十四 決着 ②
「まさに馬鹿の一つ覚えだな。貴様、それが効かないのが理解できんのか」
相手の顔は、この段になって醜怪さを増していた。眼と口に嘲笑の色を浮かべ、頬と目元の肉を歪に盛りあげる。肥大化した身体には相当の圧迫感があった。
「栄えある大天使聖ミカエル、天軍の総帥、権勢と能力にしてこの闇の世の支配者なる悪霊との恐るべき戦いにおいてわれらを護り給え。主がその御姿に似せて創り給い、悪魔の暴虐より大いなる代価もて贖い給いし人類を助けに来たり給え。今日、聖なる天使らとともに、主の戦を戦い給え。御身に抗する力なく最早天国の場所なき傲慢の天使らの首謀者ルチフェルと反逆の輩に対して、かつて御身が戦い給いしごとく戦い給え。悪魔もしくはサタンと呼ばれ、全世界を誘惑せし、この陰惨なる古の蛇は、その天使らとともに深淵に投げ込まれたり」
「この俺の声が聞こえないようだな。もう馬鹿馬鹿しい芝居はしてやらんぞ。お前の力はそんなものか。もっとだ。もっと聞かせろ」
リベラが神経を尖らせて注意を向けるに、相手は決して虚勢を張っているわけではない。苦しむ素振りはまったく窺えず、瞳から放たれる光は大きくなるばかり。その反応はリベラが大天使聖ミカエルへの祈りを捧げたとき、サタンを追いつめる文句を詠唱したとき特に顕著に表れた。アルトベッリがロザリオを近づけるとやはり皮膚が赤黒くただれ、肉の焼けるような嫌な臭いが辺りに満ちる。それでいて苦悶の表情は微塵も見せない。また聖水がベッドに届くや否や、まるで熱い鉄にかかったように煙をあげて蒸発した。祈祷文を詠みあげるごとに、むしろ全身に力を漲らせていく。従来の祈祷文しか知らないエクソシストは、これに絶望するか挑発に乗って無理やり祈祷を続け、体力と気力が尽きたところを相手に付けこまれ屈してしまうに違いなかった。
旧来の典礼書で効き目がないのは、これで間違いない。今こそ新しい祈祷文を試すときだ。儀式に用いるのはもちろん、はっきりと声に出すのさえ初めてだった。密かに再び覚えつつあった不安を、聖句の練りこみに何日もかけた労苦を思いかえし打ち消す。相手がまったく堪えていないのを見届けると、リベラはアルトベッリとともに祈祷書を置くや代わりにノートを取りあげた。相手は鎌首をもたげ、訝しげにそれらを覗く。
「その紙切れに何が書いてある」
リベラは、問いに答えなかった。ここまで旧来の典礼書に則って儀式を進めたのは、単なる様子見のためだけではない。これから試そうとする新しい祈祷文をより効果的にすべく、相手の意表を突く狙いがあった。
「人を創り、また護り給える主よ、御身がみずからの御姿に似せて創り給うた御身の僕を見おろし給え」
リベラが唱えたのは聖書でも福音書でも、古くから用いられてきた聖句のいずれでもなかった。旧来のものとはまったく違う、一から作りあげた新しい祈祷文だった。
「今さら何を。この娘は貴様の言う、神の僕に犯されたんだぞ。効くはずがあるまい」
「古の敵は御身の僕を無慈悲にも苛み、荒々しき力で押さえ、残忍なる恐怖にて苦しめむ。ゆえに今こそ聖霊を遣わし給え。御身の僕へ敵に抗いうる力を与え、祈りを唱え苦難に耐えさしめ、御力によりて励まし給え」
三日三晩、書物と己の心に向かいあいながら徹底して貫いたのは、民族学者としての、科学者としての考えだった。カトリックによる治療の儀式は異教の祈祷師と同じく、被術者を放心、あるいは忘我状態に導く。だからこそ精神科医による通常の問診では聞きだせなかった、苦痛の真の原因を知ることができる。そこまでうまくいかなくとも、片鱗を掴むことができる。つまりエクソシストが治療を成功させるには、忘我状態にある相手から信頼を得、互いに意志の疎通を成立させなければならない。よってキリスト教徒以外にも効果をもたせるならば、まず対話を拒絶する要素を避ける必要がある。
そのために行ったのが、被術者をいたずらに刺激する文言の排除だった。歴史上、キリスト教徒は自らと信仰を違える者を異教徒と呼び、ときには彼らの神をサタンをはじめとする悪魔とみなし攻撃してきた。被術者がそうして攻撃されてきた側におり、それらの事実を把握している場合はもちろん、ましてやメイヴに関してはそこに付けいれられ虐げられた経緯があることを鑑みると、従来の祈祷で冒頭に唱えられてきた文句は新しい時代に適したものとは言えない。〈地獄〉や〈サタン〉といった呼称はキリスト教徒以外の人間を刺激し、自らを悪魔と攻撃していると受けとられる可能性がある。ゆえにリベラはそこから〈悪魔〉という言葉さえも取り除いた。
「苦しまぎれに適当なごたくまで並べよったか。無駄だと言っておるのが分からんとは」
効果は確実に表れていた。アルトベッリがロザリオを近づけても皮膚は傷つかず、代わりにメイヴの口から命令口調の言葉に続いて獣のごとき咆哮が放たれたのだ。
「やめろ。今すぐにやめろ──」
これまでと比べると一段と太い、床や壁まで揺るがさんばかりの大きな声だった。力が弱っていては、強がりは言えても聖別されたものを掲げられては偽りを通すことはできない。まったく予想だにしない新しい祈祷文で不意を突かれれば尚更だった。リベラは試しに、相手に問いかける。
「苦しいのなら楽にしてやる。お前が名を明かせばな」
「無理だな。この娘をこんな目に遇わせた神の力で、救えるものか」
「ならば救ってみせよう。お前は主の御力を嫌でも思い知ることになるだろう」
「何を言うかと思えば、ただの強弁か」
祈祷文の効き目は、メイヴの肉体に外見上の変化をもたらすには至らないまでも仕草や発散する空気にも反映されつつあった。先ほどまでどこかが人を騙すようなところがあったのが、枷がなければ四肢を伸ばして襲いかかってきそうな殺気とも呼べる意思を剥きだしにしてきている。ロマーノが儀式を行った際はその差に気づく余裕がなかったか、それとも施術者を欺くだけの力を相手が失いつつあるのか、ともかくリベラは間を空けずに手元のノートを詠みあげる。
「願わくはあらゆる邪なる者を無力とし、追放されんことを。禍々しき謀を退けんことを。而して御身の僕に為された忌まわしき振る舞いを駆逐されんことを。妬みと悪意の憚るところ、善と忍耐、勝利と慈愛を与え給え。主よ、御身の広き御手と御腕を伸ばし、我らを助け、我らの肉体と魂を守り給えるよう願い奉る」
またリベラの考えだした祈祷文は、苦しみ苛まれる者を励ますべく神の加護が及ぶよう祈る点で旧来のそれと違っていた。従前は悪魔と呼ばれていたものに対し、何度も言葉ではっきりと退散を迫るのだ。リベラは何度も「立ち去れ」「命ず」の言葉を厳しく大きな声で口にする。
「汝に命ず。主が御姿に似せ創られ給いしこの者から立ち去れ」
「人々の古き敵よ、ここより退け」
「我は主イエス・キリストの名において命ず。今すぐにこの場より消え去るがよい」
実態はどうであれ、悪魔をおそらく演じている相手に合わせつつ、儀式の対象となる者から苦難、苦痛の原因となるものに対して出ていくよう「命じる」。リベラは痛みを受けとめ助けを求める声を聞きながら、ひたすらに心を砕くのが治癒のための最良の方法であることを見出していた。そこには非キリスト教徒をはじめ予備知識のない者には明確な意図が汲みとれない、ヨハネ黙示録を思わせる長々とした祈祷の文句は不要だった。
それが証拠に、儀式が成功しつつある兆候が他にも窺えるようになった。相手は苦痛のあまり誰かに掴みかからんとするためか、あるいは威嚇か、四、五度ほど枷を壊さんばかりに四肢を持ちあげる。リベラはいちど身を固めて警戒する一方、以前はここまでの抵抗をしなかった点をしかと検めた。また詠唱を繰りかえすたびに相手の手足の動きが大人しくなっていき、やがてベッドに縛りつけられたように足掻くのを止めるのを目にし、改めて新たな聖句の効力を肌身に感じた。
しかしあるときを境にメイヴの回復が止まり、逆に相手の声に力が戻りはじめる。再び威嚇するかのように、四肢を細かに揺りうごかしていた。
「効かぬな」
声の調子からしても虚勢ではない。再び嘲笑を浮かべ、ヘブライ語を口にしている。
「なんど唱えても無駄だ」
「なぜ効かぬと言いきれる」
リベラはラテン語で応じるも、相手はヘブライ語で答える。瞳の光をいっそう強め、口の端を吊りあげた。
「それは自分で考えろ。この俺が教えてやるとでも思ったか」
「たしかにお前の言うとおりだな」
「さあ、どうする」
平素を装いつつノートに記した祈祷文をラテン語で唱えるも、相手はヘブライ語で得意げに罵声を浴びせてくる。
「坊主どもは、揃いも揃って能なしばかりのようだ」
「ずいぶんと心地いい歌声だ。もっと聞かせてみてくれ」
「どうした、怒らんか。そんな生易しい調子で俺をどうにかできると思ったか」
「あれしきで図に乗るとは」
この状態が続けば、メイヴの回復は難しくなる。顧みれば、儀式に臨むにあたって新たな祈祷文のみでは万全を期したとはいえない。言葉を選りぬき形にするので精一杯だった。しかしリベラは挑発には乗らない。具体的な根拠もなく儀式を成功させる、そうと強いて思い込まざるを得なかったロマーノの二の轍は踏むまいとした。相手を弱らせられないのには何か要因があるはず。現に文言を新たにした聖句は、一度は相手を苦しめている。だとすれば、その後に相手がどう変わったかが謎を解く鍵となるのではないか。
膠着状態を保ったまま考えを巡らせていると、しばらくしてある解に思いあたった。リベラは手元の祈祷文を、これまでのラテン語からヘブライ語に替えて詠みあげる。
「聞き容れ給え、いとも聖なる主よ、御身に乞い願うわれらの呻きを。御身の僕が虚偽の父の虜にならぬよう、その聖霊の宮に不浄の霊を住まわせぬよう御力を賜し給え」
すると相手の反応が変わった。やはり虚勢ではなく、新たな祈祷文を聞かせた当初のように野太い声で喘ぎだす。
「そのような坊主の文句が、この俺に、やめろ。止めろ」
リベラの予測は当たっていた。相手はメイヴの耳で理解できる言語を制限することで、祈祷文を無力なものとした。ならば祈祷文の言語も合わせてやればよい。儀式が対話の積み重ねによって成立しているという、精神医学の解釈に照らし合わせても十分な説明がつく。言葉の意味が伝わらなければ、対話による治癒に繋がらないからだ。もちろん神秘性を保つべく出来うる限り韻を踏むのも忘れない。
相手は相当に堪えるらしく、操る言語をたびたび変えてリベラを惑わそうと試みる。これにはリベラも同じ言語に合わせて祈りを唱えた。フランス語、英語のほか、口の奥で子音を発声するヘブライ語、規則的に畳語の表れ、声帯を振動させる古代ギリシア語、規則正しくアクセントの置かれるラテン語が入りみだれて部屋に響きわたる。
「不浄の霊よ、出ていくがよい」
「出ていけと言われて、出ていくとでも思っているのか」
「真実と慈愛の聖霊を知れ。そは汝の罠を壊し、汝の嘘を破る」
「俺は嘘など言っていない。この娘にどんな災いが降りかかったか教えてやっただけだ」
「汝に告げる。汝の傲慢と嫉妬は罰を受けるであろう」
「貴様が俺を罰するだと、そんな真似が」
「主よ、御身の僕を救い、守り給え」
「止めろよ、止めてくれ。そのやり方は間違ってるんだ、ルカ。そんなのじゃ効かないんだ。私が命に代えて本当の、正しい祈祷文を唱えたのに、君はそれを無駄にするつもりか。頼むから止めてくれ」
相手の苦しみようは、いちいち耳を澄ませる必要もないほど露わになっていた。どうにか儀式を止めさせようと、声色を真似て途中から言葉をイタリア語に変え、あたかもロマーノの意識が乗り移ったかのごとく首筋に血を滲ませて懇願してくる。しかし実際に相手の前でロマーノは息絶えたのだ。シーツに染となって広がる血も、白地に赤が目立つだけで生命の危機に瀕するほどの量ではない。見え透いた芝居に惑わされるまでもなかった。キリスト教徒に傷つけられた非キリスト教徒をどのように救うかひたすら腐心し、さらにはこの場で不測の事態を、相手の策を打開した経緯が精神をいっそう強固にしていた。
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