十四 決着 ③
とはいえ、リベラの方も神経を相当に磨り減らしていた。走り書きにしばしば目を落としては、効き目がある保証などどこにもない祈祷文を頻繁に別の言語に替えて詠みあげているのである。体力の消耗は著しく、額に滲んだ玉の汗は頬を伝い、法衣に隠れた皮膚の毛穴からは熱気が迸りでた。手に取ったノートも湿気でひどく歪む。
そこへ疲労のほどを知ってか知らずか、相手が隙を突きにかかる。
「不思議だ。貴様はこの謳い文句で、俺に勝てるとでも思っているのか」
「そうでなければお前に聞かせたりはしない」
受け答えは古代ギリシア語に落ち着いたものの、まだ声には余力がある。肉の塊に埋もれた口をねばつかせながら、メイヴがキリスト教徒に襲われた事実をことさらに強調した。
「だとしたらめでたい奴だ。考えてもみろ。あの神の僕は、この娘の口に陰茎を突っ込んで、思うように慰みものにしたんだぞ」
次いで頭を起こし、喉の奥からものの据えたような臭いとともに白い液体を吐きだす。それは紛れもない精液だった。おそらくメイヴの体内に溜めておいたのだ。使う力は先ほど首筋に血を滲ませたときより少なく、身体にかかる負担も小さい。いちいち構うまでもないだろうが、続けざまに発せられた相手の言葉にリベラは戸惑う。
「いいか、貴様が坊主でいる限り、この娘が救われることは決してない」
「なぜそうと言い切れる」
「この娘は神を信じていない。改宗をしていない」
これは罠だ。今までの方法では儀式を止めさせられないと見て、動揺を誘いにきている。ゆえに付きあってはいけない。そうと察知しつつも、見えない力でこじ開けられるように口を開いてしまう。
「だからどうしたと言うのだ」
「貴様は本当に坊主か。呆れるな。貴様らは何を根拠にこんな茶番を繰りかえしている」
「聖書だ」
「聖書のどこだ」
「マルコ伝の第九章、十四節」
嫌な予感がした。辛苦を経てつくりあげた祈祷文が、もしかすると根底の部分で誤っているのではないかとの疑念が生まれる。人ひとりが手を尽くしたからといって、どうして完全無欠と断言できよう。難題を一つ乗りこえたとしても、それで終わりとは限らない。
「そこには何と書いてある」
「イエスがある男から乞われ、一人の子どもから悪しき霊を祓ったと」
「俺は知っているぞ。そいつは神を信じた。だがこの娘はどうだ。改宗はしたのか」
相手の言うとおりだった。マルコ伝にある悪魔祓いの場面では、イエスから助けを得る条件として神への信仰を約束している。翻ってメイヴはどうか。改宗をしていない。教会より任命されたエクソシストとして儀式に当たる以上、この前提は覆せない。
「改宗はしたのか、と訊いている」
黙る間にも不安は増していく。相手がこのような形で打って出るとは考えていなかった。やはり聖句を改めるだけでは不十分だったのか、時間が足りなかったか、元からメイヴを回復させるなど不可能だったのか。
そうではない。頭をはたらかせるうちに生まれた閃きが、迷いを振りはらった。ノートに指をかけ、問答に応じる。
「いいや。改宗はしていない」
「ならば無駄ということがなぜ分からんのか」
「違うな。お前の話にこそあやがある」
「また愚にもつかぬ言い訳を」
「聞くがよい。マルコ伝で助けを求めたのも父親なら、信仰を誓ったのも父親だ。悪しき霊に憑かれた息子ではない。したがって、お前の言をもって私の祈祷を無駄と断ずることはできない」
強く叫ぶのでもない、弱く小さく呟くのでもない、静かに芯の通った声で宣しながら何度も思いかえす。相手が悪意を込めて導こうとしたように、おそらく従来一般の信徒もそうであるように、リベラも今の今まであの悪魔祓いの描写を誤って解釈していた。「為し得ばと言うか、信ずる者には凡ての事なし得らるるなり」「われ信ず、信仰なき我を助け給え」。この二つの言葉だけを拾いあげると、いかにも儀式には改宗が必要なように見える。
しかしよく話を追ってみると、それらはいずれも苛まれる子ども自身の発した言葉ではないことが読みとれる。むしろ子どもは痙攣を起こすほか、自ら火の中や水の中に身を投じようとするなど意思疎通の難しい異常な状態下にあるように描かれている。何より福音書のどこを探しても改宗したとは書かれていない。だからといってあれはただの絵空事でもなければ、イエスだからこそ為し得た奇跡でもない。あの記述こそがはじめから儀式の本質を示している。すなわち被術者が改宗せずとも、改めて神を信ずる意識がなくとも、あまねく人々を治療する術があるという事実を如実に叙述しているのだ。メイヴの治療に向けた一連の試みは、長きにわたり隠されていたか、歴史の経過とともに忘れられ、誤解のために失われていたそうした儀式本来の目的を達する術を発掘する行為に他ならなかった。
リベラは相手が怯んだのを見はからい、力を込めて聖句を詠唱する。
「我らの神の霊、父と子と聖霊、いとも聖なる三位一体、貞淑なるマリア、全ての天使および諸聖人よ、この苦しめる者の上に降り立ち給え。この苛まれる者を清め給え。主の創りし者より全ての悪の力を消し去り、滅ぼし、打ち負かし給え。さすればこの嘆き悲しめる者は、健やかなる内に御身の教えに能う言行に励まん」
これはかなり堪えたらしく、頭を激しく左右に振っては身をよじり、大声をあげて祈祷から逃れようとする。だが四肢は枷で繋がれており、いかに騒ぎたてようと自由にはならない。苦悶の色は刻一刻と鮮明さを増し、代わりに心なしか憎悪の相が薄れはじめている。
それでもなお相手は屈服しない。かなりの合間を置いて、操る言語をラテン語に変え語りかけてきた。
「貴様の行いは、神とやらへの冒涜だ」
「なぜだ」
「俺には人間どもの考えぐらいすぐに分かるぞ。貴様は神に仕える坊主の格好をしておきながら神の力に依らず、俺をこの娘から追いだそうとしている」
リベラは祈祷文を口にするのを止める。経験によって培われた勘が、儀式の断行を妨げた。ここは取りあうべきだと職能上の本能が告げている。
「そう、貴様らが科学と呼ぶ力によってだ」
相手の言う、人の心を読む力は伊達ではない。頭の中にあるリベラの考えの、まだ未成熟な部分をすかさず捉えていた。
「これが欺瞞でなくて何だ。今日まで散々に貴様らの神と神の世界を否定しつづけてきた、科学に頼ろうというのか。神の名を騙り、神に助けを求めながら」
信仰と科学、両者がいかに多くの分野で相反するかを嫌というほど味わってきたゆえにリベラはどちらを選ぼうか苦悩した。研究に携わってきた民族学も、その性質を強く備えていた。だからこそ一度は大学での研究を終わりにしようとした。
「おまけに今とは逆に、かつては信仰とやらが科学を抑圧していた。坊主なら誰でも知っているはずだ。そのうえで信者の前では素知らぬ顔をしている。卑怯にも口に出さんようにしている。ましてや科学の教えも受けた貴様が知らぬとは言わさんぞ」
いちいち名を挙げられるまでもない。カトリックであるか否かを問わず、信仰が科学を執拗に攻撃してきた歴史は万人も周知の事実となっている。過去に信仰心の薄さを糾弾された科学者は数知れず、ある科学者などは破門をちらつかされ自説を撤回させるに至った。また、ある学説は聖書に反するとして今なお非難の対象となっている。教会が先導して科学者や学説を指弾した例は幾つもある。
だがリベラはいったん返答に迷いながら、しかと相手を見下ろして口を開く。
「ああ、知っているとも」
知っている。ほぼ常識といってよい教養として身につけている。
「たしかにお前の言うようなことも過去にはあった。しかし同時に科学を志した者たちの多くは、そうした抑圧を受けつつも神への信仰を口にし、あるいは書物にも書きのこしている。彼らは科学に携わり、今日に至る礎を築きながら神を信仰していたのだ」
近代科学の始祖たちの中には、神学書を記すばかりか司祭位を得た者まであった。破門が学説を撤回させるに十分な圧力となったのも、その科学者が強く神を信仰していた証左である。彼ら科学者は、神の創造した世界を解明しようと日々の研究に邁進していた。それらは一般に広く認知されてこそいないものの、聖職に就く者であればよほど不勉強でない限り、信徒以外でも文献に触れさえすれば容易に知り得る事実だった。
「したがって教会に身を置く私が、科学の力を用いたところで神への冒涜とはならない」
「出鱈目を言うな」
「出鱈目かどうか、お前が確かめてみるがよい。私の考えのみならず、知らぬものはないその聡明な頭で、よく探ってみるがよい」
そう、かつて信仰と科学は一つだった。神の為しとげた創造の御業を理解する目的をもって誕生した科学は、後に信仰と袂を分かち別の道を歩んだ。その歩みは未来にわたって継続し、これからも両者は幾度となく相対立することだろう。しかし悪魔祓いと呼ばれる治療の儀式においては、少なくともこの瞬間だけは同じ目的のために手を携えあう。リベラが信仰か科学のどちらかを選ぼうとしていたのは誤りだった。片方を切りすててはならない。リベラは科学の力をもって、神の業を証明しようとしていた。過去に分かたれた信仰と科学が一つとなり、今まさに新たな癒しの業が生まれんとしていた。
「御身の手は広く、一滴も漏らさず水を掬うが如くなべての民を救うと信ず。御身の僕を助け、悪しき力より守り給え。この憑かれたる者を救い給えば、諸人に主の御力を説くこと適う。我にその機を与え給え。我ら主の愛を説かんとす、ゆえに今こそ御力を示し給え」
ノートに記された文言を詠みあげると、相手の苦しみ方がまたしても変わる。引きつづき苦痛に顔を歪めて言葉で反抗の意思を示しながらも、目に宿る異様な光は少しずつ小さくなっていく。身体の動きは手足の指先に時おり細かな痙攣をきたすのみとなった。
リベラの勘は当たっていた。あえてかまかけに乗ることで、逆に相手を弱らせるのに成功したのだ。施術者の信仰心を揺さぶる先刻と同じ手段に出、これしきの罠しかかけられないのを見るにかなり追いつめられているのは違いなかった。対話を重ねるうち段々と儀式の本質に、真理に近づいたおかげで相手を凌駕できているようにすら思われた。
鑑みれば事蹟の大小は別にして、リベラもかつて信仰と科学を両立させた先人たちと近い立場にいる。周囲からの圧力に晒された点も酷似していた。それを噛みしめ、ここまでの道のりが正しいことを確信する。
「聞き容れ給え、主よ、人の救い主よ、御身の使徒ペテロ、パウロ」
同時に祈りを捧げながらロマーノを偲び、異邦人の使徒に選ばれたパウロの名を胸の内で呟いた。この日を迎えるまで何かが少しでも違っていれば、もしかするとロマーノこそが新たな異邦人の使徒のごとく茴香を携え、別の形で異教徒とキリスト教徒の架け橋となったかも知れない。リベラはその役目を代わりに果たそうとしていた。
「ならびに全ての聖人の祈りを。主よ、御身の僕を御手より救い給え。主イエス・キリストの御名において汝に命じる。ただちに汝自身を滅し、主の創造物たるこの娘から去れ」
「やめろというのが分からんのか。効かぬぞ。この娘がどうなってもいいのか」
「この娘と初めて会ったときのことを覚えてるか。この娘、お前に惚れてたんだぜ。お前は坊主にしとくには勿体ないくらい見目がいいからな。そうだ、貴様が止めてくれたら、この娘を好きにしていい。姿形も元に戻してやる。知ってるだろう、この娘が極上ものだってな」
「なあ、お願いだ。それを止めてくれよ。続けるとこの娘が死んじまうよ」
もう儀式をはじめて何時間たっただろう、何度、十字架を翳し聖水を振りまいただろう。祈祷文を何十巡と繰りかえし詠唱するうちあるときを境に相手の力が急速に衰えていき、途中からメイヴの身体を材料に取り引きを持ちかけるばかりとなる。実に稚拙な誘惑だった。それに対しリベラが構わず聖句を口にすると皮膚に傷を作り、痣を浮かびあがらせ、神経にひどく障る金切り声をあげるも威圧感はなきに等しい程度にまで失われている。喉の奥から低い呻きとも声ともとれぬ熱い息を噴きだすなど、身体の動き、表情、目、すべての反応が回復の兆候を示していた。儀式を成功させるまでもう少しだ。もう少しで儀式は成功する。
リベラは頃合いをはかり、好機と見るや自らロザリオを当てて相手に命じる。
「ならばイエス・キリストと聖母マリアの名において、汝の名を名乗るのだ」
このとき疲労が溜まっているのを覚られないよう、気を張り巡らせていたつもりだった。元より緊張を緩める余裕すらなく、ひたすら相手をメイヴの身体から立ち去らせる、またはそのために名を聞きだそうとするのに集中していたつもりだった。しかし不意に感情が表に出てしまう。ほんのわずかに、焦りと苛立ちの色を声に込めてしまっていた。リベラもどこかで違和感を覚えながら、それを相手に勘づかれようとは考えていなかった。このまま力を弱らせていくものだと思いはじめていた。
ところがその直後、にわかに相手に力が甦った。瞬く間に眼光は強さを増し、顔にへばりついた肉の塊が再び醜く歪む。訝しんだリベラが目をやると、そこには信じられないものが現れていた。瘤のようなものが皮膚に次々と浮きでてはメイヴの面相を大きく変え、とうの昔に死んだはずのリベラの師、ロッコ神父の顔を形づくった。喉の奥からは、聞き覚えのある声も吐きだされる。
「やめるのです、この私を苦しめるのですか、ルカ」
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