表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/34

十四 決着 ①

 それはリベラの体力が回復して一週間と経たない、水曜日の昼過ぎのことだった。教会に一本の電話が入ったのである。相手がアルトベッリであると聞いたときからただごとではないと予感し、急ぎ足で電話口へと向かった。

「大変です」

 受話器越しに聞こえる声からは、緊張し焦る様子が窺える。どうやら名前を告げる余裕もないらしい。

「どうされましたか」

「あの娘さんの容態が急変しました」

 リベラは息を潜め、呼吸を整えた。誰かに聞こえてはいまいかと周囲を見まわす。急の用件を耳にしても驚きはない。この話が出るのを当たり前のように受けとめていた。

「しかし、検邪聖省は」

「すでに手を引いています。急遽、検邪聖省の者が施術を試みましたが、まったく効き目がなかったばかりか一人が目を、もう一人が耳を潰され、恐怖のあまりついには誰も被術者に近づこうとすらしなくなってしまいました。また教皇猊下からも直々のご指示がありました。娘さんは非常に稀有な背景をもった被術者であり、悪魔祓いを考察するうえで貴重な存在ではありますが、人道に反してまでこれ以上の事実検証を継続してはならない、人命を優先するように、検邪聖省に代わってあなたが治療に当たるようにと」

「ということは、お話を通してくださったのですね」

「ええ」

 約束どおり、アルトベッリが時機を掴んでくれた。メイヴの容態と検邪聖省の動向に注視し、リベラが指名されるよう取りはからってくれたのだ。

「シモーネ夫妻は、今どちらに」

「すでに娘さんのご自宅で対応に当たっています。このところは体調が特に優れないせいでしょう、夫妻のどちらかが常に傍についていたようです」

「内科のシモーナ先生がいても、危ないのですか。容態が変わったのはいつ頃ですか」

「三日前と聞きました。内科の診察結果も以前より深刻で、外見にも明らかな変化があるそうです。私も電話でその旨を確認しましたが、果たして本当か信じられないでいます」

 アルトベッリ自身も愛弟子を失い、このまま引き下がる気はないのだろう。しかしたとえ新しい祈祷文が一応の形になっているとしても、キリスト教徒でないメイヴに効果があるかどうかはまったくの未知数だった。だからこそアルトベッリは、電話口の向こうでしばらく黙っているのだ。

「私が参ります。大司教もお越しください」

「リベラ神父」

 リベラが進んで名乗りでてもなお躊躇しているのか、大きく唾を呑みこむのが聞こえる。この申し出は、かねてから頭にあったものだった。教皇庁はいわば人ふたり、ロッコを含めれば三人の半生を使って実験を行ったのだ。アルトベッリが主導したわけではないにせよ、追従していたからには顛末を見届ける義務がある。その思いが伝わったか、ひと呼吸おいて答えが返ってくる。

「よろしいのですか。私ではお役に立てないかも知れませんよ」

「そのようなことはありません。パオロと二人がかりで相対しても敵わなかったのです。一人よりは二人の方が成功する見込みは大きいはずです。もちろん私が主となって執りおこないます。不躾とは存じますが、儀式の最中は私の補佐をお願いいたします」

「分かりました。私もアスティへ向かいます。ただ出先で報せを受けたところですので、大聖堂からお迎えには行けません。リベラ神父、急いで来られますか」

「はい。予備のお金は手元にあります」

「では」

 アルトベッリが電話を切るのを確かめ、リベラも受話器を置いた。すぐさまフィオーレを呼び、手招きをする。

「急ぎの用事ができました。タクシーの手配をしてください」

 それから階段を駆けのぼり、部屋に戻ると荷物をまとめた。棚から従来の祈祷書を取りだし、ロザリオや聖水とともに鞄に放りこむ。あとは財布。よその教会では高額なタクシー代に充てられる持ち合わせはないだろうが、幸運にも手元には競馬で得たいくらかの儲けがあった。箪笥からその全てを抜きとり、懐にしまう。

 そして最後に新しい祈祷文を記したノートを開いた。ひとまず文献は当たりつくし、寝る間を惜しんでの作業はひと段落したものの、当然ながら準備は万全とは言えない。これから既存のやり方から大きく逸脱した、まったく新しい儀式を執りおこなおうとしているのである。可能であれば何らかの機会に、一度の失敗では大事には至らない被術者にでも試しておけば少しは心持ちも違ったかも知れなかった。しかしそれも遅い。メイヴのような被術者など滅多に現れるものではない。その新しい方法を用いなければならないときは目の前にまで迫っている。リベラはもはや逃げ道など残されていないことを再び覚り、これまで積みかさねてきた努力は無駄ではなかったはずだと幾度も思いかえし、ノートを鞄に入れて口を閉じるなり階段を駆けおりていった。


 アスティのマンションに到着すると、キアラが真っ先に出迎えてきた。顔は青ざめてやつれ、表情、物腰、仕草すべて一面に悲嘆の色を露わにしている。服装も着の身着のまま、何日も替えていないのか垢の匂いさえ漂わせていた。

「ようこそお越しくださいました。お待ちしていましたの」

「お話はおよそお聞きしています。上がってもよろしいですか」

「どうぞ。さあ、早く。大司教さまもお越しになっています」

 キアラの反応を一瞥するだけでも、メイヴの状態がいっそう尋常でないことが窺えた。いちど治療に失敗したばかりか、検邪聖省の対応から教会に不信感を抱いているはずなのにアルトベッリを迎えいれ、リベラに対しても頭を下げては半ば気が触れたように何度も両手を握りしめる。まさしく生命の危機が迫っているのだ。

 リビングでは、すでに先客ふたりがソファに腰かけていた。一人はアルトベッリ。リベラの姿を見とめるなり、慌ただしく手招きする。法衣を纏い、首からはストラを掛け、いつでも儀式に取りかかれる出でたちでいた。

「リベラ神父、お待ちしていました」

 もう一人はシモーネ。汚れた白衣、乱れた身なりを見るにここで何日も寝ずの番をしていたのだろう。アルトベッリとの挨拶も済んでいるようだ。

「ようやく来てくれたか。大司教さまと少し待ったぞ」

 やはり態度にいつもの余裕はなく、表情はきわめて険しい。

「急いでくれ。もう俺の手には負えん」

「今はどんな状態ですか」

「とにかく見てくれ。部屋では女房がついている。尋常じゃないのはひと目みれば分かる」

 トリノからタクシーでの長距離移動を経て、間髪入れず被術者の前に通されるのは性急ではあった。しかしもはや一刻の猶予もない。この事態を想定していたリベラは、車中で出来うる限り心身を休めていた。時計の針は五時半を回ろうとしている。空では陽がほとんど地平線に沈んでいた。荷物を手にしたまま腰も落ち着けず、キアラを含めた三人へ目くばせをして深く頷く。

「参りましょう」

 そして促されるままリビングを素通りし、アルトベッリに加えシモーネ、キアラを連れてメイヴのもとへ向かう。部屋へ近づくにつれ、垢と糞尿のひどい臭いが漂ってきた。先頭に立つリベラは行く手に広がる光景を想像しながら、扉の取っ手を握り手前に引く。同時に強烈な刺激が鼻孔を襲ったが、それすらも忘れさせるほど信じがたいものが目に飛びこんできた。

 ベッドに横たわるメイヴはかつて骸骨のように痩せ細っていたのが嘘のように、このときはまるで豚とも何かの四足獣ともつかぬほど肥え太っていた。リベラがアルトベッリとともに歩みよるとその異様な姿がはっきりと目に映る。胴体や四肢だけでなく、顔もメイヴと知らされなければまったく判別できないほど変貌しており、全身が元の骨格を想像するのさえ難しいほど肉の塊で膨れあがっていた。何より以前は張りを失ってなお生えてはいた髪が無残にも抜けおち、枕元に散らばって頭皮が露わになっている。くわえてどのような原因かは知れないが、壁や天井には飛びちった血の痕がところどころに赤黒く刻まれ、辺りは腐敗した臓物を思わせる不快な臭気に満ちていた。足下に広がる垂れながしの糞尿とも相まって、カーテンで遮られた薄暗い部屋全体に取り憑くものの力がまとわりつき、メイヴの臓器が根を張って蠢いているように感じられた。

「なぜ、このような姿に」

 リベラが呟くと、すぐ傍でシモーナが脈を取りながら答えた。服装はくたびれ、全身に疲労感を漂わせながら、神経だけは異様に張りつめた様子でいる。

「分からない。少し前までは点滴を打っても痩せていってたのに、ある日を境に今度は急激に太りはじめたの。だから点滴の量を減らした途端に今度は呼吸と脈拍が不安定になって、仕方なく最初の頃と同じくらいに戻しても回復しない。こんな状態がもう二日、三日も続いてる」

「おまけに娘さんの身体を使って、血飛沫を散らして威嚇までした。いや、それだけじゃない」

 後ろからシモーネがベッドに近づき、ランプの光でメイヴの顔を照らした。

「検邪聖省の人間ふたりに危害まで加えたのは、聞いていると思う。どうやっているかは分からんが、間違いなくそいつの力で一人が眼球破裂、もう一人が鼓膜穿孔を引きおこした。ここ十数時間は常に狂暴な言動を繰りかえすようになってる」

 二人の会話が聞こえているのか、ベッドの上で分厚い瞼が開かれるのが見えた。肉に埋もれて小さく狭まった瞳には、以前よりはるかに強い憎悪と知性を湛えた光を宿している。

「お前か、また来たのか。懲りない奴だ。このあいだ別の奴の後ろで震えてたな」

 大きく変化した体格に相応しく、声は地の底から這いでるように低く太い。唇からは濃度の高い唾液が糸を引いて溢れ、喉の奥からは強い胃酸の臭いを漂わせていた。メイヴ本人が言葉を発しているのでないのは、二度も相まみえたリベラには即座に分かった。力を誇示するように、本来はメイヴが操れるはずのないラテン語を操っている。

「何をしにきた。無駄だというのが分からんのか」

 好都合だった。取り憑くものがちょうど表に出てきている。この機を逸しては、メイヴの身体がより深刻な損傷を受ける恐れがあった。リベラは鞄からメモの束を取りだし、アルトベッリに手渡す。

「私と一緒に、お願いします」

「これを。あなたが考えだしたのですね」

 小声での短いやりとりだけで意図が伝わった。アルトベッリは薄暗がりの中で素早く目を通し、首を縦に振る。これで用意は整った。リベラはストラを首に掛けてベッドの際にまで歩み寄り、シモーネ夫妻とキアラの三人に身振りで後ろへ下がるよう促す。それから相手に向かって、見下ろす形で答えてみせた。

「懲りるものか。何が何でもお前をそこから追いだしてやる」

 リベラは新しい祈祷文を記したノートを傍らに置き、まずは従来どおりの典礼書を手に取って広げた。後ろでアルトベッリも同様に祈祷文を詠みあげる。

「汝を滅ぼさん、いとも汚れし霊よ。すべての悪の力よ、地獄からの濫入者たちよ、すべての悪霊たちの群れよ、イエス・キリストの御名において汝を滅ぼし、神の創りし者から立ち去らせん」

 口にする言語は典礼に則ったラテン語であり、文言も旧来の祈祷文どおり。むろん効果があるとは考えていない。祈祷書をめくりながら相手の反応に目を配る。アルトベッリが手にロザリオを持ち、メイヴの身体に近づけた。

「くだらぬこけおどした。何の真似だ」

「お前に口を割らせるために唱えているのだ」

「効かぬと言っているのが分からんのか」

 相手は効かないと言ってはいる。しかし本当にその通りかどうかを見極める必要があった。ロマーノは挑発に乗り、半ば激昂していた。それも治療に失敗した原因の一つだろう。従来の祈祷文を唱えたからといって、すぐさまリベラらにも危害が及ぶようには見えない。逸る気持ちを抑え、まずは祈祷文をひととおり詠みあげる。

「われらの主なるイエス・キリストの御名によりて、主の御母にして終生貞淑なるマリア、および大天使聖ミカエル、使徒聖ペトロ、および諸聖人の取りなしに強められ、我らは諸聖人の信頼のうえに悪魔の攻撃及び欺きを追放せん。主は敵を追い散らし、主を憎む者を退け給う。かまどの煙の消え入るが如く、火の前に蝋の流るるが如く、主の御前にて悪を滅ぼさん」

お読みいただきまして,感想と評価をいただければ幸いです。よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ