十四 決着 ④
リベラは思わず祈祷文の詠唱を止めた。あり得ないと分かっていながら、ロッコの顔と声を前に動揺を隠せなかった。
「鎮まるがよい、虚偽の父よ。御身の僕が主を祝福し、崇めるのを妨げることを禁ず。イエス・キリストは汝に命ず。主の叡智、真実の光輝、霊と生命の言葉を敬えと」
気を取りなおして口を開くも、声に狼狽の色が表れているのが自覚できた。そしてもういちど頭の中で反芻する。これは相手の必死の抵抗だ。おそらくは最後の悪あがきのはずだ。
「聞こえないのですか、私ですよ。私が信じられないのですか。それでは古代ギリシア語にしましょう。覚えていますね、古代語をあなたに教えるとき、こうして一緒にその言葉で話をしたことを」
その間にも相手はまさにロッコ本人のように、用いる言語をイタリア語から古代ギリシア語に変えた。リベラの記憶を読みとったか、ほんらい知り得ないはずの情報を得たのだ。
「人を創り、また護り給える主よ、御身がみずからの御姿に似せて創り給うた御身の僕を見おろし給え」
リベラは唇を開いて祈祷文を唱えつつも、意識はだんだんと儀式から離れていった。目は生前のロッコ瓜二つとなった、メイヴの顔に釘付けとなっている。
「なぜ無視をするのですか。以前からこうなると分かって、また話をしたいばかりに、夢の形をとってあなたに呼びかけていたのですよ。それでも気づいてくれないものですから、今あなたを正しく導くためにこうしてこちらに戻ってきたのです」
メイヴの顔に浮かびあがったのは、実に暖かなロッコの相貌だった。優しい眼差し、常に微笑みを湛えた口元、静かに囁くような声は在りし日のそのものだった。しかもこの儀式に至るまでに、幾度かそれらを夢に見みている。面と向かって口にされるといっそう説得力が増した。
「聞きなさい。あなたは長きにわたって守られた伝統を覆そうとしていますが、それは間違いです。もしこの娘さんが治らないのだとすれば、洗礼を受けていないがために他なりません。主の救いの御手が及ばないのです。この悪魔は、いま弱ったように見せかけているだけです。ロマーノ神父がどうなったかは、あなたもご存じでしょう。悪魔を簡単に信用してはいけないと、私は教えてきたはず。他のエクソシストも同じように教えられているはずです。騙されてはいけません」
リベラはすぐさま話に応じることはせず、いちど祈祷を止める。ああした形で突然この世を去った師と言葉を交わしたかった気持ちは同じだが、簡単に信用するのは危険だった。相手が偽りを用いて、施術者を陥れた例は数え切れないほどある。
「あなたはこの悪魔祓いで、神学より科学に重きを置いて新しい方法を編みだそうとしているのでしょう。同じ使命を背負わされた私には分かります。しかし不思議に思いませんか。あなたはこの娘さんの前で、私との間柄を一度たりとて口にしなかったはずです。もし悪魔憑きが本当に科学の力をもって解明できるのであれば、このようなことは起こりえないはずです」
しかし耳を傾けるうちにその考えは変わりつつあった。たしかに相手の言うとおり、この現象は科学では説明できない。他の話は出鱈目を口走ったのが偶然に事実と合致したのだとしても、義務教育過程しか修了していない者がラテン語、古代ギリシア語、ヘブライ語を操るのは不可能だ。世間一般の常識や科学の外にあるものとしなければならない。リベラはメイヴの、ロッコの顔をじっと見つめた。
「よく考えるのです。あなたはこの娘さんを救おうと腐心したのでしょうが、そもそも人の半生を弄んでまで新しい悪魔祓いを生みだそうとする教皇庁のやり方は正しいのでしょうか。私はそうは思えません。あなたなら理解してくださるでしょう。科学と信仰心の板挟みとなるのがどれだけ辛いか。そうして私は当時の司教から言われるがまま聖務を果たしたのに、苦労が報われることはありませんでした。主の御心を測る真似はいたしませんが、教皇庁から課された使命は望ましいものではなかったのかも知れません」
後ろから歩み寄ろうとするアルトベッリを遮り、リベラはしばらく黙った。なるほど言われてみれば頷ける。自らもまたロッコとともに教皇庁から試されていたために、事実を知らされたときには同じ感情を抱いた。
「分かりますね。そうであれば、私にあなたの声を聞かせてください。誤った祈祷文ではなく、今までどおりの古いやり方で。この娘さんがどうなるにせよ、方法は一つしかないのです。どのようにすればよいか忘れてしまったのであれば、私に訊いてください。以前のように教えてあげますから」
本来そこに横たわっているメイヴの姿が見えなくなるほどに、ロッコの顔全体から眩いばかりの優しさが溢れでていた。声も歌うように、囁きかけるように心地よく耳に聞こえた。リベラは慎重に言葉を選びながら問いかける。
「では、ひとつお答えください。あなたはどちらから来られたのですか」
そしてロッコの出方を見た。その口からどんな答えが返ってくるのか、ただ無心に顔を眺めていた。
「残念ながら、神の御許ではありません」
「なぜです。私とともに聖職に全てを捧げてきたあなたが」
「教皇庁に従い、本来あるべき悪魔祓いを歪めようとした罪のためです。ただ、あなたの誤りを正せばそれが赦されます」
「それはつまり、地獄ではないのですね」
「ええ。あなたが元の正しい道に戻るだけで、私は神の御許に導かれます。さあ、どうか早く」
突如、リベラの視界から光が消えた。ロッコの姿を象っていた肉の塊は溶けて消え去り、その下からは醜く膨れあがったメイヴの顔が現れる。ロッコの言葉は、紛れもないまやかしだった。科学はもちろん神学においても、どんなに譲ったところで地獄に捕らわれた者以外が、死霊となってこの世に現れることはあり得ない。リベラは目を見開き、再び手元のノートに焦点を移した。
「今こそ出ていけ、偽る者よ。出ていくがよい。汝の住処は蛇、汝の家は砂漠。汝、我に跪き、ひれ伏すがよい。汝にもはや、時は残されていない」
「止めろ。俺はお前のことを何でも知ってるんだぞ。俺に分からないことはない。熱い、熱い。身体が焼かれる。助けてくれ、ルカ」
相手はラテン語に戻り、元の低く太い声を地鳴りのように響かせ唸りをあげる。相手は苦し紛れに臨終する間際のロッコをまことしやかに演じたのであろうが、もはや騙されるリベラではなかった。相手の正体が何であろうと、リベラの試みが正しいか否かを左右する問題ではない。これは新しい儀式を生みだすために神が与えた試練なのだ。まだ虚ろなメイヴの瞳をじっと見つめ、ひときわ大きな声で祈祷文を唱える。
「主は汝と汝の天使のために永遠の炎を創りたもうた。その口から鋭き剣が出で、主は炎によって、生ける者と死せる者、時を裁くであろう」
相手ははじめの頃の鋭い金切り声を再びあげ、繋がれた枷を引きちぎらんばかりに両の手足をばたつかせる。アルトベッリが十字架を当て、聖水を振りまくとそれは激しさを増した。リベラはこの機を逃すまいと、さらに声音を高めて問いかける。
「今こそ全能なる主、イエス・キリスト、聖母マリアの御名において、汝の名を答えよ。答えるのだ」
メイヴの腕は天を突くように高々と突きあげられ、その先端から伸びる指はやがて涎まみれの唇を左右に広げた。それから絶叫が限りなく高く細くなったかと思うと潮が引いたように苦悶の相が薄れ、その場に会した誰の耳にも届きながら誰のものとも判別のできない、大きいとも小さいともつかぬ声ではっきり答える。
「懐疑」
途端に身体に込められていた力が消え、糸が切れたように四肢が投げだされた。メイヴはほんの一瞬だけ気を失い、すぐに瞼を開けて頭を左右に向け母のキアラを探す。
「お母さん。お母さん、どこにいるの」
身体こそ分厚い肉の塊に覆われたままではあるが、声と物腰は正気のメイヴに戻っている。また瞳からも異様な光は消え、自身の姿と部屋の風景を見まわして怯えてもいた。それらの反応を目のあたりにしたキアラは、はじめは恐るおそる、次いで堰を切ったように大股でベッドに駆けよる。
「おお、メイヴ。お母さんよ、分かるのね」
キアラは両腕をきつく背中に回し、横からメイヴを抱きしめた。メイヴもところどころ皮膚に皺の寄った腕をキアラの背中に添える。
「お母さん。私、恐かった。とにかく恐かった。それから身体が重いわ。私、どうなってるの」
「大丈夫よ、じきに治るわ。だから安心して」
リベラはしばらくその様子を眺めてから、やっと胸を撫でおろした。天井や壁にこびりついていた血の痕と部屋に漂っていた異様な空気は、霧のように薄れていった。ひとまず治療は成功したと見てよい。後ろのアルトベッリも、息をついて得も言われぬ微笑みを浮かべていた。シモーネ医師夫妻も互いに手を取りあって互いに肩を抱いた。
半年後、リベラは教会でシモーネとテーブルを囲み、昼食を摂っていた。休業日のシモーネはいつものように普段着姿で、パニーニを豪快に頬張る。こんど機会があるとき振る舞うと以前に約束したパニーニだった。空からは燦々と陽の光が降りそそぎ、イタリアのこの季節にしては珍しく乾いた風がリベラの頬を撫でる。
「例のアスティにいるコノリーさんの娘さんだが、俺の目から見てももう大丈夫だ。こないだ親御さんに、もう月に一回も連れてこなくていいと言っておいた」
この日、シモーネは依頼を受けた患者の経過報告をするため、教会を訪れていた。口にしているのは、紛れもなくメイヴのことである。
「本当ですか。精神科医のあなたの診断でも」
「ああ。俺がなんど診てもおかしくはならない。家でもまったく大人しいそうだ」
「それは何より。私も一か月前に儀式は止めていますから、ようやく元の生活に戻れたわけですね」
「事件そのものの傷は残るだろうがね。ただそれ以外は心配なさそうだ。外見も、あんなことがあったなんてぜんぜん分からないくらいだしな」
リベラも、メイヴが心身ともに回復していく様子を直に見ている。あれから同じやり方でより穏やかな儀式を、頻度ははじめ週に一度、しばらく様子を見て二週に一度と間隔を延ばしながら何度か行った。その度ごとに精神的な落ち着きを得ていったばかりでなく、肥え太った身体からは徐々に余分な肉が除かれていき、いちど抜けおちた髪は再び頭から艶やかに生え、荒れていた肌もきめの細かさが蘇り、今はもう輝かんばかりの美しい元の姿を取りもどしている。あの騒ぎがあったために母娘は住まいを変えたが国内には留まり、母のキアラは時期を見て服飾店を再開する予定だという。
「ところで、今日このあと時間はあるのか」
シモーネは、いつの間にか薄いパン生地を余さず胃袋にしまい込んでいた。あとはコーヒーしか残っていない。大きな手で、小さなカップを持ちあげ口元に運ぶ。
「すみません。これから学会でして」
「学会だって。大学での研究は止めたんじゃなかったのか」
「それが、続けることにしたのですよ」
リベラはパニーニを囓り、窓の外に広がるトリノの街を眺めた。一度は目を背けた民族学の知識と、研究者としての勘、嗅覚が役に立った。おそらくこの先も必要になるときが来るだろう。未だに治療の儀式を執りおこなうに当たって矛盾を感じることはあるものの、研究を止めようとは思わなくなっていた。この一件でロマーノは命を落とした。それはどう足掻いても覆しようがない、リベラに最も深く刻みつけられた傷となった。だからこそその死を無駄には出来なかった。遺志を継ぎ、課せられた使命を共に全うすべく長い茨の道を歩む決意を固めていた。
「どういう心境の変化かは分からんが、あんたがそうしたいならそれでいい」
シモーネがどう捉えたかは知らない。ただ、歓迎されるのは素直に嬉しく思う。やはり精神科医の立場からしても、科学の目を共有できる相手の方が話もしやすいのだろう。もしかすると、将来は神学や哲学以外の知識を兼ね備えた、リベラのようなエクソシストが増えるのかも知れない。上機嫌となったシモーネはコーヒーを最後の一滴まで飲みほし、荷物をまとめて腰を上げた。
「これから予定があるなら、邪魔しちゃ悪いな。そうそう、最後に訊きたかった。あの母娘、改宗はしてないのか」
シモーネは片手で鞄を持ち、もう片方の手で扉を押し開けた。リベラも見送りのために立ちあがり、まだ日付の新しい競馬新聞を手に階段を降りていく。二人とも教会の出入り口の前で、名残惜しそうに立ち止まった。
「そもそもがキリスト教徒でないことに目をつけられて乱暴されましたからね。お母さまからも、ご本人からもお話はありませんでしたよ」
「助けてもらったんだから、それくらいしても良さそうなもんだ」
「かといって、魔女宗の集まりに参加しているとも聞いていません。集まり自体は別のところで開かれているらしいのですが。私も治療が優先ですから、もうその話はしません」
「何にせよ、ちょっと残念だったな。この件で改宗してくれれば、いい宣伝にもなったろうに」
「そこまではうまくいきませんよ。個人の話を吹聴するわけにもいかないでしょう」
「それにしては機嫌がいいな」
「やはり、そう見えますか」
リベラが手に握っている競馬新聞には「凱旋門賞連覇のタンティエーム 種付けを開始」との記事が掲載されている。あの儀式のあと、お気に入りのタンティエームは前年同様、凱旋門賞に優勝していた。レース開始まぎわに馬券を買っておいたおかげで、シモーネに出した昼食の足しにもなった。
「ああ。あんたも前より元気になって何よりだ。じゃ、もう行くよ。また来月にでも来るから」
「ええ。お待ちしてますよ」
シモーネは靴の踵を直しながら、軒先から表通りへと出ていった。大仕事がひと段落して時間的な余裕のできたリベラは、その姿が見えなくなるまで見送る。たしかにシモーネの言うとおり、あれだけ労を割いた割に見返りは少なかった。教皇庁から褒章の類を受けたわけでもなく、メイヴの一件が世間で評判になったわけでもない。しかし元よりそうした見返りは求めておらず、司教も教皇庁も報酬など約束していなかった。
それにリベラはこの件を教皇庁に報告し、ある答えを得られただけで満足している。近い将来に教義や典礼を巡る大きな動きがあり、治療の儀式も新しく生まれ変わるであろうと伝えられたのである。事実、この翌年には典礼書にそれまで通達文に過ぎなかった精神科医の協力を仰ぐ旨、精神医学の知識を備えるべしとの注意が正式に記載され、悪魔祓いの祈祷文もリベラが編みだした文言を元に大きく書き改められた。
またピウス十二世の遺志を受け継いだヨハネ二十三世によってさらに九年後に第二バチカン公会議が開かれ、典礼や教義のあり方とともに悪魔祓いも新たな時代に相応しいものを恒久的に採用していく方針が決定づけられた。リベラの辿った軌跡が、典礼の一分野にとどまらず教会全体に大きな影響を及ぼしたのだ。その報せが聖骸布の眠る街トリノの〈賢者の賜物〉教会に届けられたのは、メイヴの治療を成功させたのと同じ木曜日の夜のことだった。
参考文献
『エクソシスト』 ウィリアム・ピーター・プラッティ 宇野利泰訳 創元推理文庫
『ザ・ライト エクソシストの真実』 マット・バグリオ 小学館文庫
『エクソシストとの対話』 島村菜津 小額館
『エクソシストは語る』 ガブリエル・アモース エンデルレ書店
『ベナンダンティ』 カルロ・ギンスブルク せりか書房
『福音書』 塚本虎二訳 岩波文庫
『公教会祈祷文』(明治二十八年版) 天主公教会編 天主公教会
最後までお読みいただき,誠にありがとうございました。感想と評価をいただければ幸いです。よろしくお願いします。




