女たちと話をしたあと、笑顔で愛想よく皆を見送る。挨拶にくる者は婦人や老人が多い。いくら平日の朝のミサといっても、よそはもう少し男たちの姿がある。

 だがこの街は他とは事情が違っていた。この教会が所在するトリノは県都であるのみならずピエモンテ州の州都でもあり、イタリア国内においても屈指の規模を誇る大都市だった。大手自動車会社フィアットが本社を置いているため、昼間から暇を持てあましている無業者が他と比べて格段に少ないのだ。

 それでも多少は職にあぶれた者はおり、ここ〈賢者の賜〉教会にもしばしばそうした男が現れる。この日もご婦人やお年寄りが話しおわるのを待って、一人の男がおぼつかない足どりでやってきた。周りがそれなりに小綺麗な格好をしているだけに余計に目立つ。作業着はぼろぼろ、頬と腹は不健康に膨れ、口の周りと顎からは無精髭が伸びていた。まだ四月の寒い季節だというのに、離れていてもきつい体臭が漂ってくる。

「リベラ神父、すまねえが、告解いいだか」

 エンリコは一年ほど前から教会にやってくるようになった、訛りのひどい、半ば路上生活者のような中年の男である。おそらくはしっかりと教育を受けられなかったのだろう、故郷に仕事もなく、街に出てはみたもののどれも長続きせず職と住居を転々としていたと聞く。リベラは黙って頷き、エンリコを目で礼拝堂の隣にある小部屋へ案内する。

 部屋には粗末な椅子が二脚と、燭台を載せたテーブルが置かれていた。何も言わずともエンリコは椅子に腰をかけ、リベラは扉を閉める。

「エンリコ、今日はどうしたのですか」

「神父さま、突然だがカルチョ(蹴球)は好きか」

「大好きです。週末、予定がないときはラジオで聴いてますよ」

 リベラも向かいに腰を下ろすと、エンリコは俯き加減に口を開いた。数回の告解に立ちあって見慣れた仕草である。

「だったら分かってくれるかも知れないけどよお。神父さまはこないだ、稼いだ金は大事にしろって言ってたよなあ。でも、おら、さっそくそれを破っちまっただ」

「カルチョというと、まさか賭けをしたのですか」

「ああ。日雇いで稼いだ金をほとんどぜんぶ注ぎこんじまっただ」

「私があれほど忠告したのに。何か理由があったのですか」

「日雇いの仲間に馬鹿にされただ。おら、ACトリノが好きなんだけどよお、そいつにトリノはもう強くならねえって言われちまって、頭に血が上って、つい賭けに乗っちまっただ。神父さまも覚えてるだろ。一昨年、何があったか」

 リベラのみならず、イタリア国民の記憶にも新しい痛ましい事故だった。戦災を挟んで一九四二年から一九四八年にかけて国内リーグを四連覇していたACトリノは、一九四九年もシーズン後半まで首位をひた走っていた。ところが飛行機の墜落事故により、搭乗していた主力選手の全員が死亡する惨禍に見舞われた。その年はどうにか優勝を果たしたものの、戦力の低下はいかんともしがたく、以降は成績の不振に喘いでいる。決まった住居もないその日暮らしのエンリコにとって、数少ない楽しみであったに違いない。現にリベラの前で涙を浮かべ、洟まで垂らしている。

「ちくしょお、あれさえなきゃなあ」

「貴方はそれをまだ引きずっているのですか」

「神父さまも代表チームが、去年の大会でどうなったか結果は知ってるだろ。せめてエースのマッツォーラさえ無事だったら、あんな負け方しなくて済んだのに」

「エンリコ、下を向いてばかりではいけませんよ」

「だどもトリノが好きで、やっと働き口を探してこの街に来た途端の話だから」

 エンリコの思い入れは相当に深いようだ。リベラは立ちあがり、部屋の隅にある棚から旧約聖書を取りだして机に広げる。毎度、誰に対してもするわけではないが、相手になかなか意図が伝わらないときには、聖書の一節を引き合いに出すことにしていた。

「これを読みなさい。ここから」

「悪いがおら、あんまり字が読めねえだ」

「ではかいつまんでお話しすると、昔むかし、ヨブという神さまに対して非常に敬虔な男が平和に暮らしていたんです。ところがこのヨブを見ていた悪魔が神さまを挑発します。『この男は確かにお前に対して敬虔だが、それはお前が健康も家族も豊かな財産も与えているからだ』と。それを受けて、神さまは試しにヨブから健康も家族も財産も、全て取りあげてしまうんです。ヨブはいちど全てを奪われて絶望するのですが、それでも神さまに対して呪いの言葉は吐きませんでした。これを見た神さまはヨブから奪った全てを返し、ヨブ自身も以前より強く神さまを敬うようになったのです」

 はからずも『ヨブ記』の解説をさせられたリベラは、大きくため息をついた。だがエンリコの悪意のない反応に、二度目のため息をつく羽目になる。

「で、神父さまは何が言いたいだか」

「ですからですね。事故があった年、あなた方は残りの試合、どうしてましたか」

「もちろん全力で応援しただ。苦しかったけど、おらもなけなしの金はたいてスタジアムに行っただ。みんな喧嘩ひとつしなかっただ」

「仲間どうしの結束は強まったでしょう」

「だどもそれだけじゃ」

「それからその年、他のチームは何をしたか、覚えていますか」

「覚えてるだ。ACトリノが不慮の事故で主力の選手を失くしたから、残りのリーグ戦、他のチームは若手選手だけ(プリマヴェーラ)で戦った。いま思い出しても涙が出るだ」

「素晴らしいスポーツマンシップ、フェア精神でしょう。たしかにあの事故は残念でしたが、あれは私たちに課された試練でもあったのだと思います。仲間どうしの結束を固めるための、フェア精神をより高めるための試練でもあったのです。選手も天に召されたのですから、私たちは悲しい出来事に遭っても、希望を見出していかなければなりません」

 エンリコはそれ以上、未練たらしい言い訳は口にしなかったが、下を向いて唇を噛みしめている。リベラはあとひと押しと見、聖書を閉じてエンリコの顔に目をやる。

「それにね、私だけでなく皆が知っているのですよ。ACトリノの選手たちの中でも、とりわけマッツォーラ選手は大事な贈りものを遺していってくれたことを。事故があったあと、トリノの大聖堂でお別れの会があったでしょう」

「おら、辛くて行けなかっただ」

「私はお手伝いに伺ったのですがね。マッツォーラ選手のまだ小さい息子さんがずっとフットボールを抱えて、会が終わるなり大聖堂の外で蹴りはじめたのですよ」

「その話、本当だか」

「嘘だと思うなら同席した人に訊いてみなさい。あの子はきっといい選手になります」

 身を乗りだしたエンリコは、靄が晴れたように瞳を輝かせた。再び腰を下ろすと、ポケットからぼろぼろの布きれを出して目もとを拭う。興奮のためかそれとも別の感情のためか、心なしか頬が赤らんでいる。

「おら、恥ずかしい真似しただな。マッツォーラの息子さんにも恥ずかしいだ」

「分かってくれればいいのです。それからエンリコ、もう少し綺麗な布で拭かないと」

 リベラはさっとハンカチを渡した。言葉で諭そうとしたが必要ないらしい。エンリコは済まなそうに頭を下げ、目だけでなく顔全体を覆う。そのまま嗚咽をもらし、一、二分たってようやく上を向いた。

「神父さまに手間かけさせちまって済まなかっただ」

「謝ることはありません。その代わり、もう二度と賭けをしてはいけませんよ。少額で済ませられるならともかく、もう何度もかなりの金額を注ぎこんでしまっているのですから」

「約束するだ。同じACトリノを応援する仲だもんな」

 エンリコがここに来るのは、食べ物に困っているか告解を受けるときと決まっており、前者はともかく後者の際は何を言われるのかと毎回心配してしまう。いくら根っからの悪人でないといってもだ。聞き役のリベラは、この日も務めを果たせたと思いほっと胸を撫でおろす。

「ええ。約束ですよ。といっても私が応援するのはACトリノではありませんが」

 リベラはにこやかに付けたしたつもりだった。たった一言、ちょっとした誤解を解こうとしたつもりだった。隣人を偽ってはならないという、聖書に基づいた良心に従った結果でもある。ところがエンリコの顔色が俄に変わった。

「何だって。神父さま、じゃあどこだ」

「ユベントスです」

 まずい雰囲気だ。たまに余計な一言で、話をややこしくしてしまうことがある。リベラはトリノ在住、相手は筋金入りのACトリノのサポーターなのだ。その大多数は同じくここトリノにホームを置くユベントスに強い対抗意識をもっている。しまったと思ったときはもう遅かった。エンリコは恨みがましい目でこちらを睨んでいた。

「はっ、ユベンティーノだか。じゃあおらと神父さまは敵どうしだ」

「お待ちなさい。敵どうしなのはスタジアムの中だけの話でしょう」

「こいつは傑作だ。やっぱり神父さまはおらのことからかってただな。もういいだ」

 続いて椅子を蹴って立ちあがり、勝手に扉を開けて出ていく。リベラは追いかけようとするが、向こうは普段から日雇い仕事で足腰を鍛えていた。早々に適わないと覚り、後ろから声をかける。

「困ったら、また来るんですよ」

 リベラは去りゆくエンリコの背中を見送ったあと、いつの間にか人気の失せた礼拝堂を眺める。告解の間に助祭たちが後片付けをしておいてくれたお陰で、座席や床に目立った汚れはない。ようやくひと休みできるかと思った矢先、正面の扉を開けてまた別の客が教会に入ってきた。

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